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―記念文倉庫―

『落月』
常闇だ、射干玉の―――。
非道い落下感が続いている。内臓がひっくり返って、内側と外側が逆転しそうな程。
気分が悪かった。
寒気がして、熱さにのぼせていた。
闇の風にきりきり揉まれて、骨から節から砕け散って行きそうだ。
この感覚には覚えがある。
―――否だ。
と、そう全力で否定したかった。
―――否、否、否…。
だが落下は止まらない。
分かっている、これは運命なのだ。
―――否…。
この落下はもはや止められない。
落ちて。
落ちて、落ちて、落ちて。
やがて恐ろしい程に美しい景色の中、自分が何者でもない状態で立っているのを知る。自分以外そこには誰もいない。いや、むしろその景色には人など誰1人も「いない」。
空はゆるやかに穏やかに晴れ渡り、春のもしくは秋の日差しに輝いていると言うのに、その人気のない洋館とそれを取り囲む鬱蒼とした森は深夜の様相を呈していて、ぽつんと一つ街灯が点っているのだ。
マグリットの描いた「光の帝国」のような情景、それを自分は見ている筈なのに、そこには「人間の不在」しかない。
―――否だ、否だ、否だ…!
そう、何度も叫んだようではある。
それは何に対してなのか、誰に向かってのものなのか、もはや判別出来ない。言葉を発しているつもりが何時やら「ああ、ああ、ああ」と言うただの嘆息になっている事にすら気付かない。
「ああ、ああ、ああ―――…」
それは既に声ですらなく、木枯らしの風のように通り過ぎ、
己と言う存在が希薄になって行く。

溶けて行く。

消えてしまう。

落ちて、


―――ああ…。




びくん

と体が揺れて、光で一杯の視界の中で蒼白い影がそっと覗き込んでいた。強く両肩を掴まれ、揺さぶられた弾みに我に返ったのだと気付き、途端に気まずさが男を襲った。
霞む視界の中で影は揺れて、すっと身を引いた。
「うなされてたぜ」
傍らから静かに告げる声が響いて、心が完全に現実に引き戻される。
手をやった額にはびっしりと汗を掻き、体の上に掛けられたタオルケットの中で寝間着も不愉快なぐらい濡れていた。
「締め切りに追われてる夢を見た…」
男の強がりに、青年は鼻先で一つ笑った。
「そいつは、よっぽどだな…」
今暫くの沈黙が降りた。
男は強がって見せたが、今も苦しげな呼吸を繰り返している。
先程、彼が眠っている間に口の中の体温を測ったら40度近い熱があった。苦痛に耐えて食い縛った歯をこじ開けるのは結構コトだ。自分の指を代わりに噛ませて、何時になく非道く歪んだ男の顔を眺め下ろしつつ時間を待った。
男は呻いたが、譫言は口走らなかった。
―――何を…期待してたんだろうな、俺は。
と思って徹は自分の後ろ頭を掻いた。
「おい…学校は―――」
「今日は休んだ」
「…おま…、あんま休んでばっかいるといい加減留年するぞ」
「―――殆どあんたのせいだろ、野上さん」
ギシ、とベッドが軋んで青年が体を捻った。
上体を屈めて男の顔の上に覆い被さって来る蒼い、影―――。
野上は思わず顔を背けた。
キスなんぞして目の前の青年にこの最悪な風邪を移したくなかったからだ。それが分かったのか徹は少し動きを止めてからやおら、唇を落とした。
男の口の端に。そこに浮き出た汗を吸い取り、ぺろりと舐めた。可愛い子猫がやるような仕草で。
徹は唇に当たった男の頬に無精髭の痕跡を感じて、掌でそれをなぞった。せっかくの良い男が台無しだ。いや、こうして病に冒され、窶れていても尚男は「良い漢」だった。
「んな事より、どうするよ?もうすぐ客が来るんだろ?」
「…今何時だ?」
「9時半」
来客は10時の予定だ。
客と言うより取材だった。とある文芸誌の編集者が野上にインタビューを申し込み、それは本来なら彼の世話になっている出版社そばの喫茶店で行なわれる予定だった。しかし、野上本人が風邪でダウンした事もあって中止か延期と目されていた。それをこの男は自分は大丈夫だからと意地を張った。その挙げ句が今朝の40度近い高熱だ。自宅で30分程度なら、とこの仕事を安請け合いした仕事人間の野上に徹は本気で呆れた。
―――学校になんぞ、行ってられる訳ねえだろ…。
起き上がろうとした男を徹はやんわりと押し戻した。
「取り敢えず、顔洗って歯磨け」
言って、差し出された洗面器や歯ブラシセットに野上は動きを止めた。

布団を濡らさぬようそっと顔を洗い、歯を磨いている間、徹は男の寝間着を剥ぎ取って、汗で濡れたその体を暖めたタオルで素早く丁寧に拭った。互いに何も言わぬが、その行いに曰く言い難い淫靡なものを感じて目を反らし合った。
状況が状況でなかったら、すぐ様熱の坩堝に溶け込んでしまいたい、と思わせる。それは徹が髭剃り片手にベッドに乗り上がって来た時にピークに達し、思わず野上は青年の右手を捉えてその行為を中断させた。
「そんな事までさせる程、熱に浮かされちゃいねえよ…」
「―――…」
徹は感情の窺えない無表情で取られるままに髭剃りを男に譲ると、ベッドから降りた。
「着替え、そこ。…何か口に出来るか?」
「いらねえ」
「葡萄があるから少しつまんどけ」
青年の後ろ姿が静かにそう告げ、寝室を出て行った。



野上の「昔」の記憶は、自分の死から始まる。
小児喘息持ちだった幼少期、勝手に呼吸停止する事が何度かあった。苦しいのだがその内何も分からなくなって、気がついたら病院で喉に太い管を通されて横たわっていた、などと言う事も度々あった。
その時の臨死体験から男の回帰は始まったのだが、幼かった頃はそれが喘息によるものなのか、そうでないのか見分けはつかなかった。
はっきり自覚したのは中学を卒業する頃だ。その時には発作も殆ど納まっていたので喘息とは何ら関係のない所で自分は一度死んだのだ、とすんなり納得する事が出来た。
後は、走馬灯のように記憶は「過去」へ遡って行った。
だから、初めに野上には喪失の痛みが植え付けられた。
それも己の生命の喪失ではない。大事な人を置いて行く、と言う胸を掻きむしられる程のどうしようもない喪失感だ。
「昔」の記憶の中でどれだけ熱い戦を駆け抜けようと、どんなに仲間たちとじゃれ合おうと、どれ程愛しい人と熱くて蕩けるような夜を過ごそうと、最初に植え付けられたものは男の胸を蝕んだ。
―――結局失う事になるのなら、何でこんな事思い出さなきゃならないんだ…。
訳の分からない憤りが野上の中学、高校時代を真っ黒に、射干玉色に染め上げた。
「昔」の記憶の中の明らかに自分だと分かる「大人」を拒否し続け、それが自分だとは決して認めようとはしなかった。
頬をナイフでざっくり切り付けたのは、全てを思い出した直後だ。高校に上がったばかりの頃だったか。記憶の中の自分には頬に傷があったが今の自分にはない。だったら、わざと、恣意的に、付けてやれば良いと記憶の中の自分に向かって唾棄するつもりでやった。
結局、それが転機だったのだろう。
頬から血をだらだら流して呆然としている鏡の中の自分は、「記憶」の中の男そっくりで―――ただ、今、ここにあの人はいない、と言う事実だけが残ったのだ。
自分がいて、確かに「生きた」記憶はあるのに、あの人だけがいない。
愕然となった。
その時それは「過去の記憶」ではなく、「今の痛み」となっていたのだから。



来客中、徹は自分に与えられた部屋に一人閉じ篭っていた。
別に野上に言われた訳ではないが、下手な嘘でその場を誤摩化すのも面倒だし、野上の小説家としてのキャリアをスキャンダルで汚すのも厭だった。そんな徹に野上は「小説家は多少エキセントリックなバックグラウンドがあった方がそれらしい」などと軽口を叩いた。
確かに、今のマスコミは徹の存在を面白ろ可笑しく取り立てるだろう。
だが、そんな騒がれ方を徹は望まなかった。
誰にも気付かれぬまま、ひっそりとこの関係を続けて、昼間の月が沈んで行くように音もなく終われば良い、そう思っていた。
今日やって来た文芸誌の編集者は1人ではなく、何故か50絡みの小柄な女性を伴って来た。玄関先で2人を出迎えた野上は、具合が悪い事を感じさせない様子で驚いて見せた。
どうやら同じ作家らしい。野上の態度がかなり改まった所を見ても大御所、もしくは尊敬に値する人物と徹は見た。
そう言えば徹は野上の今の人間関係を何一つ知らない。
唯一知っている事と言えば、遅くに野上と言う1人子をもうけた、だいぶ年の離れた両親が九州にいる事ぐらいだ。
ふとそれが知りたいと思った。
どんな子供時代を過ごし、どんな学生だったのか。どうやって小説家になり、今どんな交友関係を持っているのか―――。
女々しい、と思うと同時にそんな人物たちの中に自分が自然と紛れ込んでいる情景が、意識するともなく頭の中に浮かぶ。
―――有り得ない。
すぐにそう打ち消した。
自分はどうだ。両親や妹、数多くの親戚の中にあの男が何食わぬ顔で加わって談笑なんぞしたりしたら。
ちょっとだけウキウキした気分になった。
―――有り得ねえから…。
ぐるぐるする思考を持て余しつつ徹はベッドに横になって枕を抱えた。
ふと目を止めた窓の外は、白く霞んだ陽炎のような雲と、灰色に煙った遠い街並がのっぺりと広がっていた。地上40階には季節感なんて全く有り得なかった。陽光は未だ射るような強さだが、風と叢からは秋の訪れがはっきりと聞き取れる筈だ。
木漏れ日の心地良い公園なんかをそぞろ歩きたい、そう思った。


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