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―記念文倉庫―

片倉の調べた所に拠れば、絶対音感のある人間の多くがその能力を「耳コピ」や「チューニング機械」の代わりと半ば冷め切った態度を見せるのとは違って、政宗の中ではドラマティックな映像にまで展開しているようだった。
左手を伸ばして指の関節だけでその前髪に触れた。
顔を背けてそれを避けるのを更に腕を伸ばして追い、彼の丸い頭を掴んで引き寄せる。
「泣いていいんだぞ」自分の肩に青年の額を押し付けながら言う。
「うるせ…っ」
否定の言葉はしかし、喉に詰まって最後まで吐き切れなかった。
片倉は石神の妻が亡くなった事を今朝の段階で知っていた。その上で石神氏からの要請に応えて政宗を送り込んだのも、結局片倉の判断だ。辛い仕事だと言うのは百も承知していた。だが電話口の石神こそ、既に亡者のように生気のない声で「妻の為に最後の曲を聴かせてやりたい」と告げる様は、己自身の死をも覚悟しているように思えたのだ。
果たして、政宗がたった一曲を弾き終えて石神家を辞した後、石神本人から片倉に電話があった。
「やっと…肩の荷が下りた気がする」そう言って男は有り難うと告げたのだった。
本人にその自覚はなくとも青年は人を救う音楽を持っている。
そんな政宗が愛しくて堪らなかった。男は、唇を噛み締め俯く彼を両手で抱き込んで、その耳元に囁きかける。
「泣いちまえ。何もかも…受け止めてやる」
「………っ」
抑えた口から嗚咽が漏れた。
「…どいつも、こいつも、…バカヤロウだ…っ!」
誰もいない薄暗がりの店内で政宗は口惜しげに涙を流した。それを受け取るのはただ一人の男。
床まで落ちたイヤホンからは微かにガラスの雨音が流れ落ちる。



終に最期の時が来たと、先を競ってわんわんと鳴き叫ぶ蝉の声を聞きながら、男は庭の片隅に立って木立の影を眺めていた。
耐え難い暑さと聞く者を窒息させそうな程の合唱にじりじりと汗の玉は結んだが、構わず、傾きかけた太陽の行方を木の葉の向こうに追う。
「蝉は土と水で出来てる」と、あの青年は言った。
言われた直後は意味が分からなかったが、こうして生き急ぐ彼らの鳴き声を聞いていると何となく呑み込めて来る。
生命は一瞬の落下だ。
滝が崖から滝壺に落ちるまでに人は生まれ、生き、そして死ぬ。蝉たちは土中から出た七日間程に、その限りある生命を音色に乗せて惜しげもなく流し落とした。
最期の一滴まで。
蝉の声は生命のシャワーだった。
音が目に見える政宗にとっては、それは洪水のようだったろう。
男は溜め息を一つ吐くと手元の時計を見やった。
そろそろ―――と思う間もなく、診療所の玄関を壊すぐらいの勢いで飛び込んで来た彼の養子が良く通る声を張り上げる。
「お館様!!お館様っ!政宗どのが…っ」
室内を探し回っているらしい気配に、やれやれと言ったように武田は振り向き、重い足を引き摺って縁側から居間へ戻った。
台所から飛び出して来た幸村が、大きな瞳を更に見張ってそれを見つける。
「お館様…っ!政宗どのが…政宗どのが…っ」
「どうした」
男の声は幾分か温度を失っていた。
それに気付く気配も見せず、パニックを起こしている幸村はぶわ、と大量の涙をその目一杯に溢れさせた。そうしてへなへなとその場に踞る。

「政宗どのが…いなくなってしまった…!」

蝉が鳴いていた。

それだけは自分の為に取っておきなさいと、誰かに言われたとしても全部全部、惜しげもなく与えてしまうように。



夏休みが終わって始業式の為に家を出た幸村は、登校途中で何時も出会う筈の政宗がいない事に首を捻りながらも学校へ向かった。
クラスの違う政宗の事だから先に来ているのかも知れないと思って彼の教室に行ったらその姿はなかった。政宗のクラスメイトに尋ねてみても知らないと言われた。体育館で行われた始業式にも彼はいない。堪らなくなって式の終わりに政宗の担任を呼び止めて彼の事を尋ねたら、何故か申し訳なさそうな顔して夏休みの半ば頃に退学届を出しに来た、理由は頑として告げなかった、と言う返事が返って来た―――。
どう言う事だと、その時から既にパニクっていた幸村は、式の後のホームルームの事などすっかり忘れて学校を飛び出すと政宗のアパートに向かった。
鍵が開いていた。
そっと戸を押し開け、入り込んだ政宗の部屋はがらんどうだった。
鳥籠も、メルのゲージも、猫トイレすらも何もない。壁に掛かっていた政宗の制服も、料理が得意で揃えていた食器や調理器具も何もかも。ただ、六畳間の畳の上にキーホルダーに付けられたままの鍵束だけが置かれていて。
ジワジワと蝉が鳴いていた。
思考停止した幸村は、世界から色が失われた気がしてその場に立ち尽くしていた。部屋の中を蝉の声が満たしていた。汗を顎からポタポタ流しながら、まるで蝉の声に満たされて溺れてしまう気がした。
息苦しくなって部屋を飛び出した。

泣きながら断片的に話した幸村は、精も根も尽き果てたように薄暗い表情で黙り込んだ。それを前に武田は座布団の上に胡座を掻いて、居間の柱時計を顧みた。4時を回った所だ。食いしん坊の幸村が昼食の事も忘れてこうして呆然とする様を痛ましげに見やった武田は、大儀そうに立ち上がった。
「……お館様…?」
「アパートに行ってみる」
「…しかし!何一つ残っていなかったのですぞ!」
「それだけのものがなくなってるのなら、隣の黒田が何か知っているやも知れぬ」
「お、―――」
そうであった!何故信念していたのだ俺は!そう叫ぶと幸村はいそいそと玄関に向かった。その背が希望を持ち直して弾むのを、武田は重い気分で後から続きつつ眺めた。

尋ねた黒田は昼間っから眠っていたようだ。
何時も以上にうっそりと玄関に現れむっつりとした表情を覗かせていたのが、幸村の話を聞くとちょっと不思議そうに首を捻った。
「メルとトラジローなら小生が預かってるぞ」と、その顔のまま言う。
「何ですと?!」
一言叫んだ幸村はスニーカーを脱ぎ散らかして黒田の部屋に転がるように上がり込んだ。
トラジローの鳥籠は窓辺の手摺に凭れ掛かるように置かれていて、中では何も知らぬげにトラジローが羽繕いに精を出していた。そしてメルはと言えば、大量の本を詰め込まれた本棚の上に寛いで、飛び込んで来た幸村を真ん丸に見開いた瞳で眺め下ろした。
「…メル…メル…!政宗どのが…何か知っておらぬか?!」
掻き口説くように子猫に話し掛ける青年の傍らで、黒田は訳が分からぬと言った風に立ち尽くしていた。その足下で寝乱れた布団が湿っぽく横たわって、それの隣に立った武田が尋ねる。
「お主に預けて行ったのは何時頃だ?」
「え、今朝の事だが…?」
「今朝…。何と申しておった」
「いやだから、学校行くからメルとトラジローを頼むって…」
「あやつめ…」
低く呟いた大家を黒田は垂れた前髪越しに透かし見た。
寝起きの彼にも徐々に事情が呑み込めて来たらしく、ぽかんと開けていた口を閉ざす。そして、子猫を抱いて必死に何事か呟く青年を振り向いた。
「何か…あったのか?」と誰にともなく呟く黒田。
誰にも、何も告げずにいなくなって、何処へ行こうと言うのか。帰る処などあるのだろうか。あの若さで一体何を考え、何を思い、こんな残酷な行動に踏み切らねばならなかったのか。
政宗の人と成りを知っているから余計にその身と心中を思い遣って溜め息が出てしまう。

夜になって片倉が診療所に車で乗り付けた。
夕方からのバイトに無断欠勤したのをマネージャーから連絡を受けて、取るものも取り敢えず政宗のアパートに行ったらもぬけの殻だった。どう言う事だと武田辺りなら事情を知っていると思い駆け付けたのだ。
そこには沈痛な面持ちの武田と、引き取って来たメルを抱いて呆然とする幸村と、何故か所在なさげに座り込む黒田の姿があった。
「手前は何も気付かなかったのか?部屋を片してる物音や人の気配に」
と片倉は黒田に対して詰問する口調で言った。
「小生とて四六時中あの青年を監視してる訳ではない。むしろ、あんた自身に心当たりがあるんじゃないのか?」
「何だと手前…!」
低く唸るなり片倉は黒田のTシャツを掴んで引き上げた。
「やめぬか2人とも」
黒田も立ち上がって男2人が相対するのに、静かな声が待ったを掛けた。片倉は、腕を組んだまま目を閉じた武田を見やり、それから乱暴に黒田のTシャツを突き放した。
苛立ち紛れに胸ポケットから煙草を取り出し一本銜えてから、禁煙の事実にそれを握り込んで舌打ちを一つ。
だがそのままでは苛々が納まりそうにないので、居間を横切って縁側から庭へ降り立った。
湿っぽい夜気に顔を顰めつつ煙草に火を点ける。
深く息を吸い込んで、盛大に煙を吐き捨てた。
―――心当たりだと…?
最後に彼と言葉を交わした時の事を思い出す。
クラブのホールで泣いた青年を抱き締め、幼な子にするような可愛いキスを何度か落とした。
早朝から2部の仕事が始まる。その前に青年をアパートまで送って行って、別れた。男の前で泣いたのを恥じたのか、普段より余程素っ気ない態度で、ちょっと前まで男の背に縋って声を殺してすすり泣いていたとは思えない程、呆気ない別れだった。
その後数日は片倉も忙しく、店にもアパートにも立ち寄れず過ぎ去った。その間、何かあったようだとは聞いていない。学校が始まりまた週末になったら彼のアパートに行こう、それを楽しみにしていた矢先の出来事だ。
本当に不意打ちだった。
あっと言う間に一本吸い終わった。それを庭の土の中に放って踏み捨ててしまう。
…と、背後からおずおずと声を掛けられた。
「あの…片倉どの―――」
振り向くと、縁側からの明かりにシルエットとなった幸村が立っていた。真っ赤なTシャツの裾を皺になる程掴んで、そちらから呼び掛けたにも関わらず俯いたまま、まるきり叱られた子供だ。

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