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―記念文倉庫―

青年は黒田が就寝する時間帯―――午前中に、部屋の中のものを全てリサイクルショップに持って行った。勿論、何日かに別けて、だが。
最後に残ったのはトラジローの鳥籠とメルのゲージと猫トイレだ。
いや後一つ、この部屋の鍵だ。
元から何もない部屋だが生活に必要な一切のものまで片付けたので、人の気配の絶えたただの箱のような印象を与える。その自分の部屋の真ん中で、メルとトラジローを前に政宗は鍵束を見つめた。
手の中で玩ぶとチャラチャラと清かな音を立てる。
訳が分からないまま男との関係を受け入れていた。この鍵が青年の心の扉までも開けてしまったように。かと言って、失いたくないと思える程それは自立したものだったのかと問われれば、そんな事はないと言いたかった。
ずっと受け身でいた。来る者は拒まず、去る者は追わず。固定された存在と言うのは自分だけの筈だった。
それが、今でも時折肌の上を滑る男の手をまざまざと思い出す。それの齎す疼きと快楽と切なさと共に―――。
何か自分が得体の知れないものに書き換えられてしまったようだった。あの男の吐き出す言葉以上にこの身と心を震わせる色と音などないかに思われた。
不思議な男だった。
だが、一時の気の迷いも自分がいなくなる事で醒めるだろう。あんな男には包容力のある、ちゃんとした女性の方が相応しいのだし、そう言う相手と結ばれる機会はこれからも山のようにある筈だから。

なーう…、

毛繕いを終えたメルが政宗の傍らに歩み寄って来た。
何も知らないメルやトラジローを残して行くのは何より辛い。だが、きっと武田や幸村が渋々ながらも面倒を見てくれる筈だ。自分はその行為に甘えるしかない。
心が2つに引き裂かれるようだった。
アイスブルーの瞳が見上げて来るのに耐え切れず、青年は小さな体を抱き上げて頬を摺り寄せた。
「ごめんな…メル…トラジロー……」
今は、小さな存在を失う事を恐れはしない。
ペットを飼う人間として最低の誹りを受けるだろうが、それは自業自得と言うもの。罪と罰なら幾らでも受けよう。だが、それだと言うのに心の半分を置き去りにして行くかのような苦痛が、胸を押し潰してしまいそうだった。
「―――ごめん…」

 ごめん

その言葉と共に、六畳間の中央に鍵束の留まったキーホルダーを置いてアパートのその部屋を出たのは、高校の始業式の朝だった。



3日振りに自宅である診療所に戻った佐助は、静かな受付の有様に一瞬淀んだ。
「佐助ちゃん」と声を掛けて来たのは顔見知りの客であり、近所のおばちゃんだった。
「ちょっと、最近どうしちゃったの?お通夜みたいよ?」
チワワを抱えたその婦人が声を殺して言うのに、佐助は待合室のベンチを見渡した。こちらを顧みる知った顔のどれもが同じ疑問を抱えているのが見て取れた。
扉一枚を隔てた処置室が静まり返っていた、それが全てを物語っている。
「ごめんね、今はちょっと辛い事があってさ。大将もダンナも調子出ないんだ」
「辛い事って?あたしたちに出来る事なら何でもするよ?」
「ありがとうね〜。その気持ちだけで十分だから…それにきっと直ぐに元気になるって」
「―――そう…?」
それなら良いけど、と言って婦人はベンチに座り直した。
受付カウンターを潜って奥の処置室を覗くと、そこには武田が1人でラブラドールの口の中を覗き込んでいた。
「大将、ただいま」
そう佐助が声を掛けると武田は上の空の様子で「大儀であったな」と呟く。傍らに立っていた飼い主らしい少年とその母親が同時にこちらを見て、それからどうにも覇気を感じられない武田を見やる。
「―――…」
学校から帰って来ている筈だが姿の見えない幸村の所在を尋ねる事が憚られる背中をもう一度見つめ、佐助は処置室を後にした。
見て回った居間にも台所にも姿はない。
2階へ上がって幸村の部屋の戸をノックした。
「ダンナ、いるの?入るよ?」
返事がないまま、佐助は戸を押し開けて見た。そこにはメルを抱き締めてぐずぐずと鼻を啜っている幸村の横顔があって、佐助が入って来るなり慌てて顔を拭う仕草をした。
「あーあぁ、そんなに泣いてると目が溶けちゃうでしょ、ダンナ」
「泣いてなんかいない!」
「うんうん、泣いてないけど、目が溶けちゃうから」
「―――…」
佐助は幸村の隣に座ってベッドの縁に寄りかかった。
「こんなに…あの子の存在が大きかっただなんて俺様、思わなかったよ。小十郎さんの中のそれと比べたらそりゃ、ちっぽけかも知れないけどさ」
「…佐助…」
「ん?」
振り向くと、メルと額と額を合わせた幸村の横顔が何処か遠くを見つめたまま、呆然と口だけを動かした。
「政宗どのはメルにも、トラジローにも…、それだけでなく俺たちにも"ごめん"と言い残されたそうだ……」
「―――」
謝られて哀しいと泣く世話のかかる義弟を佐助はその細い肩を抱き寄せて、強く引き寄せた。
「…謝るぐらいだったら、何か言ってけっての……あのガンコ者…」
必ず探し出すから、と佐助は呟いた。
探し出して説教の一つや二つ大人しく聞いてもらおうじゃないの、大将の説教の後にでも―――。そう思いを新たにして、佐助は子猫と大きな体の猫を一緒に抱き締めた。



政宗は由緒ある日本家屋の長い廊下をひたすら歩いていた。
うんざりする程長い廊下だ。
それに古い。
石神の屋敷も古かったが、ここはその比ではない。政宗は小学校に上がる前までしかここで暮らさなかったが、その頃には迷子になりながら迷路ごっこと称して楽しんだものだ。
今はそれも幻だ。
目の前を先導する男は優秀な秘書官で、今の伊達の事業の殆どを彼が切り盛りしている。いずれ政宗の右腕となる男だった。
まるきり想像出来ない。
案内された先は、モダンな庭園を渡った先にある離れだ。そこへは1人で通された。
薄暗い室内に和紙で覆われた行灯のような照明器具が一つきり置かれ、ほんのりと輝いていた。そして、静かな農村であろうとも日本国中何処もかしこも酷暑に覆われていると言うのに、そこだけは違っていた。
政宗は床の間の前に腰を下ろした。
床の間には床すれすれまで簾が下ろされており、中に人の気配があるのにその姿を青年からは遮っていた。
「ただ今戻りました、母さん」
それへ向かって政宗は静かに両手を突き、頭を下げた。
「忌々しい……。今更しゃしゃり出て来て家督を横から攫うとは」
「父の遺言があった筈です。俺が正式な跡取りだ、弟ではなく」
「お前の父は死んだ!」
女の絶叫の後を沈黙が震撼として場を満たした。
「そうだ…貴女の望み通りに」
「………っ」
「弟は、誰の子供だ?」
一拍置いて、簾を跳ね退けて湯飲みが飛んで来た。それは全くの見当違いの方角へ向かって落ちて行った。
「それでは、これから直ぐ手続きに入ります」
もう一度丁寧に頭を下げると政宗は立ち上がった。
だが、立ち去ろうとして簾の向こうで息を荒げる女を振り向く。
「父はこの古い家には見切りを付けていた。まるきり妖怪が棲んでるみてえなカビ臭い伊達家にはな。…俺は親父の意志を継ぐぜ」
「……こ、この…親不孝者めが…っ!!」
こんな時にだけ母親面か、と思うと如何にも笑えた。
簾の向こうへは皮肉に口をひん曲げてやってから背を向けた。
そこへ「失礼致します」と声が掛かり、雪見障子を開けて先程の秘書官が姿を見せた。
「お客様がお見えです」
「…客?」
振り向いた政宗がその秘書官の後ろに姿を現した「客たち」を認めた途端、唯一の左目がこれ以上ない程見開かれた。
「何をしている、入って良いとは言っておらぬ…!」
簾の向こうから動揺した女の声が上がったが「客たち」は秘書官の背後からズカズカと一室に入り込んで来ていた。
「あらあらあら〜、こんなにいいお天気なのに閉め切っちゃってぇ〜。だから病気も悪化するんですよ、奥様?」
場違いな程に明るい声で、明るいオレンジの髪を揺らした若い男がそう言い放つと雪見障子を悉く開けて行く。それを廊下に跪いたままの男は身じろぎもせず、見やりもせず、好きなようにさせていた。
もう一人の客人は、品定めでもするように白日の下に晒されて行く簾を眺めてその前に仁王立ちになった。
「株式会社の仕組みってのを、あんたは知ってるか?」
相手が誰だろうともその自信に満ちた態度を崩さず、男は尋ねた。そして返事はない。
構わず、男は続ける。
「中間管理職はいざ知らず、経営陣や役員の指名や除名は株主たちが合議の上で決める。伊達義江、あんたの持ち株は何パーセントだったか?」
「20%です」とそれに応えたのは、廊下に控えた秘書官だ。
「バカな!私の持ち株は70%以上だった筈…」
「私が売却しました」
「な……っ」
「貴女より高く買って下さる人がいらっしゃったので」
「……そう言う訳で」と主人と飼い犬の関係が崩れた2人の間に男は割り込んだ。
「新しい取締役はこちらの秘書官どのに決まった。他の株主たちも何にも知らない高校生がなるより、仕事に精通している男の方が良いってよ。―――これで会社は片付いた…」
勝手に話を進める男を政宗は少し離れた所から無言で眺めた。
感情の削げ落ちたそれは、驚きも去り、ただ余計な事をと不機嫌そうに顰めているように見えた。
それを無視して茶番は続けられる。
「おい、入って来い」
男に呼ばれ、もう一人の若い男に引っ張られて1人の若者が渋々姿を現した。
政宗は声だけは聞いていたが、姿を見るのは10年以上振りだったので誰かは直ぐには分からなかった。だが、話の流れから言って自身の弟である事は間違いないようだ。
それが、「よう兄貴、久し振り」などと軽い挨拶を寄越して来る。
「会社っておまけ付きじゃなきゃ家を継いでも良いそうだ」
そう言う男に肩を引き寄せられ、簾の前に引き立てられた若者は不貞腐れたように突っ立った。
「…だって母さん、会社経営なんてオレ全然わっかんねえもん…。第一無理だろ、学校の成績だって中の下だし。大学にも行きたいし、まだまだやりたい事もあるし」
悪びれもせず言い放つのは、何処にでもいる普通の若者だった。政宗に電話して来て、助けてくれ家を継がされそうなんだ、と泣きついて来た面影は一つもない。
あれは何だったのだ、ただの猿芝居?あるいは白昼夢?
政宗は離れの天井を振り仰いだ。

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