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―記念文倉庫―
9●
ここも幼い頃は少年の秘密基地だった。女中らはここまで探しに来る事も滅多になかったし、見つかる前に戻っていたから隠れて遊ぶのにもってこいだった。唯一、父だけが政宗を見つけ、夜中に2人して縁側に寝転んで天の川を眺めたりした。
―――父の家だ、と思ったから放っておけなかったのだ。
だが今はその父の面影を思い出すのすら難しく、別の見知らぬ女が幅を効かせている。父と母の間に愛などない、とは幼心にも早々に勘付いていた事だ。
先頃妻を亡くした石神を思い出せば、彼こそ憎んでいながら愛してもいた。いや、愛していたからこそ裏切られて憎まずにはいられなかった。そんな心の弱さを政宗も又愛しいと思ったのだ。
それすら、この女にはない。
東京が、恋しかった。
外資系会社を興した父は早々に山形の山奥にあるこの実家から出て、情報と物流の世界的センターである東京に居を構えて忙しそうに飛び回っていた。そのあっけらかんとした、けれどゴミゴミとして温度の低い都会の有様が、非道く懐かしい気がした。
「さーてさて、もう一つ!」とオレンジの髪の青年が芝居がかった声を張り上げる。
「この2人はですね〜」
声に合わせて政宗は明るい髪色の青年に腕を引っ張られる。もう一方では仁王立ちしていた男もぐいぐいと力任せに引かれ、不機嫌丸出しの顔を振り向けていた。そんな事を屁とも思っていない様子で2人の腕を両腕に抱えてにっこり微笑む青年が明るく言った。
「目出度く結ばれちゃってるので引き剥がさないでやってくれる?」
「なっ…佐助!!」
「ふざけた事言ってんな猿!」
2人同時に突っ込まれた青年はぺろりと舌を覗かせて見せた。
それも直ぐに引っ込み、笑いを納めた彼の見やる先には、簾の影で項垂れる人物がいた。
「ま、冗談抜きで…。このくらいの事、短時間で平気でやって退けるような人間が彼の側にいるって事だけは覚えといてよね、奥様?」
相手に与えるダメージを十分計算して吐かれた台詞だ。軽さの中に鋭利な刃が忍ばせてある。それは軽やかに宙を舞ってギラリと輝く。
「マジかよ、兄貴…」と呟く弟を政宗は振り向いた。
「…うるせえ」
可愛げもなく返したが、佐助に促されて部屋を出て行きかけた。その左目が止まって、足も止める。
「茂庭…任せて良いんだな」
縁側に座したままの、未だ三十路半ばになるやならずやの男は、微かに頭を下げた。
「政宗様がお戻りになられるまで勤めさせて頂きます」
「戻らねえかも…知れねえぜ?」
「それならば、あの世のお父上に顔向け出来るよう、生涯尽くさせて頂きます…」
思わず溜め息が漏れた。
呆れたのではない、彼のような男がこんな家の為に身を粉にして働くのが惜しまれたのだ。
「親父は、あの会社を見捨てても怒りゃしねえよ…。けど、ありがとう」
「いえ…」
政宗は短い別れ言葉を口にしてその男を後にした。

3人は片倉の車に無言で乗り込んだ。砂利の敷かれた駐車場を出て田畑脇の私道をゆっくりと走らせる。そのうち幅広い国道へ乗せて車はスピードを上げた。その時になっても彼らはだんまりだった。
沈黙の中に響いたのは、佐助の溜め息だった。
「もう…本気で心配したよ、伊達チャン?」
「………」
返す言葉もなく、そっぽ向いて車窓を流れる田園風景を眺める政宗を見やって、佐助は片手を伸ばした。
「こら、ちゃんと聞きなさい」
耳を引っ張られて顔を顰めながら振り向いた青年は、佐助の手を振り払いつつ言った。
「会社に入ってから自分で片付けようと思ってたんだよ」
「嘘言え、経営のけの字も知らないクセに」
「………」
「ま、何でも良いや。俺様を敵に回したらどうなるか思い知ったろうし」
「むちゃくちゃな事しやがるぜ…」
「シナリオ考えたのは小十郎さん」
え、と口の中で呟いて政宗は運転席の後ろ姿を見やった。
バックミラーの中の男の顔はむっつりと黙り込んで、腹の中にふつふつと滾るものを押し隠していた。政宗はバツの悪い思いでそれから目を反らした。
「後は今後の身の振り方だねえ。良い機会だからちゃんと考えなよ?高校に戻るのも良いし、音楽の道に進むのも良い…。―――あ、ただ一つだけお願い。ダンナを安心させてやんの、忘れないでね」
あの単細胞の友人の事だ、非道く心配して、非道く憤るだろうが、それも又彼の心根の優しさ故だった。
「…わかってるよ」
ようやくそれだけを呟いて、政宗はやっぱり黙り込んだ。

日暮れて、東京に入った。
暑さのピークも、陽の長さのピークも過ぎ去って、オレンジと闇色に染まる街並みはいたく穏やかだ。
佐助を池袋東口の駅前で下ろした。片倉は残った政宗を乗せたまま車を走らせた。2人きりになっても碌に口を聞こうともしない男に根負けして、政宗はぼそりと呟いた。
「色々と…済まなかったよ」
黙っていなくなった事は勿論、バイトを無断で欠勤した事もある。学校には退学届を出したものの理由は言えなかった。それにメルやトラジローの事だ。片倉に対して大口を叩いた事がある身としても、ペットの飼い主としても最悪なやり方だった。
「…お前を鎖でつないで地下室にでも放り込んでおいてやろうか?」
男の背がいきなり物騒な台詞を吐き出した。
息を呑んで黙り込む青年をバックミラーで盗み見て片倉は小さく息を吐いた。
「運転しながら片手間に話したくねえ…ちょっと待ってろ」

雑司ヶ谷霊園沿いにある事務所へは夜の7時過ぎに到着した。
政宗のアパートか武田の診療所に行くものだと思っていた政宗は、当然のようにガレージに車を停めシャッターを下ろす片倉の傍らに所在なげに突っ立った。
「あの家に未練はあるか?」チャリ、と鍵束を鳴らして男が問うて来る。
しばらく逡巡した政宗は、薄蒼い黄昏の中で微かに首を振った。
「あんたの言う未練が財産や家屋敷って意味なら、Noだ」
「思い出は捨て難い、か」
「―――…」
それに対しては、YesでもNoでもなかった。
思い出は捨てたり抱えたりするものではない。今もこの胸の中に刻まれる感情に彩られ、そしていずれは色褪せて行くものだ。けれど自分が生きている限りそこには絶対にあるものだし、そう言う事もあったと笑い話になる時は来る。
それだけの事だ。
「ま、上がれ。何もない所だが」
そうして、3階のプライベートルームに入るなり青年は片倉に抱き締められた。
頭の後ろと背中を男の大きな掌が覆って、体と体をぴったりと密着させる。抵抗する間もクソもあったものではなかった。
「…手前が…得難い友人に恵まれてる事を感謝しろよ…」
男の声が耳元だけでなく、合わせた体を通してダイレクトに体中を震わせた。何の事やら分からない政宗は、引き剥がそうとして掴んだ男のシャツを戸惑いがちに握り直すだけだ。
「佐助と幸村がいなかったら、お前を見つけられなかった…。まさか実家に帰ってたなんてな、思いも寄らなかったぜ…」
佐助はともかく何で幸村だ、とは思ったが、大事そうに己を掻き抱く男の仕草にそれは問いにすらならなかった。そうやって大人しく抱き締められていたら、体を押されてぐらりと傾いた。
思わず男の背にしがみついたのと、ぼすんとベッドに沈んだのがほぼ同時、そのまま荒々しくシャツの前を肌けられ左、右と、慌ただしく首筋を吸われる。
「ちょ…っ、話が、あるんじゃないのかよっ!」
「今してる」
「な…」
「体に言い聞かせてやってんだよ…どれだけ俺が―――」
言葉を不意に切った片倉は、己の下に組敷いた青年を見下ろした。
乱れた髪が長くシーツに散っている。広げたシャツの間から覗く喉元には、たった今付けた所有印が生々しく色付き、狼藉を働こうとしていた腕に添えられた手の温もりは間違う事なく本物だ。
「…………」
続く言葉を片倉は口に昇らせなかった。
抵抗する訳でもない両腕をベッドに縫い付け、その唇に唇を落とした。思ったよりも素直に口付けを受け返して来る青年の顔を一度覗き込んでから、深く深く舌を絡めた。
歯列をなぞり、その間から覗く舌先をぐるりと舐る。
上がる息を時折逃がしながら無防備に開かれた唇の中へと深く深く、己を潜り込ませる。
つ、と青年の口の端から溢れた唾液が糸を引いて流れた。
片倉はそれを舌先でちろちろと追った。そのまま尖らせた舌を耳の中へ這い忍ばせる。体を強張らせた彼を抑え付けて耳殻の刻む螺旋を舌先で追った。
震える体が男に火を点ける。
だが、不意に男は動きを止めて青年の顔を覗き込んだ。
「抱いても…良いか?」
何を今更、と政宗は男の顔を見上げた。
何かに堪えているような表情が、男がどれだけある事を恐れているかを政宗に伝える。
「…………良いけど…。別に、嫌いじゃない」
実に婉曲な承諾に、片倉はニヤリと笑った。
「んじゃ…、しょっぱなから飛ばしても良いか?」と唇を寄せた耳元で囁いてやる。
青年の背をぞくりと這い上がるものがあり、それは覆い潰してしまうように政宗の心臓を締め上げた。男の一挙手一投足が自分の中に音のない音を掻き鳴らして行くのを感じる。
「そ…んなの、まで俺に、聞くな…っ!」
「―――良い子だ…」
笑気含みの低い声に鳥肌が立つ。
顎の下を両手でホールドされ、口をぴったりと塞いでしまう程のキスをされた。覚束ない両手で青年は男の逞しい肩にしがみつき、腕を絡めて抱き寄せる。
呼吸も、時間さえも止まるような口付けだった。
予感より素早く望んでいた熱が与えられ、そうして初めて政宗は自分がこの男に心まで奪われていたのを知った。


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