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―記念文倉庫―
10
その日の午後、政宗と小十郎は古ぼけた日本車を東へ向けて走らせていた。
チタから約200km程のネルチンスクは先程通り過ぎた。横転した貨物列車をその目にする事はなかったが、寂れた鉱山町は脇目に走った。
アムール川の支流に沿い、シベリア鉄道とほぼ同じ道程を辿る一本道は正に悪路だった。山間に引かれたその道は、時折大型のタンクローリーや木材を満載した大型トラックが行く以外、車影を見ない。勿論アスファルトで舗装されている訳でもない。荒々しい砂利道が延々続く。
遠く西北に見えているのはヤブロノイ山脈ののっぺりとした連なりだ。その足下には高山植物が短い命を謳歌する高地が延々と横たわる。その様は見知らぬ惑星に来てしまったようによそよそしい顔を見せていた。
ここは未だ内陸性の気温であり高地にありがちな気候で、朝晩の寒暖の差が激しく、真っ昼間は20度を超え湿度も厭になる程高かった。
その夜になる前に、チタからハバロフスクまでの中間地点であるノスコボロシノに到達してしまいたかった小十郎は、黙って車を走らせ続けた。
政宗が苦痛に耐える為、外界との接点を断ってしまうのは何度も目撃して来たものだ。馴れている、と思っていた。
だが、何時果てるとも知れない広大過ぎる土地と、退屈になる程起伏のおおらかな景色を一人無言で眺めていると、黒い澱のようなものが腹の底に溜まって行く厭な感覚に襲われる。

全ては、空港に現れたロシア兵の追求を逃れる為だった。
シベリア鉄道で彼らを見失った半兵衛は、ロシア各地に点在する空港―大小関わらずあらゆる場所―に探索の網を広げていた。日本人(多分中国や韓国なども含めたアジア人全般だ)に対する警戒を強めて、少しでも怪しいと思われた者は一度近くの駐屯地へ連行されるらしい。そこで身許がはっきりするまで留め置かれるのだ。15時間後のハバロフスク行きの便を待っている、そんな悠長な事はしていられなかった。

日本車は日本でほぼ廃車同然となったものをロシアが中古車として買い入れたものだったろう。走り出して間もなく、空調が壊れた。だから砂埃が入って来るにも拘らず窓を全開にした。生温い湿った風は不快以外の何ものでもなかったが、閉め切って蒸し風呂になるよりマシだった。

走り詰めて夕刻、地図にも乗ってないような小さな町で一度車を停めた。
油田開発の跡地に辛うじて残った町、と言うか集落にガソリンスタンドがないかと探して車を流し走らせた。
こんな小さな町でも人が住み、移動手段が必要である以上、やはり思った通り給油場はあった。当然のようにセルフサービスだ。しかもカードは使えないと来た。
小十郎は車中にあったラジオを、ガソリンスタンドの店番をしていた若者に差し出して何とか油を手に入れた。
ついでに、エレナとの会話でほんの少しだけ覚えたロシア語で食い物を買える所はないか聞いてみた。若者は、町の真ん中に行けばスーパーマーケットがあると教えてくれた。そこならカードも使えそうだ。
だが、そこへ行ってみると対面式の売り場ではレジもない、商品棚の前で客と店員が現金のやり取りをしていた。店内を見て回って困って駐車場に停めた車に戻った小十郎は、何かないかと探した。ふと、列車を降りる時に貰った布切れが車中の床に落ちているのを見つけた。病院までの分かりずらい地図が書かれたものだ。
不便ではあったが、エレナが何くれとなく世話をしてくれて快適だったシベリア横断鉄道の旅が懐かしく思い出される。あれから未だ二日と経っていない事が信じられなかった。ずいぶん遠くへ来てしまったと思った。
運転席に座って人形のように身じろぎ一つしない政宗を一瞥してから、手の中の布を所在なさげに玩んだ。その感触に違和感を覚える。
出稼ぎに出て来る貧しい農村のアジア人は、現金を肌身離さず持っている為に紙幣や硬貨を着ているものに直接縫い込んでいたりするのだと聞いた事がある。小十郎が手にした晒しにも、紙幣が何枚か縫い込まれていた。こんな所でまで彼らの援助の手に救われるとは、と思ってそれを有り難く取り出した。
スーパーで黒パンを一斤とキャビアの瓶詰めに鰈の塩漬け、バターやチーズなどを買った。それからビールと水も。
再び車に戻ると政宗がシートの上で踞っていた。
その体を起こし、残り少なくなった鎮痛剤と解熱剤を水で飲ませる。片手で抱えた身体はそれと分かる程熱く、かなりの高熱があるようだった。
「政宗様、食事は出来ますか?」
「……いらね、戻しそうだ」
「―――…」
車での移動が始まってから、ずっとこんな調子だ。小十郎は少し考え、それからビールの栓をピンナイフの柄で叩いて開けた。
「ビールか…ちょっともらおうか」
アルコールはある意味痛み止めの効果を狙って購入したものだ。それが分かっていたのか政宗は苦しげに体勢を変えながら、小十郎の手からビールを受け取った。
ビールはそこそこ冷えていて、熱のある政宗にとっては正に甘露だった。一気に半分以上を呑み干し、彼は深い深い溜め息を吐いた。小十郎は青年の両目を覆う木綿の布の上に手を置いた。そのまま、気持ちを落ち着かせる為の深呼吸をするのを黙って聞く。
「…お前は食っとけよ、いざって時に俺を助けるのに体が動かないんじゃ笑い話にもならねえからな……」
そう、おどけて言う声は痛ましくも嗄れていた。



夜になり、目的地であるノスコボロシの町に着いた。
夕刻に給油した名も知らぬ町よりは幾分か大きく、5〜6階建てのマンションが幾分か密集して建っていた。それでも古ぼけて傷んだ壁の連なりは、小十郎を陰鬱な気分にさせるのに十分だった。
シベリア鉄道の停車駅でもあったので活気はある。ロシア正教の場違いに美しく真新しい教会もあった。
小十郎はそうした街中は避け、ノスコボロシ駅の廃車両脇に車を停めてそこを今夜の宿にした。

時折、貨物列車がやって来た。
重量のせいか時速10〜15km程の徐行スピードで通り過ぎて行く。街灯もない、駅の敷地を町の人たちも自由に行き来するような線路の上だ。その車輪が立てる規則的な音を小十郎は闇の中、聞いていた。
不意にどさりと身体の上に体重を掛けられた。
シートを倒していたので自然、青年の身体は小十郎を跨ぐような形になる。
請われるままに唇での愛撫を返した。ずり落ちそうになる身体を支え、その細腰をしっかり抱き寄せた。
「……良かった、…お前いた…」
か細い声で囁かれて笑気が立ち昇る。
「小十郎はずっと貴方のお側にいます、貴方がいなくなっても…」
「悪ィ…どうも気が散じまうんだ」
「大丈夫ですよ」
唇を合わせながら二言三言、言葉を交わした。
キスを拒んでいた時期はとっくに走り去っていた。後は互いの体の熱を高め合うだけ、そんな既成事実がもはや2人の間には成立していた。だが、政宗の体を思えばこれ以上は進ませられなかった。小十郎は青年の頭を引き寄せ、自分の首筋に押し付けた。
「寝て下さい、まだあと半分はある…」
静かに深く囁いてやった。
政宗は微かに唸りながら息を吐いた。
暫時沈黙が落ちる。
「―――お前、何苛立ってんだ?」
不意に問い掛けられた言葉には直ぐに返答出来なかった。苛立ってる?俺が?一体何処からそんな疑問が湧いたのか、小十郎には分からなかった。
「小十郎は苛立ってなんかおりませんよ」
そう言った端で青年が手を伸ばして来て、掌で小十郎の両目を覆った。
「嘘だ」
やけにはっきりと断言してくれる。
「―――…」
「言えよ、今しかきっと言えねえ事なんだろ」
食い下がる青年に対して男は言った。

「このまま2人で雲隠れ、ってのはどうです?」

青年は反応しない。闇に向かって暴言を吐いているような気がした。後で冗談だと言って笑えば良い、そんな気軽さで小十郎は言葉を継いだ。
「半兵衛の追求を振り切って、日本も、伊達家も、何もかも放り出してこのまま2人きり、見知らぬ土地へ行く…楽しそうじゃありませんか?」
政宗は明かり一つない車内で、男の首筋から顔を持ち上げた。その両目を覆っていた手を滑らせて、彼の薄い唇に添える。
「俺は貴方だけを見ていましょう。貴方だけを愛して、貴方だけを甘やかして何一つ、…辛い事は何一つ寄せ付けない。そんな冗談みたいな事が現実に起こるかも知れない、そう思った事は?」
青年の両手が男の頬を、髪を撫で付けた。見えない中に小十郎の本心を探ろうとしているみたいだった。今の台詞は普段の彼からは余りに掛け離れ過ぎていて、何処に行き着くのか見当もつかなかった。
「生憎、そんなの考えた事もねえよ」
「でしょうね」
「………」
冷たい言葉だった。
やはり小十郎は冷ややかに苛立っている。
政宗は男の右目に口付けた。そうして舌先を瞼の中に割り入れる。
「…良い子だ、小十郎…ごめんな……」
やがて呟いたのは謝罪の言葉で。
小十郎は唐突に胸を圧するものに押されて青年の身体を掻き抱いた。

「それが叶わぬのなら俺を求めるな…非道い、拷問だ―――!」

シー、シー、と静かに息を吐き出し、声も涙もなく泣く男を政宗は静かに宥める。もはやどちらが年上で、どちらが庇護者か分からなかった。
「ごめんな小十郎、大丈夫だ。大丈夫だから…」
まるで駄々っ子のように体に抱きつく男に対して、政宗は根気強く呟き続けた。この13年間で初めて見せた男の弱音だった。それを全て受け取るつもりだった、今まで自分の何もかもを受け止めてくれた彼のように。
「なあ、見ろよ…」
この闇の中、何を見ろと言うのか政宗は顔を上げて耳を澄ませた。
「―――ツンドラを渡る風にも、太平洋の荒波を行く風の中にも、草っ原を濡らす露の中にも、道端の石っころにも、…日本海を越してやって来る渡り鳥にも俺はいるから…大丈夫だ」
「…また貴方は…果てしない事を……」
「だって感じるんだよ。世界は俺の中にある、勿論お前の中にも」
そんな形而上学の夢物語など小十郎には何の意味もなかった。今この体が感じる感触と、温度だ。それが最も重要なのだ。
「俺はただ…貴方の眼が見えなくなったら……もし、貴方が死んでしまったりしたら―――俺は」
未だ何かを言い掛けた唇を唇で覆ってしまった。
そうであっても政宗は世界であり、世界は政宗だった。
そこにあるものを全て、愛している。
「…ああ、大丈夫だ。それでもお前は生きて行ける…」
微かに呟いて、何度も唇を重ねた。
男の眦から滴る温かいものも吸い上げた。その不安と闇とを一緒に吸い上げてしまうように。
「だからお前は、俺を求めても良い」
語る青年の唇を、小十郎のそれがもどかしげに追った。
「俺もお前を求める…」
自然と昂る気持ちに言葉も途切れがちになる。
「だから―――」

もう、拷問じゃないだろう?

小十郎は歯を食い縛って、ただただその愛しい体を抱き締めた。

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