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―記念文倉庫―

ガラスの割れる音がして、静川は後ろから伸びて来た腕に首根っこを絞り上げられた。瞬く間の展開に、徹は左目を見開いたまま静川を捻り上げた添島を見上げた。
傍らには、カーペットに落ちたグラスから盛大に冷たいお茶が溢れていて、落とした際に重なり合った2個のグラスがぐしゃりと潰れていた。
「自分の眼で確かめた訳でもねえのに…他人を詰る権利がお前の何処にある…?」
やけに低めた声が添島の歪んだ口から吐き出された。
それに応える声はない。
いや、元より首を絞められた状態の静川は、げえげえと喉を鳴らすばかりで反論する余地もない。顔も白目も真っ赤に充血して来る。
暴れる手足を無視していた添島が我に返ったのは、静川が動かなくなったからだ。ヤバいと思ってぱっと手を離すと静川の小さい体は咳き込みながら床に崩れた。
驚きの去った徹は冷めた片目でそれを見ていた。
成る程、学校で添島が言い掛けていた「噂」と言うのはこれの事か、とやけに他人事のように思う。たぶん断片的な状況をジグソーパズルのように繋ぎ合わせれば、そう言った憶測が成り立つのだろう。事実ではないし、真実にはほど遠い。では、真実を知ったらこの青年はどう思うだろうか。
汚らわしい、とでも?
人間の屑だとでも?
「失せろ」
徹はその眼差しと同じ温度の声音で言った。
「この俺の目の前に二度とそのツラ見せんな」
「………っ」
静川は涙の浮かんだ凄まじい憎悪の表情で徹を凝視した。そして、それとはまるきり正反対の情けない顔を添島に振り向ける。まるで救いを求めるもののように。
「…帰れ、俺もお前にはがっかりした」
顎をしゃくって見せた添島の一言がトドメだった。
泣き顔にくしゃりとその顔を歪ませた静川は、弾かれたように添島の部屋から飛び出して行った。

沈黙したまま、添島はカーペットの上に散らばったガラス片をトレイの上に一つ一つ集めた。それが終わると、スポーツバッグの中からタオルを取り出して水をぐっしょり含んでしまったカーペットを叩き拭く。何かの儀式のように黙然と、淡々と、その作業に没頭する。
そんな同級生を徹は何処か遠く見た。
「学校も、家も、家族も、何もかんも…どうでも良くなるぐらい俺はそいつにのぼせてる…」
タオルを持った手が刹那、止まった。
だが添島は顔を上げようともせず作業を続けた。
「魂ごとかっ攫われちまったようだ、どうにも出来ねえ」
「一時の気の迷いだ」ぼそり、と青年はぶっきら棒に応えた。
「何もかんも錯覚だよ、斎原が今見てるものは」
「心も…体も?」
「…………」
「今のあいつみたいに世間一般の常識を振りかざす連中にとっちゃムカつく事なんだろうな。それとも気持ち悪ィか?世の中のマイノリティは叩かれんのがオチだ。…いや、俺はそのマイノリティとやらとも自分は違うって思いたがってるけど」
添島は徹のその台詞を聞いた途端、手にしたタオルを床に叩き付けた。
「何なんだよそれ!一体何処の恋する乙女だ?!」
詰めた息から吐き出された罵声は何処か掠れていた。それを聞いた徹は一瞬訳が分からない、と言うように惚けたが、やがて言った。
「恋する乙女か…違いねえ…」
自嘲する吐息が青年の薄い唇から溢れた。
「…騙されてんだよ、お前は。そいつは上手い話でお前を釣ってんだ、絶対遊ばれてんだよ……」
添島の呟きは自分自身に掛ける催眠術のようだった。
そうとでも思わなければ足下から世界が崩れ落ちて行ってしまうとでも言いたげだ。しかし、沈黙したクラスメイトを不意に顧みた添島は、更に何か言おうとした言葉を取り零した。
自分を見返す徹の容貌には、あるかなきかの淡い微笑。何もかも分かっていると言うようなそれは盲目の偶像崇拝者のようで、添島は得体の知れないものと遭遇してしまったかのように不気味さに身を強張らせた。
「あの人がそうじゃないのは、俺が一番良く知ってる」
「だったら…!」
だったら、
その次に何を言おうとしたのか、添島はすっかり真っ白になった頭の中を持て余す。次の瞬間、意識するより早く体が動いていた。
がっしと徹の襟元に掴み掛かり床に引き倒す。されるがままに押し倒された同級生の顔に、碌に狙いも定めず拳を一発叩き込み、抵抗する腕を振り払った。
潰しても良いんだ、踏みつけても良いんだと、無体な考えが心を満たす。だってこいつはもう汚れてる。地に堕ちて泥塗れになって、人間としての最低限の尊厳すら自ら打ち捨てているのだから。
襟首を締め上げながら、その唇に噛み付いていた。
乱れた息を繰り返すそれは容易く侵入を赦し、舐め上げる歯列が何か言いたげに開閉を繰り返す。
制服の白いシャツが邪魔で、引き裂き、その中に掌を忍ばせた時それが同性の肌だと言うのに余りに艶かしく滑らかで、訳が分からなくなって息を呑んだ。
素肌を弄る手は、酷く詰めたかった。
徹はこれでも必死に抵抗していたのだが、スポーツマンで鳴らした添島の腕力は思ったよりも強かった。
口惜しさに歯がみする。
野上に体を開かれ、体力の限界まで攻め立てられ、動けなくなるまで快楽の渦に巻き込まれても、それは仕方のない事だ。だって彼は貪るくらいに自分を欲しているのだから、と受け入れられた。だが今は、何で腕っぷしを鍛えておかなかったんだと激しい後悔が押し寄せる。
こんな奴に好き勝手されて、何も出来ないなんて―――。
両手を纏めて胸の上にギリギリと押さえ付けられた。
空いた片手で添島は同級生の制服のベルトを解きに掛かる。
男とやった事などないだろうに、どうするつもりだ。危機感よりも腹立たしい侮蔑の思いが先立った。徹の中には、野上以外の男に暴行を受けるのを、嵐が通り過ぎるのを待つなどと言う許容値はなかった。
「それ以上やったら舌を噛み切る」
自分でも意外な程、冷静な声が出た。
「お前が何もかんも捨てる覚悟を持ってるなら―――」
言って、見えるように自分の舌を上下の歯の間に挟んで見せた。
そのままじりじりと力を込めて行く。
火の出るような激痛が走った。
痛みに顔が歪む。
ギチ、
と犬歯が肉に突き立った。
じわり、と血が滲んで来たのは暫くしてからで、徹はそのまま顎を動かし続けた。痛みの代償に唾液が口の端から溢れる。痺れが舌全体を覆った。生理的な涙に視界が歪む。
「………っ!!」
添島は声もなく徹の上から飛び退いた。
荒いだ息遣いと、沈黙。
徹は左手で自分の口を覆った。
潰れた肉と、切れた傷口からの血で舌は止め処なく唾液を分泌する。痺れ切った舌は通常の何倍にも腫れ上がっているようだった。喋ることが出来ない。
もとより、添島に掛ける言葉などありはしなかった。
立ち上がった徹は、そのまま部屋を出て行こうとした。
「斎原…!ごめん、俺……っ」
添島の悲痛な叫びを、閉じられた扉がバタンと遮断した。

どうやって帰ったのか今ひとつ記憶が定かではなかったが、徹は野上のいない彼のマンションでベッドに倒れ伏すようにして眠りに落ちた。



「小十郎」
とその人は非道く穏やかに男を呼んだ。
野上の記憶の中の男が、城に忍び込んだ間者から主人である彼の人を庇って、背に一太刀を浴びたゴタゴタの後の事だ。
骨まで届く重い斬激ではあったが男は構わず、続けて襲い来る数人の素破者を薙ぎ倒し、突き殺した。駆け付けた徒士らが最後の1人を切り倒した時になって、ようやく男は手にした一刀に縋って踞った。
病を発症するより5、6年、遡る程だから、彼の主人は既に貫禄ある大大名だと言って良い。それが男の様を見るなり激しく動揺した。
「小十郎!手前、死んだら許さねえぞ!!」
そんな叫び声が聞こえたようだったが、男の意識はここで一旦途絶える。次に眼を覚ました時、最初に飛び込んで来たのは先の穏やかな呼び掛けで、ああ自分は戻って来られたのだと、安堵する。
続いて視界を巡らせた先にその人はいて、脇息に凭れて自分を覗き込んでいた。
空気がしんしんと凍える気配があり、屋根の上でミシミシと雪が降り積もっているのが感じられる。それだと言うのにこの方は相変わらず黒に限りなく近い紫紺の長衣を一枚身に纏ったきりで。
「貴方は又、このような雪の日に―――」
「Stop」
悪戯げに微笑みつつ彼は男の言葉を遮った。
「もっと他に言う事はないのか。九死に一生を得た奴が」
「…申し訳ありません」
言葉に詰まって結局吐き出したのは謝罪の言葉で、所在なく視線を落とすばかりだ。
長い沈黙が降りてふと彼を見やると、その人はずっと以前からそうしていたように自分を見つめていて、微かな笑い皺を刻むようになった目尻にほんのりとした笑みを浮かべていた。
いや、あれは笑みだったのか。
何かを堪えている表情だったのか、今となっては計り知れない。何ぶん遠い記憶なので確かめる術もない。
「…いつか―――」
やがて彼は囁くように言った。
「いつかこうしてお前を看取る日が来るのかも知れぬ」
いつしか、若かりし頃の言葉遣いが改まって、他の大名たちに畏敬の念を抱かせる程にまでなった主が、その口調で呟く。
「ああ…」と男は嘆息した。
「先程、貴方が叫んだ声が耳について離れませぬ。懐かしい気がして…。あれは貴方様が二十歳になるやならずやの頃の、人を威圧するような口調でした。本当に、ご立派になられた…」
男は過去を懐かしみ、彼は未来に戦いていた。
主人は唯一見開かれた左目をゆっくり閉ざして、数呼吸数えた。
「いい気なもんだよ、本当に、お前は―――」
再び見開かれた左目に薄っすら滲むものを見つけて、男は微かに息を呑んだ。泣いて―――いたのか、と。
一人残される不安と恐怖を胸の裡に抱え、それを外にはおくびにも出さずにいた。その箍がほんの少し緩んだ瞬間に男は過去に気を取られていた。
「……様…」
愛しさのありったけを込めてその名を呼んだ。
右手は動かない。左手を伸ばすにしても、彼の方は反対側にいて届かない。そのもどかしさを乗せて左手を夜着の下から何とか引っ張り出した。
「…雪に閉ざされる領民の為に冬専用の駅をこしらえる手筈が途中でした…傷が治り次第、急ぎ整備を進めましょう。それに先年の地震による被害が未だ残る亘理郷にも人と物資を送る手筈を整えなければ。また、徳川と豊臣の遺臣とが小競り合いを始めている模様です。引き続き様子を探らせておりますが、徳川からの使いには慎重に対処なさいますよう…」
そんな風に現在抱えている未決の問題をあげつらって、過去と未来とに乖離した2人の気持ちと繋ぎ止めようとする。
そうする事しか出来ない不器用な男だった。
不意に、彼の手が伸びて来てその掌で両目を覆われてしまった。
火桶は直ぐ側にある筈なのに非道く冷たい手だった。薄着だと言う理由だけではない。緊張から手足などの末端に血が経巡っていないのだと知れた男は、押し黙るよりなかった。
「大丈夫だ…。俺はお前がいなくても全ての事象に対応出来る。そういう風にお前や、綱元や成実が家臣らを配置してくれただろう?」
男はその冷たい手の上に己の左手を乗せた。
「直ぐに…快復いたします。だから小十郎がいなくても、などとは仰らないで下さい」
「もう頼らずともやれる」
「……」
「怖いんだ、お前がいなくなったら、1人になったら…そう考えると。だから、今から1人に慣れておく。…お前の為に断てるような生命ではないんでな…」
「―――…」
手も声も、震えてはいなかった。
平静なものだ、その表情も含めて何もかも。
彼の背負うものの大きさに男は打ちのめされた気分だった。
「今の内に言っておこう」と掌の向こうで主人の声は低く呟き、彼が身じろぎした気配が伝わって来る。
そうして男の耳元へ唇を寄せて、言った。

「感謝している…お前の何もかも……」

彼の着物に薫き染められた香が仄かに馨る。
気配が遠離って行くのと共に、男の両目を塞いでいた冷たい手も離れた。首を捩じ曲げて見やった先で主人は男を顧みる事もなく居室を出て行ってしまった。
それは、静かに。
あれ程怯え、不安に苛まれている彼を残して自分は逝かねばならない。口惜しさに奥歯を噛み締めた。

いや、潰れる程の胸の痛みに、ただ涙が止まらなかった。


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