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―記念文倉庫―

ツインの部屋から出た片倉は、本来立ち入り禁止であるホテルの屋上に来ていた。
国際線が発着する空港や、この町にもある独立記念塔などの明かりの他、民家などからは一切の灯火が消えている閑散とした夜景が臨めた。
その背後に、闇から生まれたとしか思えない黒い影がひっそりと佇む。
釣り鐘マントと山高帽のシルエットに、熾き火のようにうっそりと燻る赤い点。生命の枯渇した生臭い息を吐き出す口元には、鋼の輝きを見せる乱杭歯。
「どのような理由であれ、来て頂いた事に感謝する」
ガチガチと牙を鳴らしつつ、三好長慶は聞き取りずらい言葉を零した。
「生憎だが俺は松永とはやらねえ。一回懲りてんだ、奴には」
「それは未だ駆け出しのハンターであった頃であろう」
「奴も未だ100年ぐれえしか生きてなかった。因みに俺は170年程だ。その差がありながら生粋には勝てねえんだと思い知ったんだよ」
「―――そう…間もなくあの方も千年紀を迎えられる…」
片倉は背後の吸血鬼を振り向いた。
夜空を見上げるミディアンの目には夜空はただの闇ではない。数多の星と星雲が渦巻く正に銀河と宇宙、その輝きが清かな音を立てるのでさえ聞こえて来そうだった。
それを見上げる三好の鉄の無表情に憧憬じみたものを見つけて、片倉は目を細めた。
「恐れてるのか?」と思わず尋ねていた。
「恐れる?」
「奴と袂を分かってルナ・ステイツなんぞに籍を置いて、その挙げ句かつての盟友の魂を滅ぼしに行く、その理由だよ」
「―――…」
「別に答えたくなきゃ言うな、俺も知りたい訳じゃねえ」
「片倉殿はダンピールである故、生まれた時から太陽を知っておられた」
三好はエルダーの言を無視して語り出した。
「千年紀を迎えた吸血鬼が皆悉く太陽に滅ぼされぬ肉体を得る訳ではなかろうが、あの方は間違いなく朝日の中で微笑まれるだろう。それは冷ややかに、こんなものかと一笑に付す。…こんなものを恐れて我らはこそこそ逃げ惑っていたのかと……」
ガチリ
吸血鬼の乱杭歯が激しく噛み合わされた。
「……………」
その食い縛った歯の間から三好は何事かを呟いた。
片倉は吸血鬼の聴力でそれを聞き取っていたが、問い返す事はしなかった。彼自身もはや説明のつかない衝動なのだろう。
1000年を生き抜いて来た中で、片倉はそんな彼らをいやと言う程見て来た。
「そう―――…」
気配を消そうとしていた吸血鬼が、体の輪郭を崩しながらふと立ち止まった。既に片倉は手摺に凭れて夜景を臨んでおり、三好の声に振り向くつもりはなかった。吸血鬼同士は余計な干渉をしない。一人一人が孤独なハンターであると言えた。だが続いて三好の口から溢れた名に、首だけを捩じ曲げて背後を振り返っていた。
「伊達政宗、あれの父親に儂は面通っておる。ルナ・ステイツにこの身を投げたはあの男のせいであろうな、恐らく…」
言葉の余韻を残しつつ吸血鬼は黒いシミとなって屋上から消えた。
ふう、と軽く息を放った片倉は、興味の失せた夜景を眺めつつ頬杖を付いてあのハンターに思いを馳せた。彼の父親が播いた種は恐らく数知れないだろう。測らずともそれを摘み取る事となった政宗は、父の遺志を汲み取る事が出来るだろうか。
繊細で機微としたものだ、その上人間とは生命のあり方そのものが全く違う吸血鬼たちの物語―――、その顛末を見守りたい。

そう思うと同時に松永の存在が不吉な影を落としていた。



翌日、陽が昇る前にイスラマバードを発った。
シェルパのリーダーに導かれ、荷運びのヤクなどが待機するベスキャンプまでは現地で手に入れたジーブで向かった。
照りつける陽光と隙間があれば入り込んで来る砂や砂利を避ける為の装備をきっちり整え、一行は乾いた薄明かりの中をジープをひた走らせた。
平たい作りの山小屋の前にヤクの繋がれたキャンプ地点が見えたのは午前の早い内だ。
ハンターではない片倉や最上はここで無線連絡を取りつつ待機しているように、とシェルパのリーダーから指示が下ったが2人揃ってそれを拒否した。
足手まといだと元就に嫌がられたにも関わらず、ジャングルブーツから登山靴に履き替えた片倉はそれを右から左へと聞き流した。
最上などは見届ける義務があるとか、学生時代は登山研究部だったとか何とか姦しく元就と言い合った。
一方、現地民のシェルバは、日に焼けた浅黒い顔に読み取りにくい表情を浮かべたが、特に何も言わなかった。予定より人が増えた所で大した問題ではない。吸血鬼がいなくとも4000〜5000メートル級の山脈へ足を踏み入れるのは危険な行為であり、何時でも不慮の事故で死者は出るものだ、そんな達観があった。
そして政宗は、むっつり黙りこくったまま皆からは距離を置いていた。

松永の使役していると見られるジプシーらはもともと、イスラマバードから北へ200キロ程にあるギルギットからパミール高原までを行動範囲としていた。それは直線距離なので複雑な地形を見せる山岳地帯ではその何倍もの労力が強いられる。彼らも又強靭な脚力と精神力を持って厳しい自然と立ち向かう民族だった。
山の合間は比較的平坦な道が続いていた。
車やバイクではなく人々とヤクなどの家畜が通う道が、そこいらにごろごろ転がる岩を退けられただけの状態で縦横に走っている。全く水気のない、薄茶の山肌が続いているかと思えば、その山間に真っ白に輝く山脈のピークが見えたりする。その谷間には氷河が張り出していて、それが溶けて谷川となる。だから氷河の傍らからは僅かな緑が萌え出していた。
ヨーロッパを出て既に10日が経過している。
規模の違い過ぎる広大な土地と距離感の狂う剣然とした山脈の頂きとに目眩を感じる。荒れ果てた大地はこの世のものとは思われなかった。午後に近付くにつれ強烈な日差しは容赦なく照りつけるのに、風は震えが怒る程冷たく、触れた途端干涸びそうな程乾いていた。その上標高は平均で2000〜3000メートル、もはや尋常な世界ではない。
遠くに時折遊牧民の立てたパオが幾つか並び、その傍らで小さな動物が草を食んでいるのを目にした時だけここは地球上なのだと思い出す。

その単調な道行きがやがて険しい山歩きへと変わったのは、イスラマバードを発って2日目の事だ。そこは観光客など一切受け付けない、人間の居住出来る限界を超えた4000〜6000メートル近い標高地点だ。その環境に耐え得た生き物の姿とてない不毛の地。神々が座す倉、正にその頂きに限りなく近い場所だった。
肺が破れそうな息苦しさが続いていた。
この土地を生国とするシェルパたちでさえ俯き加減に黙々と歩いて一言も言葉を交わさない。闇の賜物を受けた政宗とてそれは例外ではなかった。吸血鬼でも酸素は必要なのだ、おかしな事に。
それでいて片倉には何一つ顔色の変化はなかった。汗もかいていない。彼にとっては昼日中の踏破は熱さよりも寒気と陽光の齎す苦痛しかないのだろう。それにしても涼しい顔をしてやがる。
一方、登山研究部がどうのと吹いていた最上は既にダウン直前で、ヤクの背に乗せてもらってその上で身を伏せたまま荒い息を繰り返していた。文句を言う、そんな事をしたら酸素が勿体ないと言う感じだ。
もう一人のハンター毛利元就は、彼こそ顔を歪ませるでもなく淡々と歩いている。息の乱れは仕方ないが、ただの人間のくせに憎らしい程平静だ。最上が言っていたミディアンたちを下僕にする術を持った怜悧な男、何かの魔術めいたものを駆使していてもおかしくはない。
そんな道行きが夜まで続いた。

空気が恐ろしい程清澄なこの高地では、夕日も恐ろしい程色鮮やかだった。
黄金の太陽が傾きフレッシュなオレンジ色へと色づき、やがてリンゴも真っ青の朱に染まる。四方を囲う山脈はナチュランチントの深い影と薔薇色の輝きで立体感を増す。
その景色の一部となりつつ野営の準備をした政宗たちは、シェルパの用意した簡単な夕食を摂った。酸素が薄いので火が点きにくいとか、気圧が低いので沸点も下がるとかで独特の調理法ではある。小降りの圧力釜が欠かせないのだそうだ。
政宗は、スチール製の器に盛られたライスと香辛料のきついサラサラのカレーに羊肉の薫製などが乗った食事を前に沈黙した。
食欲が一切ない。
それは片倉の血を飲んだあの夜からそうだったのだが、他の人間たちと食事の席を共にする事で今更ながらに己の肉体の変化に戸惑っていた。
思えば、神父が当然のように食事を摂らずに過ごしていたおかげでその事を意識せずに済んでいたのだ。最後の食事は何時だったか、とぼんやり目の前の携帯型ストーブを眺める。
そうだ、神父の自宅で饗された、村人が差し入れてくれたと言う茸と鱈のパイ包み。あれを1人でぺろりと平らげたのが最後だ。とても旨かった。だがその味がどんなものだったかを思い出そうとして愕然となる。
―――全然思い出せねえ…。
柔らかいもの、歯ごたえのあるもの、温かくて湯気を立てていた。それの味が分からない。それより以前に何を食ったのかなどまるで夢の中だ。石や砂の方が未だマシなんじゃないかと思えるくらいだった。
「どうしました、伊達氏?」
闇に赤々と燃えるストーブの向こうから片倉が尋ねて来た。
「…何でもねえ」
思い直してスプーンで掬ったそれを一口含んだ。
―――しかし。
堪え難い吐き気に襲われて、鼻の上から覆った掌の下で食物を器に戻していた。体が完全に拒否している。
片倉と元就が見つめる前で政宗は、自分ではどうしようもないこの現象に固まったまま動けなくなった。一時的に体調が悪くなっただけだ、環境も悪い、おまけに疲れてもいる。だからこれは仕方ない事なのだ、そう自分を説得してみる。
虚しさに胸が蝕まれた。
ふん、と鼻先であしらって元就は視線を反らした。
「あの議員と同じ程度か、そなたの基礎体力は。我の足手まといとなるでないぞ」
人の神経を逆撫でする台詞に噛み付く気にもなれなかった。やはり、闇の賜物を得た体は普通の人間ではなくなっている。
「高山病かもしれません」と言いながら、片倉は手にした器を傍らに置いた。
今正に最上がその兆候を見せて1人のシェルパと共に皆から離れた所で休んでいる。
「少しこの場から離れましょう。それから、気分が良くなるまで寝ずに深呼吸を繰り返す事、水分補給も十分に」
甲斐甲斐しい片倉の台詞を聞きながら、政宗は促されるままに立ち上がった。
夜中の寒風を避ける為、彼らはシェルパやヤクと共に崖の下の窪みに集まっていた。風通しの悪い場所に人間が密集すると、ただでさえ空気の薄い高所では容易に酸素不足になる。それに睡眠中は呼吸回数が減るので寝る事は高山病を悪化させる原因ともなる。そんな知識から来る言葉だった。
元就はそれを耳にして更に口元を歪めたが、背を向けていた政宗の関知する所ではない。ただ隣に寄り添って歩く神父を目だけで見上げ、問う。
「何で手前は飯が食えんだよ」
青年は、神父が地面に置いた器が空になっていたのを見た。吐くでもなく、捨てるでもなく彼は普通に食事していたのだ。
「長く生きてるとな、たまにはゲテモノでも食いたくなる」
男は低めた声を面白そうに歪ませて答えた。
「ゲテモノって…」
「無論、体が受け付けねえから後で吐くけどな」
「……バカじゃねえの…」
「人間の真似をしてみるのもなかなか楽しいもんだぞ」


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