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―記念文倉庫―

音もなく降り積もる白いものの中を、少年は何度も往復していた。
最初に、離れの庭の片隅に足を向けたのは、池に張る氷を取り上げて見る為だ。それを空に向けて透かし見れば、まるで水底から見上げたような景色が見える。
けれどその時、氷は既に粉々に砕かれていて、その昏い淵に人の姿を半ばまで呑み込んでいた。
見た事もない顔だった。
俯せにした横顔は未だ若く、自分の賦役と同じか、それより少し下くらいの。そんな若者は、少年に回りに他にはいない。
次に、そこから自分の住む離れの対屋を往復したのは、腰まで水に浸かったままピクリともしない青年の為に、唐櫃から自分の内着を持って来る為だった。
そうして恐る恐る声を掛けてみたが反応はなかった。
次に大きな声で怒鳴りながら肩を揺さぶっても反応なし。
死んでいるのか?とは思ったが、その青年の口元には微かに白い吐息が散っていた。
次に、誰か大人を呼んで来なくては、と思って引き返したのだが、さて、自分の為に動いてくれる大人がいただろうか。
乳母である喜多は今日は確か城から下がっている筈だし、回り番の徒士はあと一刻はしないと回って来ない筈だ。奥向きの雑用係である下男は何時も侍女らに顎でこき使われて忙しそうだったし、自分の賦役はと言えば、午を回らねば登城していてもやって来ない筈だ。父やその他の重臣たちと大事な話があるとかで。
結局、思い悩んだ挙げ句、自分の部屋から角火鉢を持って来る事にした。
寒がりの自分の為に賦役が整えてくれたものだが、8歳を越えたばかりの少年にしてみたら、ちょっと荷が勝ち過ぎる程の大きさのそれ。
濡れ縁までは引き摺って、そこから庭に下ろすのがまた一苦労で。何度も角火鉢をひっくり返しそうになった。
そこから雪の中を引き摺って行くのも一苦労。
積もった雪があるとは言え、砂利に突っ掛かったり、盛り土のある所で持ち上げたり、とそのまろい頬を真っ赤にしながら何とか運び切った。
そうして、水の中から引き上げてやる事が出来ない彼の手をそこに翳して暖めてやる。時折息を吹きかけ、自分の真っ赤に腫れた両手で揉んでやりながら。
そうしながら青年の横顔を凝っと見下ろしたりした。
雪に溶け込んでしまう程に蒼白い頬は細っそりとしているが、弱々しい印象は受けない。通った鼻梁と秀でた額はしっかりとした男らしいものだった。
そんな中で長い睫毛が縁取る瞼が時折ぴくりと動く。
ふと気付いた。
濡れて張り付いた前髪の影に見え隠れする黒い紐。
そろそろと右手を伸ばして、なるべく肌に触れないように前髪を退かせば、それは伏せた右目を覆う眼帯に続いているようだった。
「―――…」
自分と同じだ、と思ったその時。
「梵天丸様」
聞き慣れた声が、少なからず焦りを見せた色を帯びて呼ぶのにばっとばかりに振り返った。
ふよふよと粉雪が舞い散る中を漆黒の小袖小袴姿の賦役が駆け寄って来る所だった。今日はずいぶん来るのが早いな、と思いつつ、助かった、と言う安堵の方が勝った。
「小十郎、この者を早くひきあげてくれ」
鼻の頭を少しばかり赤くした男は、その場を一瞥して状況を確認すると、取りも直さず先ず少年を、そして角火鉢を抱え上げて足早に離れの一間へ取って返した。
「小十郎!」
「先ずは貴方様の御身が第一でござりますれば」
「だって凍え死んでしまう」
「それがあの者の定めならば」
「………」
何時だってそうだ。
この賦役は、賦役と言う端た勤めであろうと誠実に過ぎる程勤勉に勤め上げようとする。それに揺るぎがない。梵天丸自身の願いであっても聞き届けない程に。
そうして、小さな身体を奥の間にそっと置き、角火鉢の灰を足して火を掻き起こし、替えの着物を引っ張り出したりと甲斐甲斐しく世話を焼く。
「小十郎、もうよい。着替えなど自分でするから、あの者をすけてこい」
「しかし…」
「この梵天を何もできぬと愚弄するか!」
時折見せる激しい勘気を梵天丸はこの時もぴりりと発した。
そうすると、小十郎は渋々と言った風ではあったが従わざるを得ず、用意した着物をそこに置いて立ち上がった。

小十郎は庭の隅に取って返して池の端にしゃがみ込んだ。
この雪にこの寒さ、確かに放っておけば夜を待たずに死んでしまうだろう。
だが何故、あの幼い伊達の子がこの若者に拘るのか彼も気付いた。右目にされているであろう眼帯、今は雪の上に伏せてしまっているそれに何か感じるものがあったのだろう。
―――同病相哀れむ、か?
消え行く生命を前にそよとも揺らがない心持ちのまま、小十郎はその若者を軽々と水から引き上げてやった。


自分の身体がごろごろと転がされているような不快な感覚の中、政宗は遠退いていた意識が徐々に戻って来るのを感じていた。
そうしていきなり腕に走る激痛だ。
「いっっってえっっ!!!!!」
思わず叫んで跳ね起きていた。
その視界に映ったものと言えば、雪の代わりにもうもうと立ち籠める湯気であり、何故か親の仇でも睨むように見据える青年の真面目腐った顔形であり、そしてその傍らから真ん丸の左目を好奇の色に輝かせている子供の見知った有様だった。
―――デ・ジャ・ヴー…。
姿見に自分の姿を映す事は殆どなかった政宗は、その子供の錦の綿入れの模様を遥かな記憶の奥底から引っ張り上げて心中そんな事を呟いていた。
むしろあれ?と思ったのは賦役の方だ。こいつこんな冷たい顔してたっけ?と、つい最近まで見慣れた面影と思わず見比べてしまう。
暫時の沈黙。
「よかったな、生き返ったぞ!」
やがて声を上げたのは梵天丸の方で、その事でようやく状況を把握しようと言う気になった。
政宗は彼らと共に湯殿にいた。
彼らは袖や裾を括った様子だが、自分はその板間に全裸で寝転がされて、湯を浴びせられた。凍えた肌がその湯の温度を痛い程に感じてしまったようだ。そのような事らしい。その地べたに尻を付いて身を起こしてみれば何の事はないが、寺の裏山からいきなり記憶がすっ飛んでいたので、それを整理するのに手間取った。
「…梵天丸様、この者はこの通り無事ですので室へお戻り下さい」
若い頃の小十郎が低い声で傍らの子供にそう言ってやる。
梵天丸はそれで満足したのか、スッキリした面持ちで立ち上がると「まかせたぞ」などと言って立ち去って行った。
―――何がまかせたぞ、だ、偉そうに―――。
我が事なのに鼻持ちならないように思って、その小さな背を見送っていた政宗の鼻先に、すう、と音もなく小太刀が突き出された。
「何者だ、貴様」と男が低く尋ねる。
低いと言うよりもはやそれは陰気と言って良い。政宗の記憶にある彼の声は低くともまろく、時には甘やかな色を伴っていた筈だ。政宗は黙って若い賦役を見つめた。
「応えろ、何者だ」
更に刃は耳の下の首筋に押し付けられる。
小十郎の昏い瞳を見返しながら尚も押し黙っていた政宗は、やがて薄く笑った。
「伊達藤次郎政宗…あのガキの10年後の姿だ」
賦役の瞳に戸惑いが揺れた。
「信じらんねえだろうけどな。…あ、お前や喜多くらいしか知らねえ事、証してやろうか?例えばそうだな…」
少し考える素振りで言葉を切り、ポンと掌を打つ。
「右の尻のすぐ下にあるホクロ、2つ並んでるだろ。そいつが俺にも」
「動くな」
身を起こして背を向けようとしたら鋭く遮られた。
だが、迷いは強くなったようだ。確かに梵天丸にも言われた通りの場所に、言われた通りのホクロがあったからだ。
だとしても、おいそれとは呑み込める筈もなかった。
「小十郎」と政宗が、かつての賦役の名を呼ぶ。
「暫く俺を匿ってくれよ。少しの間で良いんだ、直ぐに消えるから」
「………」
その、唯一の左目が真摯に願い出て来るのに絆された、と言う訳でもないだろうが、賦役は即答を避けた。自らの主が気に入って側に置いておきたい、と言い出せば自分の考えは消え失せるからだ。
ただ、あの少年の身に危害が加えられさえしなければ良いのだ。
「………っくしょいっっ!」
沈黙の隙間に盛大なくしゃみが落ちた。
小十郎は興醒めしたような表情に戻り、静かに立ち上がる。
「俺はその衝立ての向こうにいる…おかしな行動をしたら斬るぞ」
ずず、と鼻を啜っていた政宗は立ち去る後ろ姿に向かって「Very well, sir.」と少々厭味っぽく呟いた。


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