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―記念文倉庫―

―Altass Elー『雨』続編

蝉が鳴いていた。
何匹もの、何種類もの蝉だ。
蝉の鳴き声―――正確にはその羽翅を擦り合わせて起こす音だが―――には実は2種類の"色"がある事を政宗は知っている。高音部分と低音部分である。高音は突き抜けて行く感じがしてほぼ無色透明。敢えて色をつけるならスカイブルーだ。低音は、日陰でしっとりと湿っている土色で、ちょっとガチャガチャした感じの色だ。
不協和音だから特にこれと言った音に嵌める事は難しい。そう言う時は色や調音として捉える。その時は、色だった。
都会の真ん中にポツリと出現する小さな杜のような庭の木々に囲まれて、政宗はその時この家の主人と向き合って立っていた。
自分の声が告げる言葉を男は黙って聞いている。
一つ質問を返されたが、はっきりと頷いた。
男は少し傷ついたような、落胆したような表情を浮かべたが、最後には微笑んでくれたのでほっとした。
それが例え淋しそうな微笑で、自分が何か過ちを犯してしまったような気分になったとしてもだ。
その主人は赦してくれた―――。


夏休み最後の土曜日。
都心の、せっせと開発されている表の顔とは一線を画した古い住宅街の中に、時代に取り残されたようなボロアパートがあった。そこへ、肩から上着を引っ掛けた男が一人やって来た。
景色の全てが淡いオレンジに染まり、空気はガスバーナーで煽られたもののように今にも自然発火しそうな勢いだ。それは男の額や鼻の頭に汗の玉を結ばせ、サングラスをしているにも関わらずその眩しさと暑さから自然眉間に皺が寄る。
階段をギシギシ登りながら鍵を取り出した。
しかし、突き当たりの部屋の扉はその辺に転がっていた木片をドアストッパーにして全開にされていた。
男がそこから中を覗くと、何やらもっさりと黒い見知らぬ男の背と、それに向き合って床を穏やかに眺め下ろす青年の姿があった。
青年は戸口の男にすぐ様気付き、眼帯に覆われていない左目を上げて「片倉さん」と素っ気ない声で男をそう呼んだ。
「おう」
片倉は小さな玄関でモンクストラップの革靴を脱いで部屋に上がった。
青年の声に見知らぬ男はもっさりと振り向き、四畳半の台所を通って歩み寄る片倉を下から見上げて来た。
手入れのされていない漆黒のワカメのような前髪が両目の上に被さっている。無精髭とくたびれた漆黒のTシャツに、だぼだぼでしわくちゃのベージュのチノパンなどは洗っていない訳でもなかろうが、不潔感がこれでもかと言う程漂っていた。
全身ブランドものと見られるスラックスとタイなしのシャツを身に纏った片倉とは何もかも対照的だった。
思わずじろじろと片倉がその男を眺めていると、おどおどと困ったように青年を振り向く、まるで助けを求めるように。
「ああ…、俺のバイト先のオーナーで片倉小十郎さん。メルを助けてくれた人だ。片倉さん、この人隣に住んでる黒田官兵衛。前に話したろ、俺が居ない間、メルの面倒見てくれる」
「劇作家志望…って奴か」
片倉は腕にジャケットを引っ掛け、その両手をポケットに突っ込んだまま黒田を見下ろした。その突き刺すような視線を受け止めた男は奇妙に口元を歪めると、立ち上がった。
「小生は邪魔のようだ」
そう言って片倉と向き合うと、大男2人の存在が6畳間の一室を重苦しい威圧感で満たした。
「別に邪魔じゃねえよ、黒田のおっさん。メルがあんたに慣れてくれねえと困るだろ」
座ったまま2人を見上げる青年は訳も分からず左目を少し見開いていた。
「あんたが邪魔じゃなくたって、こっちの片倉さんとやらは不愉快のようだぞ」
「何言ってんだ、狭えのは仕方ねえだろ」
青年の目は今度は片倉を捉えて睨むように据えられた。
どうやら今この場で分が悪いのは自分のようだ、と悟った片倉は威嚇する肩幅を揺らして窓際へと歩いた。
「いいさ、可愛いメルの為だ。終わるまで待ってやるよ」
そう言って、開け放たれた窓辺に腰を降ろす。
窓枠からは鳥籠が吊るされていて、そこではインコのトラジローが餌の水入れの中でひっきりなしに水浴びをしていた。
それを眺めながら、ポケットからハンカチを取り出して顔に浮いた汗を拭う。
―――変な奴…と言う心中の声が見透かせる表情でそれを眺めやってから、政宗は自分の膝元で玩具のネズミ相手に一人遊びするメルのまろい背中を見下ろした。片手で頭から背を撫でてやるとくん、と背を反らしたがすぐ様玩具に熱中してしまう。
「おっさん、猫飼った事あるって言ってたよな?」
「ん、ああ―――」
黒田は大儀そうに座り直した。
「基本的に放ったらかしといても勝手に遊ぶからな、小生にはそのくらいが丁度良い。冬には湯たんぽ代わりにもなる。メルは人見知りは激しいのか?」
「んな事ねえと思うけど」
黒田は手近な所に転がっていた棒を拾い上げる。
それの先には糸が括られていて、糸の先にはネズミの玩具がくっついていると言うものだ。黒田はそれを何の気もなしに揺らして、メルが真剣に狩りのデモンストレーションをするのを眺めた。
「ただ、表にだけは絶対出さないでくれよ」
「ああ、車に挽かれたんだっけか?」
「そう、内臓が潰れてた」
黒田はちら、と窓際の男を盗み見た。
夜の池袋東口、都道435号を護国寺方面に向かって車を走らせていた片倉の目の前に子猫は飛び出して来た。酷い土砂降りの雨の夜の事だ。ヘッドライトの明かりの中にぽっと子猫の姿が見えてから急ブレーキを掛けたとしても間に合う筈がない。のそり、と車体が僅かに揺れて、その子猫をタイヤの下敷きにしてしまったのを知る。
片倉は路上に降り立って、自分の車の後方5メートル程に小さく萎れた生命を見つけると、車中に連れて行った。深夜ではあったが都心部はそこそこ車の流れがある。このままぐちゃぐちゃの肉片にされるよりは、と思ったのだ。
だが、子猫は未だ生きていた。
必死になって子猫一匹の消える寸前の生命の灯火を何とか消さずに守り抜こうとした、男の横顔には大きな傷跡がある。
黒田にガンを飛ばして来た剣呑さといい、その傷といい、やたらとキマっている身なりといい、人は見掛けによらないもんだとつくづく思う。
「十分気を付けるさ」
「本当だぜ、黒田のおっさん。あんた机に向かうと周りが見えなくなるんだからな、気をつけてくれよ」
「…そうだったか?」
「そうだろうが…この間だって夕飯のおかず持ってってやったって振り向きもしねえ」
「ああ―――」
黒田は片手を頭の後ろにやって空中を振り仰いだ。
玄関先にラップの掛けられたどんぶりが置いてあって、その中の肉じゃがを見ながら何で一声掛けてくれなかったんだと訝しく思ったのを、今更ながらに思い出す。
「済まないな、本当に気を付ける」
「机に向かってぶつぶつ独り言呟くのも気色悪ィ」
「しょうがないだろ、それは…」
隣人同士の心置けない会話だった。
料理の得意な政宗は隣人が寝食を忘れて、と言うか面倒臭くなって机の前から一歩たりとも動かない事がしばしばあるのを知っていたから、思いついた時に食事のお裾分けを持って行ったりする。ある日気付いたら隣人が餓死していた、なんてのは笑えないと思ったからだ。ただ、餓死すると言っても、スポーツをやってる訳でもない男がやたらとガタイが良く肌艶も良いので有り得ないとは分かっているが。

その後も一頻りメルと遊んでやり、食事の注意を受けた。
缶詰も食べられるが、ドライフードを湯でふやかしたものもあげるように。メルは離乳食から普通の餌に切り替わる1〜2ヶ月目の子猫だからだ。内臓の機能はかなり回復しているものの、ミルクからも完全には離乳し切れていない。食事を嫌がって、それでも何か欲しいと訴えて来たらミルクを作ってやれ、ゲージは置いておくから、猫トイレと一緒に必ず決まった位置に置いておく事。―――そんな細々とした事を色々と。
黒田は政宗の言葉をふんふんと聞いていた。
特にメモを取るでもなく、人の良さそうな横顔が頷くのを大丈夫なのか、と片倉は疑いの目で盗み見た。政宗は相手の様子に頓着する事もなく、言うべき事を言い尽くして「こんな所かな」と一息吐いた。

「悪ィな、時間取らせて」と政宗は玄関まで黒田を見送りに出て言った。
「いや、いい。小生もアンタには色々世話になってる事だしな」
「んじゃ、学校始まったら頼むよ」
「任せとけ」
安請け合いのように黒田は自分の胸をドンと叩いた。
それから、髪の下の両目をちらと部屋の奥にやって、微妙な表情をする。気まずそうにしながらもその事を口に出して言ってしまうのは、やはり無頓着そうなこの男らしかった。
「あんた、奴に弱みでも握られてる訳じゃ…ないよな?」
「Ha?」
「いや…その…そ、そう言う、関係なんだろ?」
もごもごと口ごもりつつ、目の前に親指を立てて見せる。
その余りに古臭い表現の仕方に、と言うか、言われた内容そのものに政宗は瞬時に表情を変えた。
「ば……っ!」
「や!じゃあ!お休み!!」
怒声が放たれる前に黒田はスタコラ逃げて行った。
「………」
隣の部屋の戸がバタンと建物全体を震撼させる勢いで閉じられるのを確認してから、政宗は部屋の扉を閉めた。カシャン、と鍵を落とす音がそれに続いてぞくり、と胸元を這い上がるものがあった。
こんなボロアパート、壁など段ボールを何枚か束ねただけと言って良かった。黒田は勤めに出るでもなく、ほぼ四六時中部屋の暗がりに籠り切っているのだし、音楽を聴く習慣もなく机に向かっているのだから…。
―――筒抜け…。
思い至った途端、ボッと全身に炎が点った。

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