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―記念文倉庫―
3●
黒田は冷蔵庫から新しいアイスノンを引っ張り出して来ると、それを首筋に当てながらコタツ机の前に腰を下ろした。
陽暮れたと言うのに未だ体温と同じくらい気温がありそうだ。粘り着くような空気に汗ばんだ肌が気持ち悪い。アイスノンから溶け出した水分を吸ったタオルでついでに顔も首もガシガシと拭いた。少しの冷気を残していた湿り気が途端、生温いものとなる。
紙に作品を書くなど無駄だし、かさばって仕方ないのでコタツ机の上には小さなノートパソコンが一台と、簡素な手帳とペンが一本だけ転がされていた。自分は大地震が起こったらこれだけを持って逃げれば良いのだから身軽で良い、と思っている。
人間生きて行く内に余計なものを一つまた一つと増やして行くものだ。それは創作の翼を鈍らせるだけのものに過ぎない。
立派な家も車も、ブランドもののスーツも何一つなかったが、自分は自由だ最高の身分ではないか、そう思っていた。
だが、何時からか週末になると隣の部屋から聞こえて来る物音や声(特にこれだ)に辟易していた。
声の持ち主は知っている。今日その相手とも顔を合わせた。
あの2人が薄壁一枚挟んだ隣の部屋で致している事を思うと、キーボードを打つ手が止まってしまう。黒田にそっちの気はないから別に感じたりはしないが、どうにもいたたまれない。望んでいる訳でもないのに盗み聞きをしているような後ろめたい気分になる。
暑さと、そのよがり声に創作の手を止めて畳の床にごろりと横になった。

自分より後から入室した伊達政宗と言う青年の事は詳しくは知らない。
高校生の身で親元を離れ、こんなボロアパートで一人暮らしをしてバイトに精を出している彼は、ごくごく普通の青年だ。
彼に初めて夕飯を馳走になった時の事は良く覚えている。
創作に興が乗って、コタツとトイレとだけの往復で幾度かの朝と夜を過ごした後の事だ。腹が減り過ぎたのと、一曲書き終えた満足感から今のようにこうして床に伸びていた。そうしたら扉をノックされた。
「どちらさん?」と問い返した声は何日振りかに出したものでおかしな具合に響いた。黒田も鍵を掛ける習慣がなかったので、ノックをした人物は扉を開けてひょっこり顔を出した。
政宗だった。
彼は、閉め切った部屋に立ち籠める饐えた臭い(主に黒田の体臭だ)と床に伸びた人影を見つけてやおら部屋に飛び込んで来た。
「おっさん、大丈夫か?!」とか「しっかりしろよ、武田のおっさん呼んで来てやるから!」とか一頻り喚いた後、慌ただしく部屋を出て言った。
近くで動物病院を営んでいる武田はこのアパートの大家でもあったので、動物用の診察道具などを小脇に抱えすっ飛んで来た。
単なる栄養失調だと知って政宗は「バカじゃねえの!」だの「自分の事ぐれえ自分でやれよ、病気じゃねえんだから!!」などと黒田をそれはこっぴどく叱りつけた。
けれどその夜、黒田の部屋にやって来た時には、大鍋にたっぷりのカレーを熱々に煮立たせたものを政宗は抱えていた。
「野菜も肉も入ってて暫く日保ちするから、こいつで元気になるだろ」
そうむっつりと怒ったように言われた時には我ながら間抜けなくらいあっさりと笑えたものだ。
「笑いごっちゃねえ!」
と、いきり立つ相手に"すまん"と"ありがとう"を何度も繰り返し告げた。
―――…いい子なのにな。
あんな、ホストだかヤクザ紛いの大分年の離れた男に体をいいようにされて。ただ、漏れ聞こえる声からも、今日の政宗の反応からも、決して強要(要するにレイプと言う事だが)されているように思えないのも又事実だ。
時に高く、時にくぐこもって響く声は、とても甘く切ない。
男が時折ぼそぼそと喋る声は、それにも増して熱の籠ったものだ。こっちが照れ臭くなって来る程だった。
いたたまれなさここに極まれり、と身を起こした黒田は小銭入れを尻ポケットに突っ込んで近所の銭湯に出掛ける事にした。


「ぐっちゃぐちゃにしてやりてえ」
その宣言通りに掻き乱された。
一番酷かったのは、出掛けていたらしい隣人が戻った気配に気付いた片倉が取った行動だ。
彼は、幾度か達してぐったりとなった政宗を壁際(当然のように隣人のいる方だ)に押しつけ突き上げたのだ。
ガサゴソとコンビニ袋を漁る音が聞こえるし、缶ビールを開けた音も聞こえた。そんなのを背に、政宗は胸まで引き上げられたタンクトップ一枚で片足を抱え上げられ、あられもない格好で啼かされた訳だ。
髪が乱れ、滴る汗が飛び散るような激しさだった。
散々焦らされ、予感に戦いていた体は本人の意思を無視して面白いぐらいに反応した。声を殺そうと我慢すればする程、胸に詰まるものは気持ちを圧して高い声になって溢れた。
―――まるで壊れた楽器だ…。
と、泡沫の思考で薄ぼんやりと思った。
調子っ外れの自分の声はどんな諧調にも属さない不協和音の上、色も持たない。ドもレもミも、シャープもフラットも及びつかない壊れた楽器だ。それを掻き鳴らす片倉は青年が美しい声でまるで小鳥のように鳴くとでも思っているのだろうか。
ただ時折、片倉が熱に浮かされた政宗の耳元に囁く声に、はらりと咲いて散る色があった。それはただ青年の名を呼ぶ声であったり、いやらしい言葉で青年の有様を教えるものであったりしたが、中でも一つ、とびきり眩い色があった。

「愛してる…」

声のない吐息だけのそれにふわと浮かんだのは、闇の中に大輪の花を咲かせるダークブルー。
咲いて散った花弁は青年の中に降り積もる。



次の日曜日。
朝からうだるような暑さに目を覚ました政宗と片倉は、近くの銭湯で一風呂浴びた後、アパートから歩いて5分程の所にある動物病院に向かった。メルの事故後の経過検査だ。検便や血液検査をする。
まだ午前の診療を終えていない患者たちとその飼い主が待合室には2組程いた。診療所の院長である武田信玄は、今は処置室でシーズー犬の鼻にカテーテルを突っ込んで何やら真剣に様子を探っている。その脇では武田の養子であり、政宗の同級生でもある真田幸村がガーゼの散った銀のトレイを抱えつつ息を呑んで見守っていた。
珍しく、静かだ。
一方、待合室の受付にはこれまた珍しく猿飛佐助の姿があって欠伸を噛み殺していた。
「あ〜、メルちゃん!元気そうだねえ!」
佐助は2人を見つけ、政宗のぶら下げていたゲージを覗き込んで嬉しそうに笑み崩れた。
「事故からひと月経ったろ、最後の経過検査だ」
佐助に引っ張られるままゲージを受付カウンターに乗せた政宗がそう言った。わかってるって、と半分聞き流しながら佐助はメルをゲージからそっと引き出した。
「大きくなったねえ、ひと月前は掌に乗りそうだったのに」
「夏バテもしねえで毎日元気だよ」
佐助の腕に抱っこされた子猫の頭を指先でコリコリと掻いてやりながら、政宗も穏やかに返す。
「引き取った直後が夏休みで良かったんじゃない?学校があったらこんなに良く面倒見れなかったでしょ」
「多分な」
「うーん、良かった良かった」
言って目尻を下げる佐助はまるきりメルにめろめろだった。
「まあ、じゃあ上がってよ。診察は午後からでいいでしょ?ね、伊達チャン、一緒に昼ご飯の準備してくんない?」
「OK」応えて、政宗はメルをゲージに戻した。
半分それが目当てだったのもある。
作って食べるならついでに武田診療所の連中の分も、と思っていたのだ。政宗か佐助が作らなければ「大将」は店屋物を取るに決まっているからだ。
受付カウンターを潜ってその奥にある居住空間へ、政宗たちは移動した。
「何作る?」と政宗は前を行く跳ね髪の後ろ姿に尋ねる。
「んー、俺様はさっぱりしたものが良いんだけどね、大将もダンナもカツ丼だとかラーメンだとか濃い味を食べたがるんだよ。汗をかくからしょっからいのが良いんだって」
「…じゃあ、豚しゃぶ肉をぶっかけうどんにするってのはどうだ?」
「お、いいね♪ぶっかけは、つゆだし?」
「武田のおっさんと幸村にはキムチ鍋の元をベースに夏野菜を煮込んだものでいいだろ。俺や佐助はゴマだれとか。…片倉さんは?」
何気なく話を振られた片倉は、全く話を聞いていなかったかのようにびっくりした表情を青年に向けた。
「…俺は、何でも良い」
「じゃあ、片倉さんはキムチな。…あとレバニラでもすっか」
「うんうん、さっぱりしたおうどんと合いそうだねえ」
台所で冷蔵庫の中身を確認する2人とは別れて、片倉は居間の縁側に据えられた揺り椅子に腰を下ろした。途中で卓袱台に放ってあった新聞を拾い上げるのも忘れない。煙草を取り出そうとして診療所内は居住空間も合わせて禁煙だった事を思い出す。
新聞を広げながら隣の台所から途切れ途切れに聞こえて来る2人の会話に耳を澄ます。
先程も聞いていなかったのではなく、本当は聞き入っていたのだ。
何時までもこのまま、と言う訳にも行かないだろう。
政宗が将来をどう考えているのか、未だその事については詳しく話した事がないので分からないが、音楽の道に進むなら進むでそれなりの手順は踏まねばならない。そうでなくとも、いずれは職を得てちゃんとした住処にも移って欲しい所だ。
あのボロアパートやこの診療所が悪い訳ではない。むしろ、彼らにぐらいは2人の仲を明かしたいとも思っていた。
自分の店でバイトをしている事は所詮バイトだ。それでも、あの特殊な環境で政宗が高校生時代の思い出に残せるような何事かを感じ取って欲しいとは思っている。
そんな事を新聞も読まずにつらつら考えていたら、ガサリと目の前の紙が捲られた。
片倉の膝に片手をついて悪戯げに覗き込んで来るのは、目も覚めるようなオレンジの髪を跳ねさせた佐助だ。グリーンチェック柄の三角巾を姉さん被りしているのが、また一段と似合う。
「…邪魔だ……」
目を据えて唸るように言ってやったのだが、相手は何処吹く風だ。にへら、と笑ってガサと新聞を更に引き下げられる。
「んまー何ての?色艶のいい顔しちゃって…」
「ああ?」
新聞を引き上げるついでに佐助の体も振り払ってやった。ふと気付いて台所の方へ目をやるが、そこに政宗がいる気配はない。
「伊達チャンなら買い物」
「ふん」と鼻先であしらって再び皺くちゃになった新聞を顔の前に翳す。その向こうから姿の見えない佐助が言った、
「俺様は祝福してあげるよ」と。
「―――…」
「お二人が知り合う前の状態、知ってるからね。良い感じなんじゃない?」
「―――どう言う意味だ」新聞の向こうからぼそりと尋ねる男の声。
「例えば小十郎さん。…あんた以前はホントに酷い男だったよ。冷酷って言ってもいい。自分のビジネスですら突き放して考えてた、まるで実験室みたいに。面白い試みではあると思っていたけどね」
「そうだったかな…」
白ばっくれる男を無視して、佐助は冷房の為に閉められた縁側の窓に手を触れた。外では庭の木にいる蝉たちがけたたましく鳴いているらしく、静かな室内にそれが微かに響いて来る。
「例えば、伊達チャン」
それを遠く眺めやりながら、佐助は小さく呟いた。

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