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―記念文倉庫―

その時、野上は死の床に就いていた。
当然野上と言う名でもなかったし、ましてや小説家などと言う青瓢箪のやる仕事でもなかった。
侍だ。
しかも戦国時代真っ直中の。
それが戦で怪我を負った訳でもなく、ただ病に伏してその病魔に着々と全身を蝕まれている。
城下の医師は腹に水が溜まる病だと言った。
本来なら水も何もない場所なのだ。それを取り除くには腹を裂いて吸い出さなければならない。外科手術などと言う技術のなかった頃にそれは既にして死の病だった。
酷く苦しく、手足も痺れて重かった。
起き上がる事はおろか、横になっているのでさえ忌々しい程に息苦しい。
ただ無為に時間が過ぎ去って行く。
あの人は来ない。
城下の下屋敷に見舞いに来たのはこの2、3ヶ月で1、2度だけだ。
分かっている。
上方での揉め事にかかり切りで、この奥州を長い期間空ける事もしばしばだった。天下分け目の関ヶ原が東軍の勝利に終わって、徳川の天下統一の仕上げの真っ直中なのだ。
自分の存在は、もはや一地方の勢力争いから複雑な内政外交上の駆け引きとなった今、瑣末時に違いなかった。
だが、それだけが理由なのではない事も男は知っていた。
気丈に振る舞おうと彼も辛いのだ。
若かった頃はただ激しかった情熱も、年経る程に円熟さが増し、みっしりと濃密なものに変わって行った。静けさと熱気と、穏やかさと愛しさとが混在しているような、何とも不思議な関係だった。
国主としての彼は正室や側室なども迎え入れていたが、それとは別の所で彼らは互いを求め合ったものだ。
それはある意味義務のようであり、何かを確認し合う行為であり、また昔を懐かしむよすがでもあった。
いずれにせよ、彼の方の真意は測り難いが、男にとっては身にぴったりと添うた戦衣裳や、左手にしっくりと馴染んだ打刀の柄の感触と同じで、あの人の存在はもはや男の魂に寄り添って離れないものであった。
それが今、暗転しようとしている。
今生の別れの挨拶に来世でも再び相見えたい、とは言えなかった。
あの方の困った顔は見たくないし、叶わぬ口約束など交わした事もなかったから。
それでも今、そばにいて欲しいと切に願ってしまう。あの人に何もかも包まれ、安堵の内に快い夜を数え切れない程過ごしたように。
年はこちらの方が10も年上だし閨の内の行為では自分がリードする方が多かったのだが、その実、あの方は見えぬ手の中に男をそっと包んでしまうのだ。だから、あの人のいない世界など考えられなかった。
あの人を置いて儚くなってしまうこの身など全力で否定したかった。
別れなど、あり得る筈がなかった。
闇の中、震える左手を虚空へ伸ばした。
それでも、死は男の背後から足音もなく忍び寄っていた。
―――………様…。
声もなく口の動きだけでその名を呼んだ。



残暑も陽のある内は盛夏と変わらず厳しい中、徹は学校へ行った。
当たり前の日常、当たり前の風景と、そして、ありきたり過ぎる会話とざわめき。そんなものが学生たちを次々と吸い込んで行く校門周りに満ちていた。
「おはよー」
「昨日どうだったよ?」
「あ〜眠ぅ」
「今日の英語さあ―――」
そんな特筆すべき事もない無意味な言葉の羅列。
徹はただ野上が何時帰って来るんだろうと、その事ばかりが気になっていた。電話口では自分からあんな事を言ったが、男がギリギリのラインでケダモノのように振る舞いそうになるのを堪えているのは徹にも分かっていた。余り体力のない徹を気遣っているのだ。
でも、風邪をちゃんと治してすっかり元気になったら今度こそ本気でやったら良い、と思った。だってこんなに自分は野上の事しか見えていないのだから。
世界に向かって開け放たれているのは野上と言う一つきりの窓、彼と共に彼の視線で世の中を眺めよう―――。
そんな事を考えながら、教室へ至るまでののっぺりした廊下を徹は宛もないかのようにぶらぶら歩いて渡った。本棟から眺める西館脇の桜の木は、今も青々と葉を茂らせ心地良さそうな影を落としている。
後であの辺りを散歩しに行こう、などと浮世離れした考え事をしていたら、背後から呼び止められた。
「斎原、昨日進路相談のガイダンスあったって事、忘れたか?」
担任だった。
「あ、そーだっけ?」
徹がトボケて見せると担任の若い男は手にした黒いファイルでぼすん、と軽く青年の頭を叩いた。
「ふざけるな、お前だけ週末居残りだ」
「ひでえ〜、頭叩くと脳細胞が死んじまうだろ」
「そんなにご立派なもんが詰まってるか?え、おい?」
苦りきった表情の担任を徹は唇を尖らせながら斜に睨んだ。
「進路ったって受験すんのは再来年じゃねえか。今から何やるってんだよ」
「あのなあ…希望する進路と今の成績突き合わせて、この1年で何が出来るか詰めてくのが重要なんじゃないか。一夜漬けでどうにか出来る定期考査と同じにするな」
「ああ、俺がいっつも一夜漬けだって良く分かったなセンセー」
口をひん曲げてそう徹が言い返してやると担任は肩を上げて、ついでにファイルを持った右手を振り上げた。
だがそれは担任自身の左手に納まり、彼は軽く息を吐くに停めた。
「口答えは良いから…お前、休み過ぎだぞ。特に今年に入ってから。別に夜遊びに飛び回ってる訳じゃないようだが、こいつは偏差値に響く。生活態度の善し悪しを見る大学もあるんだからな、学校なんてタルイとか言ってないで、ちゃんと来いよ」
「先生、俺大学行かないかも」
「え…?」
「行くかも」
「………」
「まだ分かんねえ、決めてない」
担任は呆れて肩を上下させた。
「そう言うのを一緒に考える為にも進路相談はあるんだろうが。とにかく、週末の放課後にやるからな」
「えー」
徹の不服声に再三度、黒いファイルが振り上げられた。
すると、さっとばかりに逃げ出し、徹は瞬く間にそこの角を曲がって走り去ってしまった。
その生徒の後ろ姿を見送って、担任は吐きたくても吐けない溜め息を口の中に呑み込んだ。

教室に入ると中にいた連中が一斉に振り向いた。
「おー来たぞ、バックレの常習犯が」
「ああチクショー、負けたあ!」
「バッカ、連日休むってのはあんまなかったろ」
「約束だぜ、昼飯おごれよ」
「うおーチョームカつく!!」
「……」
クラス中の男子が徹を肴に盛り上がっているのを、当の本人は冷めた目で見やっていた。それも直ぐに興味を失い、鞄を肩から引っ掛けたまま教室の隅の自分の席へと向かう。徹が来るか来ないかでここの所賭けをして騒ぐ男子らは、冷やかしに乗って来ない彼を舌打ちで迎える。
見た目がちょっとばかり良いからってお高く止まりやがって、と心の声が聞こえて来そうだ。何でも良いから突っ掛かりたい、反抗したい、と思うような年頃だ。相手にするのもしないのも厄介な相手と言えた。
仕方なさそうに席に着いた徹から声が上がった「俺には何おごってくれるんだ?」と。
「ふざけんな斎原、俺がお前におごって欲しいくらいだ」
「そりゃまた…」
ご無体な、とは口の中で零すに停めた。
その徹の机の傍らに立った者がいる。クラス委員長の添島とか言った奴だ。そこそこ勉強ができる上、サッカーを初めとしてスポーツも得意とあって先生にも生徒にも受けが良い。面倒見の良い兄貴肌とでも言うべきか。それが徹の机を指先でタップする。
「それにしたって休み過ぎだよな?」
「あ?」
「夏休み終わってからひと月近く経つけど、お前、半分くらい休んでるじゃねえか。…留年すっぞ?」
「そうだっけ」
「他の奴に言えない事抱えてんなら何時でも聞いてやる」
「―――…」
徹は思わず相手をまじまじと眺めてしまった。
こんなクラスメイトが皆見ている中で大っぴらに悩み事相談の相手を名乗り出て来る添島の神経を疑った。それに、同年代の年頃の男子として恥ずかしげもなく俺を頼って来い、と言う態度を取る青年の青春振りに呆気に取られたのは言うまでもない。
徹は机に頬杖を突きながら、眼帯をしていない左目だけでクラスメイトを流し見た。その口角に隠し切れない笑みを浮かべながら。
「何かあったら必ず言うさ、委員長」
今度は添島が息を呑む番だった。
徹の受け答えが意外だったのもある。だがそれ以上に、人に対する礼儀はあれど個人的な関わりを余り持ちたがらない相手が自分の立場を覚えていた事に呑まれていた。
「…勉強で行き詰まってるとかじゃないよな?」
一瞬言葉に詰まった自分を恥じて添島はぼそりと呟いた。
「そりゃ今度の中間で結果が出るだろ」
「…ホントにお前って―――」
呆れた声が溜め息混じりに吐かれて、徹は小首を傾げた。
「まさか学校休んでゼミとか通ってんじゃねえよな?」
「何だよそれ…どんな時間の無駄遣いだよ」
「でなけりゃ学年トップ3にいっつも食い込んでる理由が思い当たらねえってだけだよ」
「―――そうか?」
この頃には徹の中の可笑しさは満面に出ていた。
学校の考査など記憶力の勝負と言って良い。理解の深度など二の次だ。覚えている内に問いを出されれば間違える事はまずない。そんなものの何処が重要なのだ、と。
しかし実際、その記憶力で苦心する者が多いのも確かだったので、徹は笑いを引っ込めて神妙な表情を刻んで見せた。
「努力してるトコなんざ、カッコ悪くて見せらんねえだろ。それに勉強と学校休んでるのは関係ねえし」
「んじゃ、何で休むんだ?」
「それは―――」
徹は野上が学校に何と言って休むと言っているのか知らなかった。まさか、休む度に毎回風邪だとか、誰かが死んだなどと理由を捏ねている訳ではなかろうが、それにしても口の上手い男だ。
「斎原…でもちっと気をつけた方が良い」
不意に吐かれた添島の声に我に返った。
改まって見やった先で同級生は徹の様子を窺うように凝っとこちらを見ていた。何を一体気を付けるんだ、と思ってそれを眺めていると、その口が無機質な言葉を零した。
「妙な噂が立ってる」
「噂?―――どんな…」
聞いた所で教師が教室に入って来た。
こっそり聞き耳を立てていた他の生徒たちも添島もさっとそちらを振り向くと、それぞれの席へ戻って行った。


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