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―記念文倉庫―
12
「こうなるとミイラの方が役に立つな、薬にもなろうて。吸血鬼は始末に困る」
何事もなかったようにその人物は、頭から分厚い布を被ったままぶつぶつと零した。声は幼い少女のものだが、語る言葉は如何にも古臭い。
「まあ、昔のよしみだ…」
少女の落とす影の下、閃華珠は燦々と光を降り注ぐ。
忌々しげにそれを振り向いた人物は、長いローブを払ってそれを打ち落とした。閃華珠は回廊の向こうに飛んで行ってころころと転がって、光を落とした。
少女はそれから視線を戻し、ローブの中から小さな腕を引っ張り出した。その手首の内側に爪を走らせる。ミルク色した皮膚に赤い線が走り、それは忽ちの内に赤い滝となって流れた。それの落ち行く先は見るも無惨に真っ黒に焼け焦げ、原型も留めていない男の口元。そこだけはエナメル質に輝く牙の剥き出された口の中だ。
数滴、それが喉を潤した。
それだけで体が跳ね、登山服を濡らしていた鮮血が飛沫を上げた。
疑似太陽が遠くへ追いやられ、一時的に消えた事もあって復活は素早かった。白煙を上げ、見えない炎を上げながら燃え落ちようとしていた体組織が速やかに再生を始める。頭蓋骨を剥き出しにしていた薄い頭皮など早回しビデオを見るように修復されて行く。
掌がまともになった所でその左手が地面に己が体を縫い付けていた剣を早々に引っこ抜いて投げ捨てた。身を起こし、細胞の再生に意識を集中させる。
ここまで来れば大丈夫、とでも判断したように小さな影は素っ気なく立ち上がって片倉に背を向けた。
「待てよ、篁妃」
呼び掛けられた声にローブの背は止まった。
「この借りは必ず返す」
「借りも貸しもない、第一心にもない事を申すな」
こちらを見ようともしないローブに向かって片倉は口の端を歪めて笑った。小さな子供だと勘違いして侮っていると、心を読まれ手痛い所を突いて来る。かつてと一緒だった。
ふと思い出した事があって、丁度良いとばかりに尋ねてみた。
「あんたや、他のエルダーたちは松永の野郎をどう思ってんだ?」
「…松永?」
篁妃、と呼ばれたローブの少女がようやく振り向いた。
深く被ったフードの中であどけない顔が訝しげに傾げられる。
「儂は神々の峯で修行に明け暮れる日々故に、世俗の事は一切関知しておらん。滅多に人間も行き着けぬ地だ、いっそ清々しくて小気味良いぞ」
「…ああ、そういやあんたはそう言う奴だったよな」
「何じゃ、小憎らしい言い草だのう」
「もう100年もしたらエルダーに仲間入りしやがる野郎だ。せいぜいお見知り置きしとけ。平和ボケで寝首掻かれねえようにな」
「ほう」
片倉の台詞の何処に食指を動かされたか、少女が初めて好奇心らしきものをそのつぶらな瞳に宿した。
「それは楽しみな事だな、平坦な道に山が立ち上がるようなものではないか」
「…いい気なもんだぜ……」
嘯きながら片倉は投げ捨てた直剣を拾い上げた。
「片倉」
その剣の使い心地を試していた横顔を見つめながら篁妃は呼び掛けた。
「何だ」
「その方は永遠の生を疎んじておるのか」
まるで幼い問いだった。
「―――…」
剣を肩に担いだ片倉は、見た目可憐だが年経た吸血鬼を無言で見やった。
そうして不意と顔を反らす。だが、無視する気にもなれなくて背中を向けたまま一言応えた。
「永遠なんてな、この世にはねえんだ」
始まったら終わりがある。
光があれば闇があるように、生があれば死もあるように。世の中に男と女がいて、静と動があり、天と地が分かれ、陰と陽とで世界が動くなら、"永遠"とは決して紐解かれる事のない呪文だ。
その目が赤光を宿して気絶したジプシーらを見やる。
血が、足りなかった―――。


元就は水際の岸を、水を蹴って走り進んだ。
背後をあの靄の形をした女吸血鬼が追って来るような気がして、薄い空気を出来るだけ肺に一杯吸い込んだ。
靄が産んだ女吸血鬼、ケーララを三好が食い止めている間にチベット寺院に戻る、その一事に意識を集中させた。
夜明けまで折り返し地点も過ぎている。松永の塒が何処にあるのか彼は知らない。それを探して更に山岳地帯を行く、そんな事が出来る程自分の体力や精神力が残っているとは思えなかった。
もう一人のハンターや、足手まといとなる神父を助ける、などとは思いも寄らない。だが、元就の中で先程の吸血鬼の存在が重くのしかかっていた。
このまま己だけ逃げる、と言う手もあった。
―――信じたのか、この我を、あの吸血鬼は…。
仕事を果たす、そのハンターとしての義務感の強さは他の何者よりも強いと言う自覚はあった。だがそれも命あっての物種だ。死んでしまっては元も子もない。そう考えが至るかも知れぬとは思わなかったのか、あの三好長慶は。
元就は己の唇を血が滲む程噛み締めた。
―――人間であるから、
だから何だ、ハンターとしての勤めを果たす、それだけではないか。


政宗は息苦しさに溜め息を吐きながら前髪を掻き上げた。
悩ましげな瞳が目の前の獲物をねちっこく見つめる。唇から溢れた血の色をした舌がちらりと口の端を舐った。熱くて痺れる身体が堪らなくて胸に、腹に、己が手を這わせた。
熱い吐息には野猿の血が香った。
それを面白げに眺める男の1、2歩手前で無防備に立ち止まった。
「片倉を憎んでいるのかね?」
欲に浮かされ、半眼に閉じた左目が凝っと松永のそれを捉えた。
「人間でもない、吸血鬼でもないハンターだと言い張り、自分が吸血鬼である事を拒否している卿は」
「……I am a Vampire Hunter….」
「それに拘泥するも又良い。人間とは如何にも矛盾する生き物であるから。…いや、卿はもう人間ではなくなったのだな。だからこその拘りか」
カ、とハンターの左目が見開かれた。
「I am human being!!」
叫んだと同時に右手を伸ばした。
冷笑する吸血鬼の首を捉える筈だった腕は、男の左手にとられた。
それを払った。
拳に固めた左手を男の下っ腹に打ち込んだ。
剣をもった男の右手がそれを横から拳で薙ぎ払った。
掌底を男の顎に放ち、同時に体を捻りながら右膝蹴りも叩き込んだ。
連撃されるそれらを更に上回るスピードで吸血鬼の手は動いた。
端から見る者がいたら2人の体が僅かにぶれ、時折手足が消えたと言って騒ぐだろう。肉と肉とが打ち合わされる音と、彼らの動作が噛み合っていなかった。
それ程までに人智を越えた応酬だった。
すい、と松永の上身が沈んだ。
かと思えば、青年の体が吹っ飛び礼拝堂の柱に背を打ち付けて落ちた。すぐ様飛び起きる。
薙ぎ払われた切っ先は、仰け反って飛び退った政宗の鼻先を掠めた。地面すれすれに屈んで低く横へ飛んだ。次々と突き出される直剣を、政宗は軽々と躱した。
冴え渡って来る。
思いや感情を捨てればその先に真っ平らで見晴らしの良い荒野が見えて来るようだった。
あるいは、人間であった記憶をも手放してしまえば、あるいは―――。
伸び切った4本の牙を思う様噛み締めた。
「I am human being!!」
―――何故、拘泥る?
松永の声が耳にこびりついていた。
吸血鬼の世界、夜と闇の意識に身を委ねてしまえば楽になれる、そう言った誰のものとも知れぬ声が響く。
意固地に縋り付く程大層なものか、人間とは。先程ケダモノたちに犯されている間はあっさり手放したものではないか。欲望のままに闇に浸り、殺し、奪えば良い。
「Be quiet!!!!!」
叫びながら、その声は他の誰でもない事に気付いていた。
弱い、とてつもなく脆弱な人間である自分自身だった。
「何をぐるぐる迷っているのかね」
ガヅン、と突き出された切っ先が政宗の腕を壁に縫い付けていた。
その状態で青年は暴れた。肉と骨を断ち、剣から逃れた。刃に傷付けられた肉体は速やかに塞がって行った。
「ほう、吸血鬼になって間もないと見えたが、さすがエルダーの血を頂いただけの事はある…」
剣の柄で頭を殴られ、政宗はよろけた。
倒れる寸前に踏み止まり、鞭のように脚を撓らせて蹴りを放った。
男の腕が丸太のような手応えを残してそれを防いだ。
更に激しく攻撃を繰り出した。
振るった腕や脚が、浅く深く斬りつけられても構わなかった。
嬲られている、その自覚はあった。ただ体を動かし続けた、無心に、男の闇の命を求めて。
迷っているかと問われれば、そうだと応えよう。
迷いはある。
片倉に対する憎しみのようなものも否定しない。
だが―――。

『人間である事を諦めてはいけない』

何時だってそうだ。
ハントの途中で命を落としかける度に父の言葉が蘇る。
最期には屍喰鬼となって自分に牙を剥いた父だった。偉そうな事をほざくなと言いたかった。そこへ落ちて行った父に裏切られた気分だった。それでも、極限状態で思い出すのは何時だってその言葉なのだ。
腹を蹴り上げられ、横っ面を張られた。
宙を飛んだ政宗の体を、光速で移動した松永が空中で捉えた。
喉輪を鷲掴まれ、高々と掲げられる。
「いけないな、よそ見をしていては…それとも」
松永のもう片方の手が剣の柄を青年の脇腹に走らせた。
感じる体はそのまま健在で、青年は細く呻きながら身悶えた。
「媚薬の効果が切れた訳ではないのだな…成る程、興味深い」
政宗は男の服に爪を立てた。
「あの香油を克服した吸血鬼はいないの、だ…」
ふと、松永が不自然に言葉を切った。
その冷酷な目がここではない何処かを見ていた。政宗は深く考えもせず、首から男の手を外すと刹那、無防備な松永の首に食らい付いていた。
深く深く牙を潜り込ませ、溢れ出した血潮を吸い上げた。
吸血鬼の血は独特だ。
人間のそれが潤沢なワインの泉だとすれば吸血鬼のものは劇薬。例えば片倉のそれは政宗の体の中に昏い太陽を産んで産みつけた。自我を容易く崩壊させるスピード系の麻薬のようなものだった。であるなら松永のそれは重力の誘惑―――果てしない落下感だったか、浮遊感だったか。
見開かれ、血の真紅に染まった左目から視野が消えて行く。
それと同時に自分のものではない鼓動が頭の中に鳴り響いた。それは松永のものだ。力強く、弱まる気配も見せない。政宗は自分の心音がそれに徐々に引き摺られて行くのを感じた。
徐々に刻むビートが重なって行く。
血を吸っているのは自分の方だと言うのに、その世界に引き込まれて行く。正に重力、グラヴィティの魔力。
松永はぐずぐずと崩れ落ちて行く青年の体を片手で抱き止めた。
「ああ…、思ったよりキツいものなのだな…」
呟いた男の声を、薄ぼんやりした意識の中政宗は聞いた。
吸血鬼の血の繋がりは親類よりも強い。彼らは己が眷属が滅んだ事を時と場を越えて知る。
「失って儚いものはもう何もないと…」
男は己を冷笑した。
片腕にハンターを抱えながら、もう片方の手にした剣を青年の背中に突き立てた。それは正しく政宗の心臓を貫いていたが、鍔まで埋まった刀身は松永の胸を背まで貫いてもいた。
「……あ…か…っ、は…っ!」
政宗は見えぬ目で松永を見上げた。


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