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―記念文倉庫―

「風邪を引いて寝込んでるって聞いたから、無理行って様子を見に来たの」
とその女性、泉佳鏡は少し沈んだ落ち着いた声で先ず告げた。
「ご心配をおかけして…」
男が珍しく恐縮しまくっているのを、顔見知りの編集者、石川が見やって口を開いた。
「せっかく泉先生が来て下さったんです。ここは一つ、子弟対談と言うのはどうですか?お互い、ご多忙で連絡を取ったりする事もなかったでしょう?」
雑誌の編集などをやっていると神経も太々しく、面の皮も厚くなるらしかった。石川はにこやかに笑いながら、今日のインタビューを面白くなりそうだと踏んだ対談に持って行こうとした。
「わたしは野上くんの師なんかじゃない。ただ先にこの世界に入っていただけよ」
ちんまりとした女性はにこりともせずにそう言った。だが、元来が柔和な顔つきであるので厳しい印象は与えない。
野上はちょっとふわふわする意識の中で、その小さな顔を見ながら言った。
「先生のお時間が許す限り」
「無理しないのよ」平坦な声で言いつつ、泉は目だけ細めて微笑んだ。
「大丈夫です。…先生はここ1年作品を発表されてませんね。何か大きな構想を練ってらっしゃる?」
「あ、ちょっと待って下さい」と石川が横やりを入れた。
鞄の中からレコーダーを取り出し、コーヒーカップの置かれたテーブルの中央にそれをカツンと設置する。
「さあ、存分に」
自分は観客の一人になると言った風な微笑みに、野上は苦笑した。
「そう言う野上くんは、最近頑張ってるね。文体に艶が出て来た」
「艶、ですか…」
「そう、少し前までの釘をカクカクと曲げて刻み込んだ楔形文字みたいなのも良いけど、わたしは今の方が好き。女性ファンは前より増えるでしょう」
「そういう…ものですか?」
うん、と一つ頷いて泉は続けた。
「きみの知識も教養も唸るぐらい凄いものだけど、蘊蓄では人の心は動かせない。―――動く人もいるでしょうけど、両方備われば無敵ね。男性はそう言う所が羨ましい」
「先生が羨ましいだなんて…。先生の着眼点や構成の組み立て方こそ、何時も俺は脱帽するばかりですよ」
ふふ、と泉は低く笑って悪戯っぽい視線を寄越した。
「お世辞合戦だなんて最高に詰まらない対談じゃない?」
野上は編集と目を見交わした。石川はちょっと気取った仕草で「さあ、続きをどうぞ?」と言うような素振りをする。
「まあ、これは極論かも知れないけど、女は女でしかないのよ。歌舞伎の女形が女顔負けの女らしさを表現するのと、宝塚で男性役を演ってる花形スターを比べてご覧なさい。体格の問題と言ったらそれまでだけど、それだけじゃないものが女形にはある。両性具有はそれは魅力的だわ。特にこんな物語を売る商売ではね」
「自分の書いたものに今までそう言った男性性や女性性と言ったものを意識した事はありませんでした。ただ、どうしてなのか…そう疑問に思った時が書き出すきっかけになるだけで」
「疑問?」
「例えば…男と女の間に友情は成立するのか?と言った事です」
「子供っぽい動機ね。いえ、バカにしてるんじゃないの。素直で好ましい感覚だなと思って。…でも、きみ、決して人には言わない部分を隠し持ってるよね」
「え?」
「誰にだって一つや二つそんな秘密はあるものだけど、きみの場合はそれが隠し切れないぐらい大きくて深い。そう言ったクリエーターは優れた人も多いのだけど大概病みがちになる、心がね。きみにはそう言った不安定さがないのも不思議。まるで、メフィスト・フィレスとの取引が安全に履行された感じ」
野上はゆっくりと座り直しながら目の前の小柄な女流作家を見つめた。
彼女は占星術師のように言葉にできない不可視のものを、言葉と言う衣を着せて形を露わにさせる。
彼女によって書かれる物語は現実を(良しにつけ悪しにつけ)荒々しいくらいに深き彫りにするものだったから男性的と言えたが、語られる言葉は非道く穏やかで優しげだった。
「単純明快な疑問をためつすがめついじくり回す小賢しい部分が、そう言った風に見えるのでしょう…。俺も残酷な程子供らしい子供のままではいられませんから」
「残酷さと老獪さね。…大胆さと臆病さ、と言ったら良いかしら」
「狂騒と憮然でも良いですよ」
「あら、上手いわね」
あまり動かない女史の表情がちらり、と明るく輝いた。
年相応の皺を刻むその小さな顔は、ほんの僅かな変化でもとても沢山のものを物語る。それを快いものと感じつつ野上も笑った。
笑いながら、何故か傾いで行く泉の表情が驚愕に固まるのを視界の隅に捉えた。そこまでで野上の意識は途切れた。
「野上先生!!」
「野上くん?!」
編集と先輩作家の上げた声も男の耳には届かない。
「ああ、酷い熱…。石川くん、救急車呼んで」
「あ…は、はい!!」
黒い牛革のソファの上で変な形に崩折れた野上を泉は何とか体が横になるように寝かせた。
心配して様子を見に来ておきながら、久々に彼と話せる楽しさについ調子に乗ってしまった。野上は今や売れっ子作家で、自分のような時代遅れとは訳が違うのだ。そうした遠慮もあったから野上の変わらぬ態度に甘えてもいたのだろう。
いけない、いけない、やたらと包容力のある男だ。だからこそ誰もその懐に入れないのだ。必要以上に負担を掛けてはいけない。
野上の額に浮いた汗をハンカチで拭っている傍ら、石川はリビングと玄関を何度も行ったり来たりしていた。救急車を呼んだは良いが、エレベーターに担架が入るかどうかとか、この騒ぎでここに有名人が住んでいる事がバレやしないかとか、編集者としての仕事意識を半分丸出しに呟きつつ。

15分程して救急車がやって来た。それから4、5分程かかって地上40階の野上の部屋に到着した。下へ運ぶより先にその場で酸素吸入や点滴の応急処置がなされる。
ざわざわ、ばたばた。
その騒ぎは自分の部屋にいた徹にも当然聞こえて来ていた。
気になって出て行きたくとも今更わっと姿を現すのは奇妙な気がして、部屋の扉を開けたり閉めたりを繰り返していた。
その内、救急隊員と客2人が引き上げて行く気配がして、扉の前に立ち尽くしつつ激しく思い惑う。
―――やっぱ駄目だ。今出てったら妙な事口走りそう…。
落ち着かない息を呑んで、玄関の扉が閉まる音を遠くに聞いた。
何処の病院に連れて行かれたんだ、彼が目覚めるまで連絡する手段もないのか、肺炎とか別の病気を併発してないよな―――。自分一人この部屋にいて、どうしたら良いのか分からない。母にも父にも相談出来ない。
激しい孤独に取り残された。
何時の間にか野上がいなければ世界との関わりが断たれてしまったようだった。
厭な予感と不安に心臓が早鐘のように打ち鳴らされ、小さく手が震え出す。
そんなバカな、何甘ったれた事考えているんだと、自分で自分の手の甲に爪を立ててみる。
と、そこへ、ガタンと玄関の扉が開け閉めされる物音が耳に飛び込んだ。
気配の持ち主は軽い足音を立てて廊下を歩く。
一度リビングを覗きに行ったらしいその人物は、引き返して来て野上の仕事部屋の向かいにあるその扉をそっと引き開けた。
「!!」
まさか自分の部屋が開けられるとは思っていなかった徹は、至近距離でその女流作家と向き合っていた。
「あ…」と何か言い訳を言おうとした徹を泉は黙って凝っと見つめていた。
穏やかだが、特に微笑みを浮かべる事もない女史の表情に徹は戸惑った。自分の母親より一回りくらい年上だろうか、そんな女性に真正面から凝視されるのはとても居心地の悪いものだった。
「心配しないで、落ち着いたら連絡する。…ここの電話は仕事関係の人間からも掛かって来ると思うから、あなたの携帯教えてくれる?」
「え…あ、はい…」
落ち着いた雰囲気に何となく押されるように、女史が口にした電話番号を携帯に打ち込んでいた。コールすると何時の間にか彼女の手にしていたシルバーの携帯がバイブを鳴らす。
「きみ、名前は」それを確認した泉が問う。
「あ、斎原徹です」
「わたしは泉佳鏡、じゃあ後で」
短い会話があっけなく終わり、泉は出て行った。
徹は狐に摘まれた気分でベッドに座り込んだ。
先程コールした番号にイズミカキョウと言う名前をつけて登録したのは、しばらく後になってからだ。

昼食を摂るのも忘れ、心配するのにも疲れ果て、何時の間にか眠ってしまった徹は、握り締めていた自分の携帯が音高く鳴ったのに叩き起こされた。
「あ、はい…もしもし」と寝起きの掠れた声で応答すると、落ち着いた女性の声が耳に飛び込んで来た。
『徹くん?今野上くんが目を覚ました所』
窓を見やると空は既に紫紺の黄昏に沈んでおり、街の灯火がちらちらと輝いていた。
『替わる?』
「え、あ…」
もたもたしていたら電話の向こうが沈黙し、やがてガサゴソと持ち手の替わるらしい音が聞こえた。
『あー、もしもし?』
思ったよりずっと元気な声、それも思いっきり居心地の悪そうなそれだ。野上の声が聞けた事に徹は深い、長いながい溜め息を吐いた。携帯は自分の口元から離したままで。
「ずいぶん元気そうじゃんか。早いトコ病院行きゃあ良かったんだよ」
『済まん…』
「―――…」
『…………」
「じゃあな」
『おい!ちょっと待てって…』
「野上さん」
電話の向こうに泉佳鏡の気配を感じる。
その彼女に聞こえないように(聞こえる筈もないが)徹は声を潜めて言った。
「帰ったら一杯しよ」
『……ああ』
そして電話を切った。

「…ありがとうございます、先生」
野上は平静を装いながら携帯を泉女史に返した。
それを受け取った泉は無表情に自分のそれを見下ろしつつ言った。
「どういたしまして」
「先生…この事は」
「黙ってるのは良いけど、彼まだ学生よね。親御さんはご存知なの?」
「―――一応…友人て事になってますが」
「…ごめん、老婆心。余計なお世話だった」
思い悩み、苦しみさえ見せる男の横顔を眺めやって泉は、椅子の上に置いてあった自分のセカンドバッグを取り上げた。
「安心して、あなたのような人は他にもいる…」
そう言われても野上に返す言葉はなかった。それを気にするでもなく、この時刻まで男のベッドサイドに付き添っていた泉は病室を出て行った。
泉女史の言う事は尤もだった。
だがその直前、青年に呟かれた一言で全ての常識だとか倫理だとか世間体だとか、そう言ったものが悉く形を失って薄っぺらな存在となってしまう。
そこにはめくるめく享楽や愉悦と言うものよりも、果ての見えない深淵があった。崖の向こうとこちらに2人はいて、決して巡り会う事はない。なのに、触れ合える。
一体どんな罰なんだ。
溜め息を吐き出して、野上はカーテンの開きっ放しの窓の外を見やった。


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