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―記念文倉庫―

野営地に戻ると又別の問題が起こっていた。
問題どころの騒ぎではない。
何処から集まって来たのか、狼たちの群れがヤクの血肉を求めて執ねくシェルパたちの塒を襲っていたのだ。
蒼白い氷の炎をその眼光と糸引く唾液と共に放ちつつ、ヤクとシェルパを包囲した灰色の獣たちは、元就の円月刀に何度断ち切られても元に戻ってしまう。実体があるのかどうかも怪しかった。
撃退の為の決定打が見つからぬまま政宗も荷物の中から長剣を抜き放って応戦した。
きりがない、そう思いつつも狙われているのは怯えて鳴き叫ぶヤクたちだ。放っておく訳にも行かない。粘る狼たちを相手にシェルパもピッケルなどを武器に応戦した。
どのくらいそうやって追い払っていたか。
やがて、誰かに呼ばれでもしたように銀色の毛並みを揺らして狼は一頭また一頭と後退して行った。
気付けばヤクは元の半数以下にまで減っていた。
しっかり括り付けられていた荷物も食い破られ、散々に蹴散らされているものも多かった。
忌々しげに舌打ちを放った政宗の元に最上が1人のシェルパを連れてやって来た。
「政宗!先程からこやつが煩いのだ!何と申しておる?!」
一人こそこそ逃げ隠れしていた我が伯父はまるきり無事のようだ。それから素っ気なく目を反らした政宗は、小柄な男を振り向いた。
「It's too dangerous as it's that we continue climbing a mountain.(このまま登り続けるのは危険過ぎる)」
仕事用に英語を会得している男が目だけをギラつかせてそう言った。
せめてイスラマバードの近くにあるベースキャンプに戻れと言うのだ。
「I don't intend to return.(引き返すつもりはねえ)」
きっぱりと言い放った政宗の言葉に、僅かシェルパは感情らしきものを覗かせた。
「Look, He takes a rest unconcernedly, too. I don't say that you take a rest to departure. Escape if you want to escape.(あいつだって平気で休んでる。出発までお前たちも休んでいろ、とは言わない。逃げたきゃ逃げろ)」
そのシェルパは一度自分の背後を振り向き、崖の真下に腰を降ろして毛布を被り既に目を閉じている元就の姿を眺めやった。それから政宗の顔色を窺うように凝っとこちらを見つめる。
倒れたストーブが炎を上げていて辺りは完全な闇ではなかった。その中で凶兆でも見つけたようにシェルパの目が見開かれ、そして眇められる。
「There will be a great evil….」
呪いの言葉をぶつぶつ呟きながら男はすごすごと仲間たちの所へ戻って行った。さすがに死んだヤクの側で休むのが憚られるらしく、その死体を少しでも離そうと2人一組となって重い体を運んでいる。
「おい、何と申しておったのだ?」
重ねて尋ねられ、政宗は凶悪な形相で伯父を睨みつけた。
「手前も逃げ出したいなんて今更言わねえだろうな?」
「……あ、あ、あ、当たり前ではないか!」
一言甲高く叫んで、最上は足音高く立ち去った。
その背を政宗の微かな溜め息が見送った。そうして青年は己の口元を片手で覆った。未だ血に対する餓えが彼の神経をヒリヒリと苛んでいた。喉を灼く渇望には底も限りも無いのだろうか。
「……こうやって俺たちの体力を削いでいやがるんだな…」
誰にともなく呟いた政宗は敵の陰湿で下卑た手口を嘲笑った。
「そして勤勉、って訳だな」
「は?」
政宗が男の声に振り向くと、その向こうから速やかに白い靄が流れ来た。この乾いた大地に濃密な靄など有り得なかった。その証拠に、それは妖しのものの到来を告げる露払いであった。
新手が来たのだ。
元就は毛布を退けて立ち上がった。
「…勤勉、ね―――」
次から次へとあの手この手を仕掛けて来る。
それを勤勉と言わずして何と言おう。政宗にとっては挑発行為、あるいは宣戦布告の果たし状でしかない。
後方へ下がって行った片倉は、何事かとこちらへ戻りかけていた最上を連れて更に奥へと引っ込んだ。それとはすれ違いに元就がゆっくりと前に歩み出て来る。その両手には常に剥き出しの2振りの円月刀が無造作にぶら下げられている。
怯えたヤクが低く呻いた。
シェルパはその怯えが感染したかのように一カ所にまとまって辺りを見渡した。
政宗も顔を上げて当たりに立ち籠めた乳白色の靄を透かし見た。

靄にはねっとりとして纏わり付く不快なものがあった。
だが何処か爛熟した果実のような、甘く饐えた匂いにも塗れている。この荒涼とした場には全く似つかわしくない気配が生んだものはやはり、峨々たる山脈の連なりとは無縁の女がたった1人―――。
ヒンドゥーの女たちが身に纏っていそうな衣裳、サリーを妖艶に身体に巻き付け、柔らかなシルクの裾を優雅に風に流している。その薄い衣は下に何も身に付けていないのが分かる程で、胸にしろ尻にしろ、零れ落ちんばかりの豊満な体付きだった。
異教徒の化粧は力強い瞳に濃いアイシャドー、そして額のビンディーは既婚女性の印だ。また鼻ピアスはイヤリングと髪飾りに繋がっていて、繊細な鎖がその動きに合わせてチラチラと踊った。手足には重厚なブレスレットとアンクレットの連なりが揺れていて、縊れたウエストにはこれでもかと宝石を埋め込んだ華飾のベルト―――女はアジャンターの石窟から飛び出して来たアプサラー(天女)そのものだった。
それが、政宗と元就の目の前で悠然と立ち止まる。
褐色の頬は仄かに赤く色づいて、婉然と微笑んだ。
「Do somebody, my gentlemen whom I take the hand and lead come?(どなたか私の手を取って案内して下さる殿方はいらっしゃる?)」
魅惑的な声だった。
男だったら誰もその願いを叶えてやりたいと思うような。
今しもふらふらと覚束ない足取りで政宗たちの横を通り過ぎて女に近付いて行こうとするシェルパたちのように。
政宗は1人の男の肩を掴んで引き止めた。
「何やってんだ、あから様に妖しいだろうが…」
言い掛けた青年の鼻先を風が切った。
素早く手を引っ込めたので何事もなかったが、その男は懐から登山ナイフを抜き放ってその切っ先をハンターに向かって突き付けて見せた。
政宗は刀を返した。正気を失っているのなら峰打ちで―――そう思った肩口を風が唸りながら過った。
そのシェルパの右手がナイフを掴んだまま宙へ飛び、顔面の中程を赤い筋が走る。
振り向いた先で横顔を見せたままの元就が、円月刀を真円形のチャクラムへと変形させていた。彼の足下に顔を斜めに断ち切られたシェルパが崩れ落ちる。
「―――…」
政宗は同業者の横顔を思わず左目で追っていた。
彼らは人だ。
血を吸われた訳ではない。
催眠術のようなもので炎に飛び込む蛾のように女に呼ばれただけだ。それを、こうもあっさりと。
「何をしている、ぐずぐずしておると奴らが厄介な存在になるぞ」
ちら、と冷たい視線を流しつつ元就はそう嘯いた。
政宗は舌打ちしつつも手にした長剣を引き抜いた。と、その時。
「おおう、何と美しい淑女であろうか…!」
そんな風に高く喚いた声を耳にして、踏み出した足を思わず止める。振り向いた視界に躓きながら女に向かって手を伸ばし馳せ寄ろうとしている伯父の姿があった。
「……あの、バカが…っ!」
放っておいたら元就は例えルナ・ステイツの議員であっても躊躇無く一刀両断にしそうだ。さすがにそれでは目覚めが悪い。政宗は素早く最上の傍らに駆け寄ると、刃を返した一刀をその腹に叩き込んでやった。
「ぎゃっ!」
蹴り飛ばされた野良犬のような悲鳴を上げて最上はすっ飛んだ。まだ普通の人間に対する力の加減が分からないようだ。岩に突き当たって地面に伸びた伯父が、無傷ではないものの殺してしまったのでなければ良いが、と思いつつ青年はそのまま手にした長剣を翻して靄の中に立つ女に向かって疾駆した。
「Oh, I'm ashamed….(あら、情けない)」
女は、唯一の片目に殺気を宿して向かい来る青年を見やって、笑いながらわざとらしく声を上げた。
その政宗の前に立ちはだかるのは、シェルパたちだ。
女王蜂を守る生殖能力の無い働き蜂のように、彼らは勤勉なまでに政宗の行く手を塞いだ。
「早く殺せ」と元就が向こうの方で声を上げていた。
殺したくはない、と思った。
殺す必要も無い筈だ。それ程までに容易に殺生が行使されて良いものとは思えなかった。ハンターをやる上でいわゆる無駄な殺しは常に避けて来た。それが例え後に己の上に降り掛かる火の粉の元となっても、だ。
そんな風に元就の命令を無視した青年を、当の本人は一瞥した。全く感情のこもらぬ凍り付いた胸の裡で自分の苛立ちさえも殺しているように。
襲い来るシェルパたちを風のように避けた政宗は真っ直ぐ女との距離を詰めた。
その、蛭のようにぬらついた真っ赤な唇が歪む。
そこから溢れる真っ白な乱杭歯を政宗は見た。
靄が身体の周りで渦巻いた。
振りかぶった刃を突き出しつつ旋回させた。空を切る切っ先に炎が点ったかのような轟音が響いた。

ぐあんっ

まるで銅鑼を叩き付けたような轟きがそれを弾く。
女の身に纏った衣だ。
それが意志を持つもののように政宗の刃を跳ね退けてふうわりと地面に垂れた。女は増々笑みを深くする。今や褐色の肌を持った吸血鬼はその本性を露わにしており、蒼白いシルクの輝きを放つ衣を腕に纏い付かせて凛と佇んだ。
「The men that life and the soul are not precious should stand in the way before me….(命と魂の惜しくない者どもは、私の前に立ちはだかるが良い)」
「A deformed person without the soul don't speak in an important looking manner.(魂のねえ片輪者がほざけ)」
女の妖艶な美貌が凄惨に歪んだ。
「Fall into the hell!(地獄に堕ちろ)」
政宗は口の端を歪めた。
女の放った罵声が余りにも人間じみていたからだ。
醜さは人間の専売特許、あの片倉とて言っていたではないか、「それはある意味最も人間らしい行為だ」と。ミディアンの上を行き、あるいはミディアンどもを食い物にしてでも己の欲望に忠実である事―――。
そう、それが確かに人間だ。
「Ya-ha! 上等だ、どっちが地獄の天井をぶち破るかやって見せろよ!」
政宗は吠えた。
その牙を剥き出しにして。
超音波に近いそれが地面に転がる小石をぶるぶると震わせた。そしてその声は狼たちの遠吠えよりも高く、長く、遠く、世界の屋根と讃えられる山脈の壁に木霊した。
政宗の猛攻に女は防戦一方となった。
追い縋ろうとした元就ですら、その斬激の隙間に入って行けずにいた。
その人智を越える光速の動き。振り切った刃が起こす風が地面に触れる前にそれを抉り、鋼の刀身が余りのスピードに耐えかねてその残像を長く尾を引いて残していた。
女の肩口が削ぎ落とされた。
その豊満な2つの胸を横断するように赤い線が走り、見る間に鮮血を吹き出す。
生き物のようにうねる白いシルクを切り裂いて。

ザクリ、ザクリ、

続けて二度、肉に食い込み骨を断つ厭な音がして女は両肩からそれぞれ臍の辺りへ向かってVの字に斬られていた。
その断面から大滝のような血が迸る。
女吸血鬼はそれを不思議そうに見やって、それからだらり、と長い舌を吐き出した。口の端が耳元まで裂け、あれ程美しかった顔がこれ以上無い程醜く歪む。
それは苦痛のようでいて、その実愉悦のようで、その上何が起こっているのかさっぱり分からない者の心の歪みでもあった。
政宗の長剣は女吸血鬼の胸のど真ん中を貫き、次いでその生首の骨を断つ音を余韻にして叩き斬った。


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