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―記念文倉庫―

体が持って行かれそうな強風の吹き荒ぶ崖の斜面まで出た。
吸血鬼の視界には暗がりの中にも萌え出る高山植物が自ら発光しているかのように見えたし、その辺りに転がる石塊や山肌ですら例外ではなかった。
2人は少し下方で食事を終えたシェルパたちが休む谷底を眺め降ろしながら、傾斜の途中に腰を下ろした。
「冗談はさておき、頭痛や吐き気はねえか?」
問われて、先程の嘔吐感が未だ納まっていない事に気付く。頭痛はと言えば、山歩きをしている最中から拭い難い鈍痛がこめかみを締め上げていた事も思い出した。
「……少しは…」と政宗は渋々応えた。
「説明したろ、トラッキング中は意識して深呼吸をし続けろって」
「吸血鬼が高山病だとか笑えねえJokeだ」
「くっちゃべってねえで深呼吸しろ」
「―――」
仕方なく、冷え冷えとした空気を思う様吸い込んだ。
空気が美味い。
とは不思議なものだ。血以外のもので体に入れて喜ぶのは空気しかないのだろう。意識は人間のまま体だけがミディアンになる、その双方の乖離に果てしない孤独があった。
不意に男の手が伸びて来て政宗のジャケットの前を寛げ始めた。
「な…にすんだよ」
「ベルトを緩めて呼吸しやすくすんだ、何もしやしねえ」
「………」
仕方なく政宗は子供のようにされるがまま従った。
アウターパンツの下にはフリースのタイツも身に着けている。その上ベルトで腹を締め付ければ普段意識しなくともやはり呼吸は妨げられる。その証拠にベルトを緩めたら気分も良くなった。
片倉は深呼吸を繰り返す青年を一瞥してから斜面にごろりと横になった。その吐息は穏やかで、気配もごく薄い。周囲にいる人間全てに悉く幻視を見せる事で人間の中に溶け込んでいるこのエルダーは、もう一人のハンター元就に正体を見破られる事もない。だから政宗も忘れそうになるのだが、ダンピールと言えど昼日中の行動がこの男に与える影響は少なからずある筈だった。
「…あんたは何ともないのか?」
心配からではない、ただの好奇心だ、自分で自分に言い訳をしつつ青年は尋ねた。
「ああ―――」と片倉は呟いて、少し口を閉ざした。
「体の中の細胞が1つ1つ殺されてく、その感覚は失せる事はねえな。だが殺されるよりも速いスピードで再生している。痛みなんざ生まれてこの方離れた事がねえ親しい隣人みたいなもんだ。存在自体が空気って訳だな」
「痛みは感じてんだな」
「だとしてもそんなもん無視だ。お前だって闘ってる最中はそうだろ?」
「…闘ってるからだ」
「何だ、同情してくれんのか?」
「ほざいてろ」
青年の痛罵に片倉は声もなく笑った。
凍り付きそうな風はびょうびょうと吹き荒んで、2人がぼそぼそ喋る声も掻っ攫って行く。見上げた夜空で星はより近く、より眩く輝いている。比喩ではなく、希薄な空気の層のおかげで人間の肉眼からでも星は数多く鮮明に見えた。
「1つ1つ、慣れて行け」
風と沈黙の隙間に男はそう言った。
「俺には理解できんが、人間から吸血気になった者はそうやって段階を踏んで行くんだそうだ」
ふう、と大きく息を吐き出した政宗は、立てた膝の上に頭を項垂れた。
「…ご高説ありがとよ」
闇色に限りなく近い濃紺の空は高く、高かった。

暫くして、下の方からヤクが騒ぎ出した気配がした。
シェルパたちが起き出して、引き綱を引っ張って逃げ出そうとするヤクたちを宥めている声が聞こえた。体の大きなヤクが本気で暴走など始めたら手に負えない。
政宗は顔を上げてそれらを見やった。振り返ると何時の間にか片倉が立ち上がって崖の向こう側を眺めやっており、その頃には政宗にも異様な気配が感じ取れた。
シェルパたちの元へ戻ると元就の姿がなかった。
「あっちだ、元就の奴め、いきなり逃げ出しおった!」と毛布に身をくるんだ最上がヤクたちから最も離れた谷底の奥で叫んだ。
2人は最上の指差した方向へ気配を辿りつつ、足早に駆けた。谷間を西側に向かって回り込み、頭上にせり出すようにしてある崖の上に迂回して昇った。岩だらけで、まともに歩く事は叶わない凸凹の斜面を屈むようにして這い進む。
元就の姿はその岩場の影に身を潜めるようにしてあった。
その隣にたどり着いた政宗は、彼の鋭利な横顔が臨む岩の向こうへ同じように視線を投げやった。
大きくうねる山の谷間にちらちらと人工の明かりが揺らめいていた。その中に黒い人影がほぼ一列になって北へと向かっており、人間と人間の間で人が一人入れる程の木枠の荷物を難儀そうに運んでいる。それも1つではない、―――5つ。
荷物の中では獣の唸り声を上げるものがあった。その声にヤクたちは怯えていたのだ。
「捕われた吸血鬼か」と政宗は呟いた。
「あのような粗末な檻すら破れぬくらい弱っている。ああなると吸血鬼とて山犬と大して変わらぬ」
感情の籠らぬ冷ややかな声で元就が誰に言うともなく呟き返した。
それは政宗も同感だったが、それをいちいち口にして目の前の同業者と共感を分かち合う気は更々なかった。
何となく片倉の方を見やって尋ねてみた。
「吸血鬼の血を沸騰させる香って奴か?」
「多分…しかし、それ以外のものを開発している事も考えられますよ。何せ"昔"の情報なので…」
その"昔"とやらを十数年と見るか数百年と見るかで相手の反応も違ったが、政宗はこっそり肩を竦めただけだ。気配に顔を戻すと、元就が不安定な足場の上で立ち上がった所だった。
「おい…」と言い掛けたのを、華奢な後ろ姿が遮る。
「我らの事は敵には筒抜けだと申したな、片倉とやら」
尋ねる言葉ではあるが、返事は元より期待していない。男が沈黙を守っていると元就は鷹揚な仕草で足下にあったものを持ち上げた。
巨大な円月刀だった。
それがずるり、とずれて2枚の弧に変わる。
その細い体と腕の何処にそれ程の力があるのかと呆れ返っている政宗の前で、円月刀を両手に垂らした元就は一歩を踏み出した。
「ならばこそこそ隠れる事に意味はない」
音もなく元就の体が沈んだ。かと思えば次の瞬間には小石を蹴散らしつつ痩身が宙に舞っており、ふわりと下方へ落ちて行く。
「おい!」
鋭く叫んで政宗も岩場をふわりと飛び越えた。
2人の年若いハンターが見る間に谷底へと駆け下りて行くのを片倉は表情の窺えないミディアンの容貌で眺め降ろした。
イスラマバードを発ってから放った彼の使い魔ー主に鼠だーは敵の吸血鬼の存在を知らせて来ない。あるいは戻ってすら来ないものも多くいるので食い潰されたのだろう。松永本人がこの近隣に未だ現れていない事は、片倉の超感覚が告げている。
血風吹き荒ぶ修羅場から不意と目を反らした男は、深い宇宙の底を見上げた。
―――世界の屋根…。
微かな懐かしさと共に、そう胸の中で呟いてみる。

間もなく喧騒は過ぎ去り、血と死肉の河と化した谷底へ片倉も降りて行った。僅か数分程の出来事だった。
元就の手には円盤状の鋼が握られており、充電式のランプの明かりに蒼白く輝いていた。血糊1つ残っていないそれが先程の2振りの円月刀であると気付くのに大した苦労はなかった。インドの神々が持つと言う武器、チャクラムに似ているものがやけにこの場に似合っていて思わず苦笑が溢れる。
政宗は手にしていた錆びた鉈を打ち捨てた。
携帯して来た長剣は荷物と一緒にヤクたちが身を寄せ合っている所に置いて来ていた。古い血のこびり付いた鉈はもはや切れ味など無きに等しく、打撲によるダメージしか与えられないものと化していた。それでも今の青年には十分だったらしく、地面に転がる死体の中には頭が半分粉砕されたものや、手足が有り得ない方向に捻じ曲がっている者も多くいた。後は、どれが誰の者か分からぬバラバラ死体が散らばっている。
「これは又…派手にやりましたね」と片倉はハンカチで鼻と口を抑えたままで言った。
全く感心し切った声を元就はふん、と鼻先であしらって、投げ出されて岩の間に挟まった木製の檻の前に立った。
政宗は血の匂いに酔って乱れた息を繰り返しながらそれを見ていた。早くこの場から立ち去りたかった。
檻の中を透かし見れば案に違わず、瀕死のミディアンが声も出せず口を大きくOの字に開けたままギラついた眼球で見返して来た。
その、有様―――。
殆ど骨と皮ばかりに成り果て、その皮膚も著しく干涸びている。どす黒く変色してぴくぴく動く筋を覗かせている腕や首筋などは、本来なら太い血管をあちこちに浮かび上がらせているのだろうが、長らく血を与えられていない吸血鬼はボロ雑巾を纏って動くミイラに等しかった。
それを元就は静かに眺め下ろした。
冷ややかに。
そして、信じられない程穏やかに。
それはもはや神が塵芥を見る目に似て。
冷淡なハンターの背後に口元を抑えて何とか歩み寄っていた政宗は、彼の右手が軽々と動くのを見た。真円の輝きが三ヶ月の弧を描く。
一度、そして二度。

ガション

と言う音がそれに続いて円刃は2つの部分から成るW字になって別々の軌跡を描いた。
刃の輝きが闇に沈んだ後、残されたのは木っ端微塵の檻の欠片と、肩口から股間までを両断された吸血鬼だったものだ。2つに割れた円月刀の切っ先を突き立てた左胸からは既に流れ出るものもなく、裁ち落とした首とてどろりとしてすっかり黒ずんだ何かをだらしなく垂れ流すだけだ。そうして、僅かに間を置いてその表皮がジリジリと泡立ち、ぽろぽろと崩れて行く。
滅びは速やかだった。
ざっと風が吹き渡ればミディアンの体は跡形も無く吹き飛んだ。
それに対して感傷に浸るでもなく、元就はすたすたと歩いて次の檻も同じ運命を辿らせた。
残る三つも定めを逃れ得る事は無かった。
徹底した態度だった。
ハンターであるなら、いや人間であれば当然の措置だ。それは疑いようも無い、なのに政宗の中には何か曰く言い難いもやもやしたものが蟠った。
自分の身が"そちら側"に行ってしまったからか、気持ちまでもがミディアンに同情を抱くようにでもなってしまったのか。
―――認めたくない、政宗はひっそりと己が唇を噛み締めた。
辺りに立ち籠める血の香りと共に気が遠くなる。その朦朧とした意識のままで「毛利元就」とその名を呼び止めていた。
円月刀を片手に纏めて携えた元就はこの場から立ち去りかけた足を止めた。そしてお義理とばかりにゆっくりと振り向く。その冷ややかで端正な面を見て政宗は言葉を取り零す。俺は何を言い出すつもりだ、吸血鬼の弁護でもしようって言うのか?
そんな戸惑いを見透かしたように、元就の蓮華の如き両目が僅かに細められる。
薄い唇が動いて、一言。
「余興よ」
言い放った元就は相手の反応も見ずに崖を飛び上がって渡って行ってしまった。
「憎しみも何も抱かずに、こうまでやってくれる奴は久々に見た」青年の傍らに立った男は賛辞のように言い放つ。
その言葉にダメージを受けたかのように政宗はその場に膝を突いていた。


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