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―記念文倉庫―

「また呼び立ててしまって済まなかったね」
前を歩く男が横顔をちらと覗かせながら政宗に言った。
「いえ、仕事ですから」
それを言ったら身も蓋もないとは思いつつ、その台詞しか思い付かなかったので政宗は静かに返した。
「そう、仕事だ」それを別段気にする事もなく男の背が呟く。
50に手が届こうかと言う男は、この広い屋敷に一人で住んでいる。
自立した娘が2人いるが滅多に家に寄り付かない。それも尤もだと分かっている男は敢えてその事に口を差し挟むつもりもなかった。そして暫くしてから又男は言った。
「しかし、仕事にも天職とそうでないものとがある…君は天職に恵まれた」
「……ただのアルバイトです」
「出会いと言うのは何処に転がっているか分からないものだよ」
「―――…」
聞くもののいない会話をしてその部屋に至った。
扉の向こうにはフローリングのやたらと広い空間が広がっていた。
男の妻はこの部屋に近所の子供たちを集めて「お芝居」をするのが好きだった。幼稚園児なら「お遊戯」か。
古い家だ。そして、都内に数ある高級住宅街の中でも江戸時代に紀州徳川家の下屋敷があった場所で、それが今も公園となって人々に憩いの場を提供している。渋谷区松濤、整備の進んだその地域で時代を感じさせ尚かつ西洋文化に慣れ始めた日本人のセンスを感じさせるそのホールは、近所の奥様方にも評判が良かった。
白漆喰の壁に黒く燻された楢の木の柱や梁が目にも鮮やかなホールには、だがしかし、今はもう子供たちの歌声や笑い声などは欠片もなく、ただ高い天井からぶら下がるアールデコ風の可愛げなランプの明かりに心許なく沈んでいるだけだ。
そのランプの真下には、質素なベッドが一つきりぽつんと置かれていた。変わらないその佇まいに、政宗の左目は本来あったものを探して左右に揺れた。
「石神さん…あの―――」
政宗の問いたい事は分かっていたから男は戸口に立ち止まったまま振り向きもせず、言った。
「もう、必要なくなったのでね」
その声に滲むものは悲しみでも苦しさでもない。
ただ男は心底疲れ切っていた。
「―――いつ?」
「今朝方だ。私が起きて来て、妻の様子を見に来たら冷たくなっていた」
男は冷房が嫌いだったので、濡れ縁から庭に通じる窓は開け放ったままだ。淡いレモン色の光を既に一杯に浴びて、忌々しいくらい外は輝いていた。そんな中でもこのホールはしっとりとした薄闇に沈んでいて。
「いや、冷たくはなかったな。未だ、温もりがあった。だが、心電図は沈黙していて妻も息をしていなかった。息を引き取ったんだ」
男は執拗に「死んだ」と言う言葉を避けていた。それが意図的にせよそうでないにせよ。
様々な事を男は黙殺していた。
娘たちがこの家に見切りをつけている事も、自分の愚かさも、そして男の妻が一生「あなたには呆れる」と言って唇を尖らせる事はもうないのだ、と言う状態が続いていた事も。
「昼前には医者に来てもらって死亡確認をした。医療器械を片付けさせたら、このホールはこんなに広かったんだなあとつくづく思ったよ」
「…葬式は」
「やらない」
かぶりを振った男を政宗は見やった。
「いや…今からやるのが、それかな」
男には表情も残されていないようだった。政宗にはそこに妻への愛情以外の昏いものすら感じ取れたが、何も言う事は出来なかった。
「長かったよ、この1年と7ヶ月半…。植物人間の状態と言うのは案外、生きている者にとってこそ残酷だ。それももう終わった」
その残酷さを懐かしむように、男は小さなベッドを顧みた。
「最期に一曲聞かせて欲しい、彼女が好きだった曲」
男が眺めやる方には、ベッドの向こうに黒い大きなグランドピアノがひっそりと佇んでいた。
子供たちの「お遊戯」の為に、彼女は何時もそれの前に腰を降ろして楽しそうに笑っていた。有名メーカーのそれは彼女の嫁入り道具の一つだった。祖父がピアニストで彼女自身も幼い頃からピアノ曲を子守唄代わりに聞いて育った。
政宗は沈黙する闇のようなそれの傍らに歩み寄る。
何か侵すべからざる神聖さに触れるような禁忌がそこはかとなく胸中に沸き起こる。
「さ、弾いて」男は尚も促す。
何かを振り切るように、さっと椅子を弾いた政宗は慣れた手つきで鍵盤の蓋を開け、鍵盤の保護用シートを取り去った。
楽譜も見ずに頭の中、これから弾く音楽の楽譜が舞い踊る。
「亡き王女の為のパヴァーヌ」
ピアノの音色が美しいのではなく、それによって描かれた情景が飛んでもなく美しいのだと思い知らされる一曲だ。これを作曲したラヴェルが晩年、交通事故で記憶障害に犯されていた際にこの曲を聴いて「素晴らしい曲だ、誰が書いたんだろう」と呟いたと言う。
単純で短い曲であり、尚かつト長調と言う本来明るく華やかな曲調で書かれたにも関わらず、「亡き王女の為のパヴァーヌ」はしっとりとした哀しさに満ちていた。
哀しさだけでなく諦めにも似た穏やかな愛、あるいは未練、時には喜びが渾然としていた。
その甘く切ない音色に耳を傾けながら、男は眠るようにしてある妻の死に顔を眺め下ろした。
「妻が他所に出来た男と無理心中を図る程、何を思い詰めていたのか私には分からない。心中なんて今時ありか?と誰彼構わず問い詰めたくもなった。…しかし、そうだな……」
曲を弾く政宗を無視して男は続けた。
「植物状態になってもこの曲を聴くと脳波には大きな"揺れ"が出た。生きたかったんだろうと思う、私ではない誰かと一緒に」
「あんたに振り向いて欲しかったんだ」
政宗は、小ロンド形式の小さなエピソード部分を弾きながら言った。
「そう思ったら良い。その望み通り、この1年7ヶ月半、このヒトはあんたを独占出来た…。自分の事だけを考えてくれて、自分の為だけに動いてくれる。他の誰にも邪魔されずに2人っきりで」
「亡き王女の為のパヴァーヌ」は踊る少女のチュチュのように揺れた。
時折、消え行くように静かになるかと思えば、それに折り重なるようにして強く弾かれる。未練と逡巡、それを繰り返すかのように。
「あんたが強く憎んでいた女はもうここにはいない」
「そう―――だな…。そうだ…正に天職だよ」
植物状態の女性に聞かせ続けたピアノ、「パヴァーヌ」の他にバッハの「主よ、人の望みの喜びよ」や、ショパンの「夜想曲」なども弾いた。どれも美しい曲だ。そしてその中でも一際、大輪の華を咲かせて散って行ったのが「パヴァーヌ」だった。それは真珠で出来た花弁だった。
美し過ぎて哀しくなる。
そんな思いに囚われたまま、政宗は一曲弾き終えた。

クラブに戻った政宗を、控え室で休んでいたホストの1人が何事かとじっと見やっていた。
彼の表情に変化はない。何時も通りだ、なのに、周囲に蒼白い静電気でも纏っているかのようにぴりぴりと神経が逆立つ。近付くな、とそれは無言の威嚇を放ってすらいた。その彼が着替えを済ませホールに出て行った後も、控え室には余韻が残っていた。
ホールに出て客の注文を受けたり、指名をマネージャーに伝えたりする職務を政宗は何時も通りに卒なくこなした。誰が彼の様子がおかしいなどと思うだろうか。そのホストは仮面を被る前の青年を見たのがたまたま自分だったから分かるのだ、と思った。片倉の店でも古株の1人であり、ホストたちのまとめ役であった彼は、ちらと自分の腕時計を見た。外回りに出ているオーナーが店に顔を出す事はたまにしかない。
彼はほんの僅か逡巡してから少しの間、ホールを離れた。

その日も深夜0時に店ははね、その後の掃除やミーティングを経て午前一時にはスタッフたちも帰途に就いた。
片倉が接待の席を終えてクラブに立ち寄ったのは、深夜3時を回った頃だ。
ホール内は闇に沈んでおり、非常灯の透き通ったグリーンライトだけが仄かな蛍の光のように片隅で輝いているだけだ。誰もいない店内に踏み込みかけて足を止める。
何か堅いものが立てた微かな音がしたように思えたからだ。
片倉は少し戻ってカウンターの上だけ照明を灯した。その透明な光彩の中に、たった今テーブルから頭を起こした人物のシルエットが浮かび上がる。片倉は手にしたジャケットをカウンターに置いてそちらへと足を向けた。
テーブルに突っ伏して眠っていたらしい政宗が目を擦りつつ小さな溜め息を吐いた。
そうして振り向いた青年に向かって「終電逃したか?」と声を掛ける。
ふと見ると、青年の耳元から黒いコードが伸びており、それが右手に握られたipodへと消えている。政宗は耳からイヤホンを外す動作で片倉の応えとして、テーブルに頬杖を突いた。
「今、何時だ?」
反対に問われて片倉は時計を見もせずに応えた。
「3時15分過ぎだ。送ってくぞ」
片倉の記憶では、政宗は日曜から幸村の終わらない宿題に付き合ってそのままバイトに来た筈だ。2日間も貫徹するとなると、若いとは言えさすがにキツいだろう。だが青年は、縺れた前髪を掻き上げる仕草で男の言葉が聞こえなかった振りをした。
1人で自分の部屋に帰る気になれなかった。
ただそれだけだと言うのに、政宗はふと自分は彼を待っていたのかも知れない、と思った。
彼の語る声は、低く穏やかでとんがった所がない。
人の声、特に標準語を喋るそれは無機質で色も音色もない。だが片倉の声には何色、とも付かない"色"があった。それが雨粒のように政宗の皮膚にある感覚を細やかに叩く。
それは静かに、和やかに。
それが聞きたかったのかも知れない。
「何聞いてたんだ?」と言って片倉はテーブルの上に放られたイヤホンの一つを取り上げて自分の耳に入れた。
単純な旋律が鼓膜を打った。
単純だが胸を締め上げる程の哀切さに満ち溢れていた。
それは儚い祈りであり、大地を叩く慟哭であり、胸の裡に秘めた愛しさでもあった。郷愁に咽び泣く1人の人間の魂の叫びであるとしたら、これ程穏やかで繊細な音色にそれを乗せた作曲者の感性を讃えたくなる。
帰りたい、と切に願う心は帰れない、と言う現実を前に虚しく散って行くだけだ。
誰が望んでこんなに遠くへ来てしまったろうか―――。
「…ずいぶん懐かしい曲だな。しかも、まるきり季節感が真逆だ」
「いいだろ、聞きたい気分なんだ」
「死を待ち望む男と、苦悶の中に生きる男か」
「え?」
「その映画だ。生と死の微妙なアンバランスさが2人の男を惹き付けたんだ」
「見た事ねえ…」
「坂本龍一が好きなら代表作ぐらい見とけよ」
「別に作曲家が好きな訳じゃねえ」
「…じゃあ、どういう風に"見えて"るんだ?」
尋ねながら男は政宗の隣のソファに腰を下ろした。
近くで見ると辛うじて分かる、涙の跡。
「ペンタトニック」
「あ?」
「ドレミファソラシドってあるだろ。そのうちの5つしか使ってない音階の事をペンタトニックって言う。東洋音楽で使われるのを良く見かける奴だ。別に本当に五音しかない訳じゃねえけどな。…そいつがポロポロ崩れてく」
「……崩れて?」
「和音の海の中に、柔らかいガラスの欠片が落ちてく」
「………」不思議な感性だ、と思った。

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