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―記念文倉庫―

その後、とっかえひっかえ友人知人が野上を見舞いに来た。見舞いと言うより冷やかし、あるいは鬼の霍乱か、などと埒もない冗談で混ぜっ返す連中もいた。だが、ふと息を吐いた瞬間に野上は思った。自分が一人だと感じていたのは何だったのだろう、と。
作家仕事をしている中で交友関係を広めたり深めたりするのは比較的難しい事だ。人生の大半の時間を孤独の内に過ごすのが仕事だからだ。それでもやはり社会に関わり現実に生きている以上、人間関係は築かれて行く訳で、自分は自分で思っているより卒なくこなしていたのだな、と他人事のように思う。

まだ熱があるせいか、何人もの人と会って話をしている内に怠くなって来た野上は、夕暮れ時にやって来た青年の俯いた横顔を見ながら身じろぎした。
「どうだ、調子は」と彼は、自分を見舞いに来た筈の相手に尋ねていた。
気遣いされるべき病人の自分が逆に相手を気遣っているのだから本末転倒だ、と表情には出さず胸の裡に零す。
「普通にやってる…いや、やってます」
俯いたまま視線を合わせようとしない青年は、いかにも線の細い存在だった。比喩ではなく本当に魂の緒も吹けば切れそうだった。
「また薬とかに手を出してないだろうな」
「―――」
否定の言葉は返って来なかった。
泉が言っていた、優れたクリエーターは胸の裡に誰にも見せない闇の部分を抱えていて心が病みがちになる、と言う典型とも言うべき青年だ。
名を葛葉いぬい、と言う。
とある出版社の創設何十周年だかのパーティで知り合い、何処となく危うげな感じが気になって声を掛けていた。人と話したり眼を合わせるのが苦手な青年は何時も俯いていて、野上の記憶の中にはその横顔しか残らない程だった。
野上は再び身じろぎしながら息を吐いた。
「訳の分からないもどかしさってのも辛いだろうが、自分の体をもっと大切にしろよ」
「大切って…何だろう」
少し声を張り上げ、途中から萎んで行く。青年は何時もそんな喋り方をした。
「骨に張り付いている肉や皮がそんなに…大切だと思う」
質問形の言葉であっても語尾が上がらない。無気力(アパシー)と言う症状の一種の現れだ。
野上は微かに俯いて、目を閉じた。
「生きて動いて、考えたり喋ったりするのは当たり前の事なんかじゃない。自分が今ここにあるってのは、実はとても重要な事だ」
「そう…なのかな…。だとしたら僕はその重さに耐えられそうにもない」
「そうやって思える間は大丈夫だと思うぞ」
「え」
落ちぎみになる青年の視線がちょっとだけ上向いた。
「重さに押し潰される時はそう意識する暇もない。あっと言う間だ」
「…幾久さんは、押し潰された事があるの」
「押し潰されてばっかだ」
「そんなの…ウソだ。潰されたらまともに立っていられる訳ない」
「…生きてるからだろう」
「―――…」
「生きてるから押し潰されても、押し潰されても、何度でも立ち上がれるんじゃないか?」
死んだら立ち上がる事も出来なくなるだろ、そう言って穏やかな笑みを浮かべる男を、いぬいは斜に眺めた。死ぬより辛い事を知らないからだ、とその昏い眼は物語っていた。
「なあ、せっかく生まれて来たんだ。普通に苦しみも楽しさも存分に味わってからあの世とやらに旅立てば良いんじゃないか?」
「幾久さんの言い方じゃ、俺が死にたがっているみたいだ…」
「…違うのか?」
「消えてなくなりたい」
鬱の精神病か、あるいはそれに類いする青年の心情だった。
だが、彼の織りなす物語はそれを土壌にして一条の光のように艶やかな疾走感を生み出していた。それ故に今時貴重な「青少年に読ませたい物語トップ10」の上位にランキングされるのだ。尤も、本人にとってはまるきりの心外だったし、どうしてそう思われるのかが分かっていなかった。
野上は、俯いて折れそうに細い青年の顎の下から項の辺りを眺めやった。
「そんな哀しい事言うな」
囁きに近い男の声に、いぬいは俯いたまま微かに首を振った。
「ごめん…なさい。お見舞いに来たのに…余計な気を遣わせて…」
そうして微かに掠れた声で言うのは蚊の鳴くような謝罪の言葉で。息をするのでさえ辛そうな青年の有様には胸が痛むが、こうして話をする以外自分にしてやれる事はなかった。青年が成長する間の過渡期であれば良いが、とも思う。
「…幾久さん、疲れてるの」
「ん?」
「さっきから溜め息ばかり吐いてる」
「ああ…すまん、ちょっと怠いな」
野上の応えに、ちょっと上目遣いで男を見ていた青年が身を乗り出して来た。
熱でも看られるのかと思い、少しぼう、としていた野上は、突如視界の中一杯に入り込んで来たいぬいの顔に思わず仰け反った。
「ちょ…」
「僕に移せば良いよ、その風邪…」
「バカ、お前…」
力任せに、と言うか、もはや男に取り縋るようにしてベッドに乗り上がって来た青年は体重を掛けて野上にのしかかっていた。そうして唇に押し付けられた柔らかいものと青年の頬に掛かる細い髪を、野上はぼんやりと見ていた。
どうしてこうなるんだと、熱っぽい頭の隅に泡沫の思考が浮かぶ。
だが、小さな舌が自分の唇を躊躇うようになぞり、それが唇を掻き退けようとしている事に気付いてとっさに両手を動かした。
思ったよりも強い力で引き剥がされて、青年は怯えたような表情をする。
「こういう事は、軽々しくするもんじゃない…」
「軽い気持ちだって思ってるの」
「―――…」
「幾久さんは辛い目に合っちゃいけないんだ」
どう言う事だ、とは問われなかった。
消えてなくなりたい、と言った青年が大事にしている数少ないものの一つに自分と言う存在が含まれているからだ、それが分かっているから。
しかし、いや、だからこそ。
「…俺がお前に風邪を移して喜ぶ人間だと思っているのか?」
男の声音は低く、そして酷く穏やかに言って聞かせる。
「お前が辛い目に合うのを俺が黙って見過ごすって?」
「―――ああ」と、いぬいは一つ嘆息を落とした。
「ああ…幾久さん、狡いや…」
言って、青年は目を閉じて俯いた。
「そう言う現実の認識の仕方が、僕を実存の世界に引き戻してしまう…」
「現実は、お前が思う程恐ろしいもんでもないぞ」
男の言葉には応えず、いぬいはベッドの上から降りた。立ち上がり、手にして来たリュックを背負い直す。
「僕にとって現実は幾久さんただ一人だよ…でも、嫌われたりしたら厭だから、帰るよ…。ゆっくり休んで早く良くなって、そして又僕と話をして、下さい…」
消え入りそうな声でそう言って、いぬいは病室を出て行った。
残された野上は何とも言えない気持ちのもやもやを持て余して、ベッドヘッドに身をもたせ掛けた。居心地の悪さは、いぬいの中に性的な意味でも全てを投げ与える心の準備が出来ている事にあった。それを野上は望んでいない。いやむしろ、嫌悪感すら沸き起こりそうだった。いぬいに対して申し訳ない気持ちで一杯になる。
今、非道く徹に会いたかった。

確か待合室の片隅に公衆電話があったな、と思い出した野上はベッドから抜け出した。
夕方の病院内は最後の受診者をちらほら残すだけで閑散としていた。その中で自分の携帯より良く覚えている徹の番号をコールしたのだが、電話口には「電波の届かない所にいるか、電源を切っている」とのアナウンスが出たきりだ。
仕方なく引き返そうとした途中の道行きでリクリエーションルームにパソコンがあるらしいのを壁紙で知って、そこからメールを打ち込んだ。
何となく気怠さが増して、ふらつく頭を圧して病室に戻った時にはすっかり疲れ果て、ベッドに入るなり意識を手放した。



高円寺の古びた町並みにある添島の自宅に着いたのは、夜8時過ぎだった。
徹を連れて帰ると言った添島に「俺も行く!」と片手を大きく振り上げたのは、彼らの1年後輩で添島と同じサッカー部員の静川だった。
「2年の秀才2人に勉強教えてもらうんだ」
まだまだ中学生の容姿と考え方を残した静川らしい発言だ。その後輩と一緒になって徹は添島の家に上がった。
昭和の時代に建てられたらしいその建物は、庶民的と言う言葉が如何にも相応しい。
猫の額程の庭に所狭しと植えられた野菊や朝顔などの咽せ返る程の緑。慎ましい家庭菜園。軒下に干されたサンダルや、縁側の縁に放ったらかしにされたままのバケツとホース。建物の壁は近年になって色を塗り替えられたようだが、内部の柱や廊下は年代を感じさせる昏さに沈んでいた。
添島は玄関を上がると居間に続くと見られるガラス戸をちょっと開けて「友達来たから」と一声掛けて、狭くて急な階段を先に昇り上がった。
「添島先輩のお母さん、韓流ブームに乗っかって家事もほったらかしなんだって」
そう言って静川は自分に先を譲った徹に呟いた。
「ふーん」
「だから先輩、家事もこなしちゃうんですよね?」
静川は憧れの先輩が何でも器用に出来る事を自慢したいようだった。
「仕方ねえじゃん、誰かがやんねえと汚れもんとか溜まってく一方だし」
「母親として失格じゃないですか!どうして先輩はそんなのに黙ってるんですかぁ?!」
「あのなあ…」
添島は自分の部屋の前で振り向いた。
「高校生にもなって母親にあれこれ面倒見てもらおうなんて考えの方が甘くないか?俺がちっちゃい頃はそりゃ、ちょこまか良く働くヒトだったぜ、ウチの母親」
言うだけ言って、部屋の扉を開ける。
間もなく明かりが灯って、けっこう広めの内部が照らし出された。
「だって親は子供の面倒見るもんでしょ、家を出てくまで」
「うっとおしいだけだ、そんなもん」
「そうかなあ」
「はいはい、子供のお前にゃまだ早いんだろうよ」
「一つしか違いませんよ、先輩と僕」
「なんだかなー…」
溜め息を吐きつつ鞄を机に置いた添島がふと徹を振り向いた。
「…ちっとは会話に入って来いよ」言いながら苦笑される。
徹は一瞬きょとんとした表情になり、それから視線を泳がせた。
「いや、面白いと思って聞き入ってた」
「あ、そ」
唸って、添島は取り敢えず窓を前回にしてカーテンを引いた。
秋の気配に染まった夜気は涼しく、昼間の熱気がこもっていた部屋をさらさらと清涼なものに変えて行く。
「何か飲み物持って来るわ。その辺座ってて」
添島は2人の返事を聞かずにとっとと部屋を出て行った。
「おかまいなく〜」と型通りの静川の声だけがそれを追う。
ベッドの縁に凭れて腰を下ろした徹の斜向いに静川も座った。
「お前、親は子供の為だけに存在してるとか思ってんの?」
何となく興味があって徹は尋ねてみた。
「え、どう言う意味ですか」
「いや、親だって一人の人間だろ。子供以外に何か目的があったって不思議じゃねえ。趣味だって自分の為の時間だってある筈だ」
「それはそうですけど…家事は主婦の勤めでしょ?」
「そうは思わねえけどな、俺は」
「え、何で」
「会社員が会社で働きゃ給料が貰える。学生が学校で学ぶのは将来社会に出てく為の足がかりだ。じゃあ主婦の家事ってのは?誰かが給料くれんのか?それとも将来、何かの資格でも取れんのか?」
「それってでも―――…」
「別に誰がやったって同じだろう、家事ぐれえ」
「………」
正にどうでも良い、と言う態度の徹と打って変わって静川のそれは、表情を無くしていながら何処か危険な臭いを感じさせるものに変わっていた。
「…何だよ……」と静川は呟いた。
「家にも帰らないで、どっか男の所に転がり込んで体売ってるような奴が偉そうな事言ってんなよ!!」

ガチャン


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