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―記念文倉庫―

「どうした」
不機嫌さを隠して静かに尋ね返した。
普段、声を張り上げるようにして喋る青年が今は囁くようにちょっと掠れた声を出すのがさすがに痛ましい。
幸村はもう暫く戸惑ってから、その釣り目がちの大きな瞳をひたと振り向けた。
「政宗どのを…追って行ってはいただけまいか…?」
「―――追う…?」
「何者かに脅されておられたようでござる…。その、政宗どのが行かなければ誰か別の者が犠牲になる…とか―――…」
思わず、力尽くで青年の両肩を掴んでいた。
「手前…っ、政宗から何か聞いてんのか?!」
凄まじい形相だったのだろう、見返す幸村の目が更に大きく見開かれ、揺れる。
それからもどかしいぐらいの逡巡の後、青年は言った。
「メル、でござる…」
「メル?」
「信じて頂けないのは百も承知しているでござるよ!しかし、メル相手に政宗どのは独り言のように呟かれたのであろう。誰にも何も告げなかったとしても、メルにだけは思わず本当の事を言ってしまうのは想像に難くないでござる!」
「…は…っ、幸村、お前―――」
動物の言葉が分かるって?と片倉は可笑しかった。政宗がいなくなったせいで終に頭のネジが一本弾け飛んじまったか?と皮肉な思いに口の端を歪める。冗談なら後にしてくれ、と言って顔を背けた。
「メルは…っ!」とそれを追って幸村が片倉の腕を掴んだ。
「メルは政宗どのの事をママと呼んでおる。…そして片倉どの、そなたの事はパパだと…。片倉どのは、政宗どのを愛して…おられるのであろう…?」
見る間に茹でタコになって行く青年の顔面を見下ろしながら片倉は徐々に納得して行った。
幸村に2人の関係がホストクラブのオーナーとそのアルバイト以上であるなどとは想像も出来まい。メルの前では赤裸々にあの青年の体を開いた。子猫はそんな2人の様子を見て、猫同士の交わりと同じコトをしていると野生の本能で解釈したのだろう。更に言うなら人間の性別など、動物には分かろう筈もない。
頭のてっぺんから湯気を立てて俯く幸村は、それでも何とかして顔を上げた。するとぬっと大きな掌が迫って来て、思わず体を強張らせて目を閉じる。
「もっと詳しく聞かせろ」声は頭の上に置かれた手の向こうから聞こえた。
「…動物の言う事でござる…具体的な事は何も―――」
「構わねえ」
ぐらぐらと頭を揺らして手は離れた。
その向こう側に見えた男は何処か遠くを見るようでいて、その実厳しさと宵闇を深く刻んでいた。

診療所を辞して池袋の事務所へと走らせる車の中で車載電話をコールした片倉は、電話に出た相手に事情を洗いざらい喋った。
『ちょっと…、それってヤバいんじゃないの』と非難の声が第一に上がる。
「わかってる、だからお前を雇う―――佐助」
『……最悪』
佐助は電話の向こうでこれ見よがしに嘆息した。
「…幸村の事は知ってたのか、お前」
『まあね、あの子隠し事ヘタだし。でもまさかなとは思ってた。動物たちの気持ちが良く分かるのは、それこそ野生の勘かなって。でも本当に分かってたんだー、何か自慢〜』
「能天気な野郎だ」
『こっちの事はどうでも良いよ』
さくっと切り返して来た佐助の声音が変わった。
『前も言ったけど小十郎さん、あんたの作った問題の種が原因だったら俺様も容赦しないからね』
「………」
『ちょっと聞いてる?』
「聞いてる」
『当然だと思うけど伊達チャンとは完璧に縁切ってもらうから、いいね?んじゃ、彼のここ最近の身辺調べてみる』
片倉の返事も聞かずに電話は一方的に切れた。
思わず長い溜息が漏れる。

事務所は南池袋の雑司ヶ谷霊園添いにあった。都電荒川線が直ぐ側を走る一角だ。看板も何も構えていない、グレイのタイル張りの外観の建物が建つ。一見マンションのように小ジャレているがエントランスは堅く閉ざされていて実に素っ気ない。そこのガレージに車を停めてシャッターを下ろすと、エントランスの鍵を開けて中に入った。
自宅と言うものを持たない片倉の事務所兼自宅だ。3階建てのその最上階にベッドとクローゼットだけの部屋がある。寝に帰るだけだから余り広くもなく、小さな窓が一つあるきりだ。
片倉はベッドの上に上着と車のキーを放るとシャワールームへ一度消えた。15分程してそこから出て、Gパンとコットンシャツと言うラフな格好で自室を後にする。
事務所は各階に大きな会議室と資料室、それに庶務室があった。それの一階資料室で記憶を頼りに綴じられたファイルを漁った。事業を興す時に集めた資料やその時作成した書類などだ。その中から今は懐かしい大学時代のものを掘り出す。
それらを一階の会議室へ持って行ってパラパラと捲る。
佐助の言う通りだ。
人を踏む―――。
踏んだ方はその事すら忘れてしまうが、踏まれた方はその仕打ちを忘れはしない。踏まれた事によって一方は成功し一方は地を這うような辛酸を舐めているのなら、尚更だ。
―――意味のない事だ…。
今更、過去の自分に舌打ちした所で何もかもが後の祭りだ。片倉はファイルをテーブルの上に放り出した。
情報屋のプロに頼んだのである、後は報告を待つしかない。



片倉はがらんどうのボロアパートの一室で立ち尽くしていた。
ここであった様々な事共や交わした会話が頬を撫でる微かな風のように、浮かんでは消える。
黙って姿を消したのであれば追うな、と言う意味なのかも知れない。未だ年若い青年にとって自分のような存在は一時の快楽や遊び、あるいは本気の想いと言うものがただ重荷になるだけだったのかも―――。
放っておいたら果てしなくマイナス思考に落ちて行くのを、男はひっそりと耐えた。
いっその事、自分の商売敵が彼を使って自分をどうこうしてやろうと企んでいる方がマシだ。全てが一件落着した後に佐助の言う通り青年と縁を切るハメに陥ったとしても、嫌われたのでなければ潔く彼の前から姿を消そう。
少しは自分との別れを惜しんでくれるかも知れないではないか。
そこまで考えて、男は苦笑する力もなくふ、と息を吐いた。
つくづく自分はあの青年に魅せられている。
「愛してる」
とそう、コトの最中何度も囁いた言葉をあの青年はどう受け取っていたのだろうか。閨事のお伽噺、程度にしか思えなかったろうか。今もその言葉を思うと、こんなにも苦しいと言うのに。
「…何だ、あんたか」
声に振り向くと、ちょっと開いた戸口から隣室の黒田がのっそりと顔を覗かせていた。
一般人は皆眠る時刻に、この男は今目が覚めたばかりのようにさっぱりした顔つきだ。明かりのない政宗の部屋にあった人影をシルエットで見分けた黒田は、一度詰まらなそうに顔を引っ込めてから再びひょいと覗いて来た。
「ビールがあるが?」と、長く垂れた前髪を揺らして小首を傾げる。
片倉は仕方なしに、と言う体を装って体を揺らした。何が楽しくてむさ苦しい男とむさ苦しい部屋でビールなんぞ飲まなきゃならねえんだ、そうは言っても飲むのも悪くないと思ったのだ。
一年中出しっ放しのコタツ机の上に缶ビールとつまみの柿ピーが無造作に置かれていた。
黒田は自分の定位置である座椅子に腰を降ろし、片倉にはそこに敷いてあった薄っぺらい座布団を差し出す。
何とも黴臭いそれに座る事に抵抗を感じた片倉は黙って畳に直座りした。そうして勝手に缶ビールの蓋を開け、大きく2、3口を飲み干す。
「いわゆる"綾鼓"の心境か…」と黒田は面白くも何ともなさそうに呟いた。
「綾鼓…?」
片倉の問いに黒田は飲みかけの缶を傾けながら頷いた。
「能楽だ、"恋重荷"でもいい。ま、あんたの場合は嫌がらせをされてる訳じゃないからやっぱり"綾鼓"かな」
「…何の話だ」
封を開け、机の上に広げた柿の種を頬張りながら、片倉は不機嫌そうに尋ね返す。やっぱり断るべきだったかと少しだけ後悔しつつ。

「ひとときの 安らぎも得ぬ
 苦しみは 我が身より出
 踏みしめし 恋路にまよひ
 よるべなく あくがれまどひ
 いたづらに まつはりつきて
 かのひとの 重荷となりぬ」

似合いもせず黒田が一節詠った戯曲に片倉はむっつりと黙り込む。

「恋ひ恋ひて 夜の枕に
 うち伏せば 人にも逢はむ
 ほほ笑みて 語らうことの
 尽きぬこと 泉のごとく
 やはらかく 握りたる手の
 愛(かな)しきこと 命のごとし
 いとせめて ひとめなりとも
 醒めてのちに 逢ふよしもがな

 恨みかね 思ひむすばれ
 恋しさは あくがれまどひ
 身にあまる 重荷となりぬ
 ひとときの 安らぎも得ぬ
 苦しみを いづこへやらむ
 いかにせむ 誰に伝へむ」

「"綾鼓"も"恋重荷"も身分違いの女御に恋をした老人が無理難題を押し付けられて、ついにそれが叶わなかった為に自ら命を絶つってあらすじだ。ちなみにさっきの歌は重荷の方だ」
「手前…ケンカ売ってんのか?」
「早まるな、これだから血の気の多い奴は―――」
黒田は垂れた前髪の下の口をひん曲げて「身分違い、とまでは言わないが、あんたらはちょっと…ちぐはぐなんじゃないのか?」と言った。
「―――…」
「お互い、その年齢と立場に見合った相手がいると思うがな」
その日暮らしの劇作家志望の男がやけに分別臭い事を言ってくれる、と片倉は苦い笑いを浮かべた。
「だから手前は何時まで経ったって"志望"なんだよ」
「何だと?」
「言われなくたって分かってる」
「―――…」
もう、動揺も憤りも納めた男が小気味良く缶ビールを空けて行くのを黒田は何となく見やっていた。全て分かっている、分かっていながら、それでも尚―――。
胸の奥で何かが書けるかも知れないと言う期待感が沸き上がって来る。
黒田は目の前に片倉がいるにも拘らず、傍らに放ってあったノートパソコンを開いた。口の中でぶつぶつと思い浮かぶフレーズを繰り返す。忘れないように、取り零さないように。
そこまでして思う想いとは妄執か、果たして信仰か。浄か不浄か。それが問題だ。
片倉は唐突に執筆作業に没頭し始めた黒田を少し目を見開いて見ていたが、一心不乱のその様を何処か面白いと感じていた。
周りが見えなくなるのも、ぶつぶつ独り言を呟くのも、政宗が言っていた通りだった。
その傍らで2本目の缶ビールを空けながら、黒田の肘が倒しそうになった飲みかけの缶や柿ピーを机の隅へと避難させる。
1人で勝手に呑み進めて、満足した所で挨拶もせずに席を立ちアパートから出て行った。

踏みしめた恋路にまよひ、よるべなくあくがれまどひ―――か…。

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