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―記念文倉庫―
11
蒼白い、夜明け。
零下にまで気温が下がる町外れを、静かに貨物列車が通り過ぎて行く。その傍らに人知れずひっそりと駐車された車の窓ガラスは内部が結露していて、微かに滴を垂らしていた。
結局、互いの体が汗でどろどろになるまで交わっていた。
2人分の荒いだ息は、蒼白い光が黄色く色づいて行くのに連れて納まって行き、骨さえ蕩けさせる時間は音もなく引いた。
「……落ち着いたか…」
すっかり掠れ切った声に尋ねられ、小十郎はこれ以上ない程バツの悪い思いを味わった。
取り乱して怪我人である青年を容赦なく追い詰め、体だけは満足している己の業を思い知る。
「死んで…詫びたいくらいです……」青年の顔が見れず、男はそっぽ向いて殊更低く呟いた。
それに対して政宗はただ声もなく笑い、男の身体の上で身じろぎする。行為によるものだけではない怠さのせいでそれ以上動けなかった。
それにしても、本当にこの分じゃ数日動けないくらい求められる事だってありそうだ。どれ程愛されているか、どれ程自分に飢えているかが分かろうと言うものだ。
「俺が生きてる間は死ぬのは許さねえよ、You see?」
「―――承知致しました…」
青年が動けない事に気付いて、小十郎は車中に脱ぎ散らかした服を拾い上げた。埃を払い、力ない青年の身体に何とか着させる。
「貴方は輝宗様に良く似ておられる」不意にそんな言葉が溢れていた。
青年が俯せに男の胸に顔を埋めているのに、体が強張ると言うか、動きを止めたのを感じ取った。
彼が父と比べられる事を意識しているのは知っている。だが、これだけは言っておきたかった。もうあれだけ聞くに堪えない暴言を吐いているのだ、その裏側に脈々と流れるものをも彼に聞いて欲しいと切に願った。
「けれど、決定的に違う」
「…どう言う意味だ」
「貴方は偶像ではなく生身の人間だ。強くもあり弱くもあり、ちっぽけな人間なのに驚く程大きい。大空を天翔けているようで泥沼にもがき苦しんでもいる。高潔であり不浄であり、男でもあり女でもあり…」
「あ〜もう、それってつまりどう言う事だよ?!」
「貴方ご自身が先程仰った事ですよ」
「そうだっけ?」
「世界は貴方の中にある」
「ああ……」

「そして、"ありすぎて、何もない"」

「―――――」
その時青年の心に去来したものは何だったろうか。
かつて自分が言った言葉を覚えているだろうか。そしてそれをこの男が一字一句余さず胸の裡に刻み付けていた事に何を思うだろう。
「貴方は貴方だ、他の何者でもない」
最後に男はそう言い、政宗は深い溜め息を吐きつつ顔を男の胸の上に寝かせた。
「上手く言いくるめられた気分だ…」



車は再び荒野を駆け出した。
灰色の町並み、赤茶け痩せた大地、地を這う乾いた草木、色褪せた人々―――それらの間を唯一の意志を持つもののように、砂埃を立ててポンコツ日本車は行く。
酷く揺れるその車中で、政宗は正体もなく眠りこけた。
その額に手をやれば酷い熱だと分かる。
左目の傷が瞼の下で膿んで発熱しているのかも知れない。もっと悪くしたら、破傷風の恐れも―――。
小十郎は己の愚かさを呪った。
その浅はかさを罵った。
傷付け、失ってまでも欲しがるものとは一体何なのだ。
それこそ、混沌だ。
矛盾している。
自分でもそれは良く分かっている。

12時間を走り詰めて、スホボドヌイの町に到着した。
青息吐息でありながらボロボロの日本車はよく頑張った。しかも車種は乗用車で、4WDでもなければパリ・ダカやル・マンなどを想定されて製造された訳でもない。
さすが技術大国日本である。あるいは、余程運が良かったのか。
その町で給油するのに残りの金を使い果たした。
食糧は黒パン2切れにキャビアの瓶詰めが半分程。とは言えスホボドヌイの町からはアムール川の河畔に形成された平地となり、気温の変化も落ち着いた。緯度で言うなら北海道より北、オホーツクの海とサハリン北部に当たるが、5月に近いこの時期なら雪に閉ざされる心配もない。
小十郎は残り僅かな水に口を着け、一時休息の場と決めた町外れの畑の傍らで仮眠を取った。
ハバロフスクまで直線距離にして、500kmまで迫っていた。



「行くよ、秀吉」
そう言って青年は身一つでソファから立ち上がった。
昼下がりの午後紅茶を2人でひっそりと楽しんでいた所だ。そこへ、重厚な扉をノックしてやって来た黒服の男が、報告した内容に半兵衛は表情を無くした。それが立ち去った後の事だ。
ロシア国内、特にイルクーツクから東側の極東地域に大小合わせて50程もある空港に配置したロシア兵の情報から、伊達の者たちがハバロフスクに到着しそうだと言う事が分かった。
そんなギリギリまで見つけられなかったとは。青白い青年の語らない横顔がそう嘯いているようだった。
ともあれ、ハバロフスク空港が最後の牙城となる。
「無茶はするな、半兵衛」
ソファの上から眺める秀吉は静かに言う。
それに対して青年は薄く笑う、「終わらせに行くんだ」と。
彼の白いスーツのポケットの中には、最後の駒が忍ばされていた。それはクィーンやキングを出すまでもなく、彼は彼自身の言葉通り終わらせるつもりだった。



青い屋根が特徴のハバロフスク空港は、ロシア国内の他のどの空港よりも近代化が進み、広々として清潔感に溢れていた。
街は古い石造りのものが多く歴史を感じさせるが、人々に活気があり、交通量も多く大型バスが次々と道を行き交った。それまでの荒廃と貧困に喘ぐ村々や小さな町とは打って変わった都会の有様を呈している。
空港の就航数も多く、小型のセスナ機を中心に絶え間なく飛行機は飛び立ち、又降り立った。
そうして文明の明るい灯火に賑わう都市を行けば、ほっと胸を撫で下ろし、心を浮き立たせる所だろう。だがロシア最後の空港であるとすれば、半兵衛の遣わせたロシア兵らの警戒が最も厳重であろう事は容易に予想出来た。
別行動を取り、チタから一度イルクーツクへ飛び、そこからハバロフスクへと回り道した成実と綱元がその警備の網をすり抜けられたかどうか、確認のしようもない。
むしろ己自身の身の安全が確保出来るかどうかが当面の問題だった。

空港の駐車場に車を乗り捨て、その青い屋根の建物の前に立った時、見掛け上は全く普段通りに見えた。
ロシア兵の姿もない。
小十郎が危惧する所を政宗にも分かり切っていた。だが、ずっと両目を覆われた青年は肌で辺りの気配を感じ、当たり前に人々が行き交う様を想像して口の端を歪めた。
「行こうぜ、進むしか俺たちに道はない」
「そうですね」
2人は荷物一つない状態で空港の中に踏み込んだ。

滑走路自体もだだっ広かったがチェックインカウンターの中もやはり広大だ。何列ものベンチが並び、そこを雑多な種類の人々が行き交う。大きく開かれた窓から差し込む午前の光の中には、そろそろとすすむ小型飛行機や送迎バス、移動タラップが小さく見えた。
「政宗様」と小十郎が主人を小さく呼び止めた。
彼の肘辺りを掴んで歩いていた政宗は、彼が立ち止まったのに合わせて足を停めた。呼ばれて顔を上げ、彼が声を放った方へ顔を向ける。
何も見える訳がなかったが、布越しに微かに光を感じる左目がそちらに光源があるのを政宗に教えた。
小十郎がゆっくり歩き出したのは、それまで向かっていたカウンター前ではなく、ベンチの並んだフロアの壁面の方向だ。そこは全面ガラス張りになっていて、西側の滑走路が見渡せる。
そこに、シルエットとなっている細い人影があった。
静かだが強い眼差しは直ぐに判別出来た。
シルエットも仕立ての良い白いスーツとなり、挿し色である上品な紫のハンカチが胸ポケットから覗いている。
竹中半兵衛だった。
片手を白いスラックスのポケットに突っ込んで、伊達主従を今振り向いた形でこちらを見ている。その表情に感情の色は窺われず、2人を交互に見やって、やがて両目を木綿の布で覆った青年の上に落ち着いた。
政宗たちは彼の前に立った。
「良くここまで逃げ切ったね」と半兵衛はまるで長年の友人のように言った。
「お陰で楽しいシベリア旅行が出来たぜ」
政宗の返しに半兵衛は苦笑するのみだ。
「で?ロシア兵をわんさか連れて俺たちも連行してこうってのか。成実や綱元は無事なんだろうな?」
畳み掛けるような政宗の言に、斜を向いた半兵衛の顔が僅かに強張る。
「そうするつもりだったんだけどね…」
「…つもりだった?」
眼を布で覆った状態で政宗は顔を上げた。
その耳に音高く鳴るヒールの規則的な足音が響く。そしてそれは徐々に近付き、真っ直ぐ政宗たちを目指している事を青年に教えた。
小十郎はその姿を見て唖然として眼と口を開いた。その唇が動いて呟く、「喜多…姉さん……」と。
豊かな黒髪をアップにして纏め、黒いタイトスカートのスーツに身を包み、何処かの大企業の社長秘書と言った姿で決めた女性が、政宗の隣に立ち止まった。
「政宗様、小十郎…お帰りなさい」
「喜多、お前…」
半兵衛の手の者に攫われたんじゃないのか、と続く言葉を更に複数の足音と半兵衛の声が遮った。
「全く、大した女傑だよ。君の身内は」
「宇都宮まで連れて行かれた所を俺たちでお助けしたんすよ!」
後の方の台詞は喜多の背後に後からやって来た男たちの一人が上げたものだった。
「その声は文七郎か」と政宗は呟いた。
「俺たちもいます!」
「筆頭!大丈夫すか?!」
佐馬助と孫兵衛の声もした。
思わず口の端が歪んだ。
「一人でも逃げ切れる自信はあったのだけれど…まあ、余計な事をしなくて却って良かったかも」
女傑は不適に微笑んで、不適な言を言い放った。そして青年の顔を覗き込む。片手が挙がって、木綿の布の上に掛かった前髪をそっと掻き上げた。
「政宗様…お痛ましい―――。直ぐに手術の用意をさせますわ…」
そうして、忘れ去られそうになっていた小奇麗な顔の青年を睨みつける。
「もう手出しはさせない」
彼女の背後でも文七郎たちがガンを飛ばしている。それらを呆然と眺めていた小十郎はさてどう出るか、と蒼白い青年を顧みた。
ふふ、と半兵衛は声を出して笑った。
「僕が彼らを見つけるより早く確保するとはね…」
そうして呟いた声にはさすがに隠し切れない苦渋が滲んでいた。

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