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―記念文倉庫―
8●
「I shake to and fro….
This narrow birdcage which intertwines with each other darkly deeply.
Till when are you here?」

闇の中、微かに掠れた声が響いて男は着物を整える手を止めた。
主人が異国語を話す時は、何かを告げたいが日本語では上手い表現が見つからない、と言った場合が多かった。この時も重ね続けた夜の果てに何か思う所があったのだろう。その意図を聞く為に、男は褥の傍らに膝をにじり寄せた。
明かりの落ちた居室は妻戸も閉め切って、そこに横たわる人のシルエットでさえ見分けられない。だが、そこにその人はいる、とはっきり感じられる。
「何です?」
「大した事ない」
「………」
「歌だ」と主人は言った。

「"Is it taken its ease if I say to somebody?"
"Is it taken its ease if I cling to somebody?"
"Will the inside of this cage be happy?"
"Will the outside of this cage be happy?"」

「確かに」と男は言った。
「韻を踏んでいるようですな、優れた詩人の歌なのでしょう」
男の生真面目な返しに、彼の人は薄く笑った。
「無名の若造だよ、今はまだ」
「今は、まだ―――」

「Let me watch only a dream as it is.
I shake to and fro….
This narrow birdcage which intertwines with each other darkly deeply.
Till when am I here?
As for the few tomorrow, an answer is lonely.
Does the beautiful flower bloom for this voice that has become refined?
My heart that lets you touch it nobody.」

何故か、男は異国語を理解する事も出来ないクセに、主人の声が射干玉の闇に溶けて行くのを聞いている内に切なさに嘆息した。
「何時まで続くんだろうな…」
ぽつりと落ちた主の声。
荒々しさや猛々しさが徐々に隠されて行くこの時期の彼は、男との関係を思い悩んでいた。もう若さから来る勢いや情熱、あるいは色事への興味と言ったものから卒業しつつある年代だ。それでなくとも彼は早熟だった。この頃の武将の例に違わず。
現在の野上なら、10を幾つか過ぎた頃の少年を性の対象として見る事など絶対認められなかったろう。
「貴方が望まれる限りは」と、男は無粋に応えた。
そうじゃないだろう、と野上は思う。
男はこの頃も、これからも、主を主としてだけでなく1人の男として、1人の人間として想い続ける。その想いを吐露する事はなかったが、それは消し難い恋慕の情として燻り続けるのだ。
一方、主人はあれこれ思い悩み、一度は断とうとさえする。
その際に今、彼は立っていた。
「望まれる限りは、か…」
呟いて彼は身じろぎした。

「Where is near my heart far distantly?
Eternal, disappointment, and reality. Remember only too briefly.
The sky and a gloomy shadow.
Under the moonlight….」

この時、彼を有無も言わさず抱き締めていたら、と野上は思う。
その後の数年間に亘る遠回りを回避出来たばかりか、もう一段階高次で深く2人は理解し合えたのではないだろうか。
だが、記憶の中の自分は全くの朴念仁で、余り融通も効かない性格であったから、こう返すのみだった。
「その歌の意味を教えては下さらないのですか」と。
一瞬黙り込んだ彼は、男を鼻で笑った。
それは力ない笑いだった。
「おととい来やがれ」
憎まれ口を退出の契機と見た男は「御免」と低く囁き、微かに頭を下げると音も立てず主人の床の間から出て行った。

何故あの時、彼の不安を察する事が出来なかったのだ、と野上は向ける先のない憤りを噛み締める。何処までも、何時までだって彼は主人で、自分はその側近中の側近だと高を括っていたのか。明日の生命をも知れぬ戦国武将なら、その一刹那に全て身を預けてしまえば良かったのではないのか。
今現在のように、同性愛者だ、未成年相手の異常性愛だなどと社会から叩き出される事もないのだから―――。

だが野上には分かっていた。
蒼い闇に沈む寝室で、肉の薄い青年の体を汗塗れになるまで攻め立てた後、快い怠さの内にベッドに寝転がりながら息を整える。
今ですら、彼がここを出て行くと言ったら自分は黙って見送るだろう。今も昔も、男は男自身でしかなかった。
隣で同じように荒いだ息を納める青年が身じろぎした。
「おい…」
もう一度、強請るような口付けを落として来る相手に野上は低く囁いた。
「明日はまだ学校だろ」
その肩を掴んで上体を引き上げてやると、窓から差し込む月光の中に青年の容貌を覗き込んだ。
その、疲れ切った表情。怠さの内に未だ艶を含んで自分を見下ろす影に沈んだ左目。何度も貪った唇が濡れて、半開きのまま白い歯を零すその、奇跡―――。
「…一杯しよ…って言った…」
そうして男の腰の上に乗り上がり、男の体を弄りながら何度も何度も唇を合わせ、舌を忍び込ませて来る。
帰った野上の為に豪勢な食事を作って待っていた徹だ。何気なく会話を交わしながら夕食を済ませ、風呂に入り、後は寝るだけの段になって、まるでそうするのが予定であったように徹は男に身を預けて来た。野上も、それを当たり前のように受け入れていた。
口付けの最中、青年の舌についた傷に気付いた男に対し、彼は「口内炎だ」などと抜かしたが、それを鵜呑みにする程男は単純でも鈍感でもなかった。でなければ小説家などと言う人の心の機微に直接触れる仕事などやっていない。
学校の事もそろそろ限界か、と思っていた所だ。
現在では、過去よりももっと慎重にならねば自分の立場も青年の身も守れない、とそう分かっている。
もう一度、野上は徹の体を引き起こした。
「…心配かけて済まなかった。そのせいでお前が疲れてんのは良く分かってる。だから今夜は休め」
「………」
「やるなら週末に一杯してやる、だから、な?」
優しく言い聞かせて来る男の声が、何故か心に突き刺さる。

ぽた、た。

と顔の上から降り掛かるものに男はぎょっとなった。
声を殺し、深い息の中でひっそりと泣く青年は、何か告げたい事があるのに言葉に出来ない、と言った様子だ。異国語を手に入れられなかった徹は感情の持って行き場を喪くしている、野上にはそう思われた。
男は体を起こして青年を傍らに座らせながら抱き締めた。
「何だ、何時も強気の奴は何処行った、ただの風邪だろ?」
ちょっと困ったような笑い含みの声が、憎らしい。
徹は微かに首を振って男の肩口に頬を押し付けた。
語られる言葉はなかったが、それだけで徹の想いには気付こうと言うものだ。この上どんな建前を説いて彼を納得させねばならぬのだろう。
「困った奴だな…」
「………」徹が何事か呟いた。
「ん?」
青年の口元に耳を寄せて聞き返す野上の頭を、両腕で絡め寄せて、徹は語り尽くせぬ想いの数々を一言に載せて、言った。

「野上さんが好きだ」

「………」
何かを応えようとした男の唇を、青年の情熱のそれが覆って塞いでしまった。
学校も大事、家族や友人や、その他の往き過ぎて行く人々の存在も、とてもとても大事。その上で尚、この男の前では全て吹き飛んでしまう。この鮮烈さは何時まで続くものなのか、そんな事は徹だって知らない。

ただ、現在だけが―――

あればいい、などとは言えない。いや、言わない。
徹は深く絡み合った口付けを解いて、男の顔を覗き込んだ。
「…俺を、見ろ―――」
掠れた声で囁かれるのに野上は、その頬を流れ落ちたものの痕跡を指先でなぞる。
「あんたの中を俺で一杯にしてやるから…」
何を今更、と男は思いかけ、ふと気付く。
徹は、野上が自分ではなく他の誰かの面影を追ってこうしているのだと思い込んでいる事に。
違うそれはお前自身の事だ、と言えたらどんなに楽になれただろうか。自分も、彼も。
だが、思い出せない過去などに意味はない。

ただ、現在の彼を―――

こうして抱き締める他はない。



口付けを繰り返し、ただ大事に青年の体をゆっくり愛撫しながら抱き締めている間に、どうやら徹は眠ってしまったらしい。
意識を失ったしどけない身体をベッドに横たえ、素肌の上にタオルケットを掛けてやる。無防備に寝顔を晒し、安心し切って眠る青年は非道く子供っぽかった。
その閉じた両目に落ちかかる前髪をそっと掌で撫で下ろす。
くすぐったいのか、青年は少し唸りながら顔を横へ傾けてしまった。
野上は彼の体の上に覆い被さり、その伸びやかな首筋に唇を落とすだけのキスをした。
少し体を起こし、それから思い直して彼の耳元に唇を寄せる。
「……………」
そうして、声のない囁きだけで彼の先程の台詞への答えを落とした。

振り返った窓の外を、気の早い小鳥たちが通り過ぎて行った。
地上40階の蒼白い楽園に水底のような朝の光が僅かに忍び込む。
先程まで鋭利な光を投げ掛けていた満月は、西の空に沈もうとしていた。
自分がいて、確かに「生きた」記憶があり、そしてここにあの人はいる。
その現在が、現実が、ただ目の前に広がっていた。



20110918
   SSSpecial thanks!

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