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―記念文倉庫―

次の日も普通に学校へ行った。
起きた時に枕に血が付いていたが、切れた舌の血はもう止まっていた。痺れは残っているものの喋れない程ではない。喋りにくかったが。
泉川と添島のその後の態度が気になった、と言うのもある。
そして案の定、校内の徹を知る学生たちの態度は冷ややかなものだった。噂に噂が重なり、幾つもの憶測が飛び交っているようだ。
個人的に徹に話し掛けて来る者はいなかった。
あの添島ですら彼を避けていた。
自分の心の中に動揺はあるか、と徹は自問した。
動揺と言うより得体の知れないものへの憤りは確かにあった。人間と言うのは集団になって個々人が消えた時、強引な程悪意の塊となる。あれは、病んだ個体への集中攻撃として働き、正常を取り戻す浄化作用なのかも知れなかった。

若い担任に呼び出されたのは昼休みの事だ。
社会担当の彼は自分の城であるその準備室に徹を呼び出し、他の生徒の眼のない所でゆったりと構えた。
「噂の事は…知ってるよな、斎原?」
「噂だろ。本当の事なんて何も知らない連中の」
「―――」
落ち着いた様子で担任が進めた丸椅子に腰掛ける徹は、肩にも、体の何処にも力の入っていない様子で切り返して来た。その冷淡と言うか、強硬と言うか、そんな態度に担任は少しの間口を噤んだ。
「本当の事…な…」
そう呟いて、暫く何事かを幾度か逡巡する。言おうか言うまいか悩みながら視線を泳がせつつ、何度か徹を盗み見たりする。
「実はな…先生たちは皆知ってるんだ…教頭も、校長でさえも…」
その衝撃の事実にも徹は眉根一つ動かさない。あの男が徹を休ませる為に学校に連絡を入れているのを徹は知っていたし、全て任せていた。
徹自身は後で自分で適当に言い繕っておくから無断欠席にしておけ、と野上に言い放っていたのだが、そうすると両親に話が飛んで行く。心配させるのは飛んだ親不孝だぞ、と言って彼は自ら電話を手に取った。
どうやらその男の話は教師たちを納得させたらしく、徹は別段呼び出しを喰らう事もなく過ごして来た。だが、その事が生徒たちの間では噂へと発展して行った。
しょっちゅう欠席する事実、その度に父親でもないらしい男から掛かって来る連絡の電話。自宅に帰っていないのは多分、妹のクラスメイトから知り合いの知り合いを通じて流れて来た情報だろう。
有象無象の集団がどのように面白ろ可笑しく物語を捏造して楽しんでいようと、徹にはそれを黙殺する自信があった。自分でも驚く程頭の中は冷め切っていて、その上非道く客観的だった。
「知ってるって?」
だから、何食わぬ顔で問い返す事が出来る。
「お前が休む度に連絡を入れて来る男性は小説家だと言うじゃないか。お前、その人の所に弟子入りして仕事手伝ってるんだろ?」
担任の言葉に、徹の片眉が僅かに上がる。
「その人に黙ってて欲しいって言われてたんだ。他ならぬ斎原、お前に口止めされてるからって。それに…相手も名の知れた人物だ。騒ぎを大きくする訳にも行かないし、でも対処には校長も迷っていた」
担任の逡巡は、続く言葉の為だった。彼は、ひたと徹を見つめると必死とも取れる表情を振り向けてこう言ったのだ。
「お前が将来を真剣に考えてその道に進みたいって言うなら、先生も応援したいと思う。でも、それは今じゃなきゃ駄目なのか?高校卒業してからじゃ遅いのか?」
油断したら吹き出しそうだった。
学校を欠席する理由を捏造した男の話術の巧みさもそうだが、それを真に受けて真剣に一人の生徒の将来を思い遣りまるで道化そのものの担任も、可笑しかった。

だが―――

それ以上に、自分なんかの為にどうやら本物の小説家である事を明かしたらしい野上も、生徒の気持ちを思い世間体よりも夢や希望を第一に考えようとしてくれた担任も、愛おしい人間、だった。
クラスメイトに男に体を売って自堕落な生活をしてる者がいる、と思い込んで攻撃して来た添島でさえも、自分の物差しでしか物事を捉えられない静川でさえも、

ちいさくて、
かなしくて、
おろかしくて、
あいらしい、
人間だった。

―――ああ、何だ。俺は一人きりじゃなかったのか。
と、徹は拍子抜けするぐらいあっさりとそこに思い至った。
野上が病院に運ばれ、全くの孤独に取り残されたと思っていたのに世界との関わりは断たれてはいなかったのだ。
それが好意であれ悪意であれ、自分は人間たちの世界で生きている、生かされている。その証拠がここに全て出揃っていた。
当たり前の事なのに、気付かなかった。
見ようとしなかったのだ。
徹は愛おしい哀しさをひっそりと感じつつ、自分を凝っと見つめて来る担任を顧みた。
「先生…今しかない事って本当にあるんだ。先延ばしにしたらもう興味も情熱も失せてるかも知れねえ。そう思うと今、夢中になってる間にその中に飛び込んじまいたいって」
「………」
徹の言わんとする所は、担任にも呑み込めたようだ。人はそうした時期を人生の中で一度は経験する。もしくは経験したいと願うものだ。担任にも身に覚えがあったのかも知れない。
「…せめて、本当の事を皆に言ったらどうだ?知らないからあんな噂が広まるんだろう…その、体を売ってるとか何とか……」
「今更だろ、そんな事公表したらたぶん噂に拍車が掛かるだけだ。それに、あの人にこれ以上迷惑かけたくない。小説家の命なんてどんな事で終わるか分からねえんだから…。それ言ったら、今のこの噂が立ってるってだけでも十分危険なんだろう。俺は下手に動かない方が良いと思う」
担任は溜め息を吐いた。
徹の推測は恐らく正しい。疑いの眼で見られている最中、それまで隠されて来た事物が開帳されれば、それは単なる新たな噂の呼び水にしかならない。そんな事の繰り返しがテレビで垂れ流されているではないか。
「放っておけば良い」
最後に徹はそう言って口を閉ざした。
「肩身が狭いだろう」
畳み掛けるような担任の言葉にもただ黙って首を振る。
もう一度担任は息を吐いた。
そうだ、大人である自分たちが噂に振り回されてどうする。せっかく情熱を傾けられる対象を見つけた希有な学生が、根拠のない噂にも負けず自分で立っていると言うのに。そう思いを改めた担任は、自分の膝に両手を突いて「わかった」と言った。
「先生たちはお前の味方だからな。…実は、彼のファンだって言う女性教師も少なくないんだ。俺たちは応援している」
ふと徹は担任の顔を眺めた。
無邪気に野上の作り話を信じているまだ二十代の若い男だ。彼も他の教師も真実を知れば当然生徒たちと同じ反応を示すだろう。それも又、彼らが生きている事の証しなのだ。そしてそれを受け止める自分も。
話は終わった、と言うように徹は椅子から立ち上がった。
それを担任が呼び止める「なあ斎原」何処か照れ臭そうに。
「その…小説家先生のサイン、とか―――」
「カンベンしてよ、センセー」
ぴしゃり、と言い返してやった。
はは、だよなーなどと照れ隠しに笑うのを放っておいて、社会科準備室から出て行った。
1人になってふと廊下の途中で立ち止まる。
裏庭で、残暑の日差しに輝く庭木があっけらかんとしてざわめいていた。



学校が終わって今日は真っ直ぐ帰った。当然、野上のマンションにだ。
その途中、この付近の臨海副都心の一角には、整備された区画の中にだだっ広い公園がいくつもあった。新興マンションに入居する家族の為に、無機質にならない程度に配慮された結果だ。勿論コンビニもスーパーケットも自転車で行ける距離に点在する。
それでも、江戸の昔から時間と共に積み重ねられて来た"生活"と言うものを持たないベイエリアは、素っ気ない町づくりになりがちだ。そこで運動広場であったり、アスレチック遊具の置かれた公園であったり、バーベキュー施設を持った公共の場が出来る。
高層マンションの谷間に突如出現する緑の海。
徹はそこを短くなってだいぶ傾いた日差しの中、ゆっくりと歩いた。
ちらほらと蝉が鳴いている。
近所の母子連れが自転車を押しながら緑の草地に引かれた細い小路を楽しげに行く。
蒸し暑さの中にも秋の気配は濃厚だった。
野球をする小学生たちの声が遠く聞こえた。
鈍痛の続く舌を指先でちょっと触ってみると、歯列の形に添って腫れているのが分かった。添島が何故あんな行動に出たのか、などと言うのはどうでも良かった。
本当に自分は死ぬ気だったのか。
野上以外の誰かに辱めを受けるぐらいだったら、舌の一つや二つ噛み切ったって訳ないと思った。それ程までに、どうしようもないくらいあの男に惹かれている。
他の部分では笑える程冷静なのに、それだけは如何ともし難かった。
分かっているのはそれだけだ。

例え自分が野上の中の誰かの身代わりだとしても。

「徹くん?」
呼ばれて思考を中断した徹は声のした方を振り向いた。
泉佳鏡だった。
彼女は歩道から公園内に入って来た所で、彼女の背後ではタクシーが一台滑るように走り出して行った。
「今ちょっと野上くんのマンションに行って来た所。…担当者がクレジットカードや保険証なんかを取りに行くのに1人じゃ心許ないって言ってね。野上くん、今日退院するよ?」
「ああ、知ってます」
「…余り嬉しそうじゃないね」
「そんな事―――」
「それとも、わたしの存在が」
「………」
こぢんまりした女性は、上品そうな茶系のパンツスーツに身を包んで、育ちも私生活においても品行方正な気色を纏っていた。人に避難されるような事はかつて一度も犯した事がありません、と言った様子だ。
人は誰しも自分が正しいと思った道を歩みたいと願うだろう。
「不安、なのかな」
独り言のように呟かれた台詞に徹は顔を上げた。
「野上くんとの関係が」
そう静かに告げた女史は、一体自分を敵と見なすだろうか、それとも矯正すべき異端子だと。
「…そうか、きみのせいだったんだね…」
返事をせずにいると、泉は暮れなずむ公園を見渡しながら続けて言う。
「彼の文が彩り豊かになったのって、やっぱり」
それこそ独り言のようだった。
徹は野上の文がどうのと言った事は分からない。これまでに何度か原稿のタイプ打ちを手伝っているが、文章を追うだけで内容までは頭に入って来ないからだ。更には以前男がどんな文章を書いていたのかなど、知りもしない。野上の心理に自分がどう言った影響を与えているか、それも考えた事がなかった。
「わたしは島根の山村から出て来た田舎娘だった」
語り出した泉の視線は、傍らを歩き過ぎる学生の2人連れを微かに追った。
「東京は刺激的な土地よね。何をしに来たのか余り自覚がないまま、よく遊んだ。バブル景気真っ直中だったし。いろいろ、遊んだ。危険な目にもいろいろ合った。暴力団が今なんかよりよっぽど幅を効かせていたし、皆とにかく強気だった。その時の経験がわたしの作品たちに反映していると言うのはある。今は…だから刺激が足りなくて」
最後に泉は照れ笑いのようなものを浮かべた。
徹はその意味が分からなくて、表情だけで彼女に問うた。
「今、小説を書く気が起きないのは、たぶん退屈だから」
思わず呆れたような表情をしてしまったのだろう。終に泉は声に出して笑った。徹の顔が如何にも面白い、と言うように。
「野上くんに知った風な口を効いて苦言を呈した時、ああわたしも終わったなって思った」
徹は泉の視線を追って、暮れなずむ夕陽を公園の木立の間に透かし見た。

「きみは、どこまでその鮮烈さを持ち続けられる?」

最後の問いは、落ちかかる漆黒の影に吸い込まれて行った。幾ばくかの羨望と、幾ばくかの挑発を含んで。


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