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―記念文倉庫―

授業の間にその噂とやらの事は徹の頭から消えていた。マナーモードにした携帯を机の中に入れて、ランプが点滅しないかどうか教科書を見るフリでずっと眺めていた。
野上は部屋に自分の携帯を忘れて行っているから、掛かって来るなら病院の公衆電話か泉佳鏡の携帯からだ。泉の方ではなかったら良いのに、と思う。
野上の交友関係を知りたいと願っていながら、あの女性の冷たくはない無表情は苦手だった。ある日ぽっと出て来た自分が野上の華々しい経歴に傷を付け、台無しにしてしまうのではないか、と危惧しているのがそこはかとなく分かってしまう。
―――そうか…。
常識から言って、自分は野上の身辺にいる人々に暖かく迎え入れられる存在ではないのだ。分かっていはいたが、実際目の前にしてみるとそれは少なからずショックを感じさせた。
現実にその壁が立ちはだかったら自分はどうするだろうか。
それでも野上の側にいる事を選択するだろうか。それとも常識に従い大人しく自分の、1人の人生を歩んで行くだろうか。
思えば、後先考えずに野上の胸に飛び込んでしまったものだ。
それぐらい強い衝動だった。


「斎原、カラオケ行かね?」
放課後、徹をネタにして賭けをして盛り上がっていた男子らが声を掛けて来た。部活にも入っていない連中だ。ほぼ何時もつるんでいてカラオケやネットカフェ、あるいは誰かの自宅へ行ってゲームなどをして渡り歩いている。
「おう、行く行く」と返事をしたのは結局、野上からの連絡が入らなかったからだ。
それ以前に、彼は徹が学校にいる間はメールも電話もして来ないように決めているようだった。だからと言って、野上の部屋へ帰って誰もいなかったりしたら悶々として待ちぼうけを喰らいそうだったので、それも避けたかった。
電車で数駅の繁華街に出た。
ゲーセンでちょっと新作のゲームに手を出したりしてふらふらしつつ、行きつけのカラオケボックスに入る。
個室に入って楽曲を選ぶ間があった。
徹は少し腹が減っていたので(そう言えば昨夜からまともに食事をしていなかった)、焼きソバかタコ焼きのどちらにしようかと悩んでいた。
「今日さ、斎原が来るとは思わなかったよな…」
分厚い曲目リストをぺらぺら捲りながら男子の1人がそう呟くと、他の連中もうんうんと頷いていた。
「さっさと帰るかと思ってた」
「そうそう、な〜んか家にも帰らないでさ、どっか別の場所とか」
「ああ?付き合いたくなったら付き合うぜ」
尚も焼きソバかタコ焼きかを迷いながら徹は上の空で応える。
何も気付いていない彼の様子に他の生徒たちは意味ありげに顔を見合わせたが、特にその場では言葉を重ねる事もなかった。
1曲目が始まって会話は途切れた。誰が何を飲むかは決まっていなかったので、徹は自分の食事のついでにコーラやコーヒーなどをスナック類と共に内線で適当に頼んだ。
今流行りの曲が幾つか流れ去り、徹も最近LISMOでダウンロードした曲を軽く歌った。
「何それ、ちょー難しくねえ?!」と、人が歌っている最中に喚いた奴がいた。
「カッコいいだろ」と歌詞の途中で言い返してやった。
MERRYの『夜光』と言う曲だ。ハイテンションで打ち鳴らされるバンドミュージックと透き通るような男性ボーカルが特徴だ。歌詞の意味はよく理解していないが、ストレートな疾走感が好きで聞いていたら覚えてしまった。もしかしたら、日本では余り馴染みのないバンドなのかも知れない。人間の出せる最高音域と言われる「ホイッスルボイス」を出す事の出来るボーカリストの事は、何処かの音楽雑誌に書いてあった。徹はそれがどんな声なのか知らなかったが。
1時間程して後から数人、部活組が加わり、狭い部屋が男子学生で一杯になった。徹は苦笑しつつ、自分の飲み物だけは確保して部屋の隅に避難した。
一気に賑やかになって、シャウト系の歌が次々披露される。アニソンも恥ずかしげもなく歌い回された。
そんな傍ら、一度トイレに立った時に携帯を確認したら野上からのメールが入っていた。
「もう一日、用心の為に入院しろと言われた。明日の夜には帰る」とだけ打ち込まれた文面は、PCアドレスからのものだった。昨今の病院は退屈を持て余す入院患者の為にPCの貸し出しもしているらしい。電話の着信もあったようだ。見知らぬ番号はおそらく病院の公衆電話だろう。彼の身辺から泉の気配が消えた事にはほっとしたが、暫く戻れないのであれば徹にとっては同じ事だ。
部屋に戻って席に落ち着くと、騒々しい中で声を掛けられた。
「お前がカラオケなんて珍しいな、斎原」
何気に隣を見やると、後からやって来たらしい添島がグラス片手にこちらを覗き込んでいた。
「ああ…。他の連中にも言われた。俺って何?そんなに世を拗ねてる訳?」
「そうじゃねえよ…」カラン、とグラスの中の氷を鳴らしてウーロン茶を啜る添島。その左手の指先に挟まれたものを見て、徹はさすがに片目を見開いた。
煙草をやっている連中なら他にも何人か知っている。ただ、クラス委員長である添島がその内の1人だとは驚かされた。
「何か、冷めてるっていうか、何処かちょっと違うだろ、お前。大人びてるって言うか」
顔を少し寄せ合って、激しく掻き鳴らされる楽曲に消されないよう話していると、添島からは少し鼻を突く臭いがした。煙草の先から上がる紫煙を眺めていた徹にようやく添島が気付いた。
「…カッコ付けで始めたらクセになってた。他の連中には言うなよ」
「へえ」
別に興味はなかったので意味もない感嘆符でその場を流した。
他の連中とは違うと言われれば、生まれつき右目がなかった事で色々特殊な経験をしたものだ。父と母が(特に母が)不完全な体に産まれてしまった長男を、自分のせいだと責めて日々泣いていた事もあった。
幼稚園児だった妹が兄の片目の事でいじめられた事もあった。障害者の自分ではなく、その身内を標的にするとは何事だ、と徹は仕返しに走ったものだ。
義眼を入れる事も考えた。眼窩に空洞があるままだと顔面の歪みに繋がるからだが、徹の場合、結膜嚢に異物を入れる事で却って痛みや痒みの原因となった。放っておくとポリープが出来るかも知れないと言う事で結局義眼はやめた。瞼は陥没しているが、この年まで異常は見られないので目脂の掃除と目薬だけで過ごして来た。
人それぞれ、自分にしか分からない痛みは多くあるものだ。自分だけが特殊な訳ではない。
「今日、お前ン家行っても良い?」思わずそんな台詞が口から飛び出していた。
すると相手は口元に煙草を持って行ったまま固まった。
「迷惑なら、いいけど」
「…いや、別にうちの両親はそんなにうるさくねえからいいけど」
「相談に乗ってくれるんだろ?」
「へえ」と今度は添島が呟いた。
「何?」と聞き返すと、「何でもない」と返って来た。
カラオケがはねた後、徹は高円寺にあると言う添島の自宅に向かった。



朝になっても熱の下がらなかった野上は医者からもう暫く様子を見て行きなさいと言われてしまった。
確かに夢見が悪く、深夜に一度目が覚めた時にも寝間着をぐっしょりと濡らしていた程で、気持ち悪くて院内の洗面所で頭から水を被ったりした。だからと言ってこんなに長引くとは正直思っていなかった。
手持ち無沙汰にベッドの上で壁に掛けられたテレビを見るともなく見ていたら、昼前に何時も世話になっている雑誌社の編集長が見舞いに来た。
「倒れたと聞いてたが、思ったより元気そうじゃないか」
「ご心配おかけしました」
ベッドで一つ頭を下げる男に、編集長の佐伯は困ったように苦笑した「同級生に遜られるのも変な気分だな」と。
「…大学で一緒に学んだ時期があったってだけで、編集長と作家と言う立場を無視する訳には行かんでしょう、佐伯さん」
「おカタイ考え方も相変わらずだ」
面白げに言って、佐伯はベッドの傍らの丸椅子に腰を下ろした。
編集長などと言う物々しい肩書きを持ってはいるが、佐伯自身は至ってラフでフランクな人と成りと見掛けをしている。だが、ラフでフランクなのは表向きだけで、その芯の部分には未だ若々しいとさえ言える理想や情熱を隠し持っているのを野上は知っていた。ついでに言うならチャレンジ精神も旺盛だ。
老成した達観を腹の底に抱えている野上から見れば羨ましい男だった。
「次の月刊誌の連載は休むか」とその佐伯が言った。
「明日には家に戻って書き進めます。入稿は一週間後だ、十分間に合いますよ」
「そうがっつくな」
笑い含みの制止に野上は少々首を傾げて相手を見返した。
28にして既にトップの地位にある男は余裕ある態度で肩を竦めて見せた。
「その一週間ぐらい、休んだらどうだ?今までの無理が祟ったんだろう」
「しかし…」
「読者への気遣いも重要だが、俺は息の長い作家でいて欲しいんだよ、お前には。精力的なのも良い、その代わり一時期だけ爆発的に売れた後、無しの礫になる物書きも多い…。詰まらんだろう、そんな一発屋みたいのは」
「将来、どうなるかなんて誰にも分かりませんよ」
呟いた台詞が何処か捨て鉢なもののように響いた。佐伯はほんの僅か眉を顰めて目の前の男を顧みた。
「お前がそんな刹那的な考えの持ち主だとは思わなかったな」
「お気遣いは有り難く思いますが…」
「これはもう決まった事だ」
「佐伯さん」
「安心しろ、来月にはちゃんとお前の枠を取ってある。そう言や、淡青社の対談も来月号に載るそうじゃないか。お前はちゃんと仕事をしているよ」
作家の、書き続けなければ直ぐに忘れ去られる、と言う埒もない危惧を一番理解しているのも佐伯の凄い所だった。実際、世間はアメーバのように日々刻々と変化しており、読者が飽きっぽいのも既成事実だった。
「来月にはお前のファンクラブのHPを立ち上げる企画が発足する。直木賞、芥川賞なんかの受賞パーティや、母校での講演会も決まってるんだ。秋は忙しいぞ。何せ、読書の秋だ。今の内に休んどけ」
「また、徹夜の日々って訳ですね」
「そうさ、本当の売れっ子作家は一日に原稿用紙10枚書くペースで本や雑誌を発表している。お前はまだまだ…これからって所だ。もっとたくさん書いてもらうぞ。―――それとも」
不意に意味ありげに言葉を切った編集長を野上は見やった。
「早く部屋に戻りたい理由でもあるのか?」
泉に何か聞いたのだろうか。
ふとそんな考えが浮かび、野上はそれを即刻打ち消した。誰にも言わないでくれと頼んだ彼の言葉を無視してこの男に告げ口するような人ではない事は、野上自身が一番良く知っている。
「何もありませんよ…。ただ、明日の夜には帰ります。帰って大人しく休んでいる事にします」
「それが良い」
何の拘りもなく佐伯も頷いた。
そうして、丸椅子から立ち上がると一度病室を見渡す。
「最近の病院は明るく開放的になってるとは言え、やっぱり病院だ。こういう所に長居してると何でもないのに具合が悪くなるような気がする。ゆっくりするなら自宅が一番だ。…後で、担当の黒崎がお前の所に伺うだろう。次の連載の構想の相談に乗ってやれ。私からのアイデアは伝えてあるから」
「いつも有り難うございます」
「いいって」少し声に出して笑いながら佐伯は首を振った。
「次も楽しみにしている」
短い言葉を最後に残して、編集長は病室から出て行った。
気付くとベッドサイドの上に折り詰めの菓子が置かれていた。さり気なく、スマートに気遣いをして見せる佐伯は、やっぱり野上にとってこれ以上ない程出来た男だった。そして、担当編集者の次に野上の作品に眼を通す事になる、最も身近な読者の1人でもあった。
―――お前が楽しみにしてくれているから、頑張れるんじゃないか。
心の中で長年の友人にそう語り掛けながら野上は軽い息を吐いた。


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