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―記念文倉庫―

車掌室に戻るとベッドの上に身を起こした綱元に寄り添って、成実が作り立てのミートローフを食べさせていた。
「綱元さん、気分はどうですか?」
ベッドの縁に腰掛けながら小十郎が問い掛けると、面窶れした男が苦笑した。
「寝過ぎて目玉が蕩けそうだ」
無精髭は丁寧に剃られていた。
何時もは面倒を見られる側の成実が慣れないまでも、あれこれとなく世話をしているからだ。自分もしっかりしなければ、と言う健気なまでの思いが見るからに彼から溢れている。
「せめて抗生物質があれば良いのですが…」
「体力がある内は闘える…病とだけだがな。すまん小十郎」
「何を仰るんです。弱気になるなんて、綱元さんらしくない」
言って、小十郎の手が綱元の腕を二度三度と軽く叩いた。
恐らく軽口を叩く言葉とは裏腹に、病状は悪いのだろう。弱気にもなる筈だ。
「つなもっちゃんにバイカル湖で釣り教えてもらおうと思ってたのにな」
スプーンに掬ったあつあつのミートローフに息を吹きかけながら成実が唇を尖らせる。確かに今ならバイカル湖もその湖水を溶かしている事だろう。琵琶湖の凡そ46倍の広さを持つ広大な湖を、クルージングする事もフィッシングを楽しむ事も可能だ。勿論、こんな状況でなければ大陸横断の旅程の全てを成実は楽しんだだろう。
「また来りゃ良いさ、先は長い」



列車はチェメン、オムスク、ノボシビルスクと順調に東行し、西シベリア低地を抜けて山岳地帯に入った。
アチンスク、クラスノヤルスク、タイシュトなどの小さな町々を通り抜けた。成実がひっそり楽しみにしていたバイカル湖畔の停車駅イルクーツクを過ぎれば、モンゴルと国境を接した険しい山々の間を走り抜ける旅程に変わる。
終着駅のハバロフスク駅まであと2日と言う距離を走破した事になる。
それが、チタ駅でやたらと長い停車時間を見た。
車掌室に閉じ篭っている政宗たちには、外へ出て行ってしまったヘレナが戻って来るまで状況は分からない。車窓から外を覗く訳にも行かなかった。
時間は昼過ぎだ。外にはチタの駅舎と、プラットホームに他線の電気機関車が停車している筈だ。
まんじりともせず待つ事30分、エレナが戻って来た。
彼女は疲れ切った表情で起こった事態をたどたどしい英語で説明した。それによると、どうやらこの先のネルチンスク手前の線路で貨物列車(亜鉛や鉄を乗せて大陸を横断している)が横転、立ち往生しているのだと言う。
竹中半兵衛の策か、とも思ったが、老朽化の著しい車両が起こしたただの事故らしい。
大陸間を走る物流の大動脈が中断されて困る国々は多数に昇る。早急な事故対策が叫ばれているが、山岳地帯での事故なので処理するのに数日から1週間は掛かるだろう、と言うのが正直な所だった。
目的地まで後40時間と言う距離まで来て、飛んだ足止めを喰らう事になった。
「Possiby…you had better go from Kadara Airport of Chita to Khabarovsk.(もしかしたら、チタのカダラ空港からハバロフスクへ行った方が良いかも知れない)」
エレナはそう言った。
極東アジアの小ハブ空港としての機能を持つハバロフスクとウラジオストクでは、ヤクーツク、アルダン、オホーツク、チタ、ユジノサハリンスクなどへの空路が開けていると言う。ただ、その就航数は余り多くなく、10時間や20時間は平気で待たされる事もある。チタはその中でも小さな町だったし、週に運ばれる人数はと言えば300人に満たない。
あるいはチタから一度イルクーツクへ戻って、そこからハバロフスクを目指すと言う遠回りをした方が時間的に言って早いとも彼女は言った。
いずれにせよ、ここが決断のしどころだ。
「チタに病院はあるか?」と政宗はエレナの話を聞き終わってから尋ねた。
それなりのものが、と言うのがエレナの返事だった。
ロシア語しか通じないし、医療機器の老朽化と不備は言うまでもなく、衛生上にも問題があり、医薬品の不足にも慢性的に悩ませられている、ロシア国内小都市のありきたりな病院だ。
「それでも、ないよりかはマシだ。移動する」



列車から他の乗客に紛れて降りる際、チタ市内に詳しいと言うアジア人に近くの病院までの地図を貰った。使い古された晒しに墨書きされたそれは分かりにくかったが、小十郎は有り難く受け取った。
長期停車を聞かされた乗客の多くがプラットホームに出ていた。
中にはやはり別の交通手段を取る事を選んだ者もいて、チタ駅から路線バスに乗り込む姿もちらほら見掛けられた。
小十郎は、駅の近くに路駐してあった古びた日本車を傷一つ付ける事なく拝借して政宗を、続いて成実と綱元を乗せて発車させた。
病院へは夕方近くに到着した。
そこで小十郎は強盗まがいの仕儀を働いて何種類かの薬を調達して来た。抗生物質、解熱剤、栄養剤―――どれも小都市では貴重なものだ。
だが、自分たちも生き延びなければならない。
夜は車中に一泊した。ホテルに泊まれるような身分ではなくなっていたからだ。綱元に出来るだけの処置をして、後は女車掌から貰ったパンとチーズ、水筒に入れた紅茶を飲んで凍える程の寒さの中、眠った。

開けて翌日、チタのカダラ空港に向かった。
シベリア鉄道で一度彼らを助けてくれたロシア人の劇団員に偽造パスポートを作成してもらっていたのでチケットは取れそうだったが、ここでも思った通りには事は運ばなかった。
イルクーツク行きが満席でキャンセル待ち、ハバロフスク行きは今日は夜の就航のみだと言う。15時間待つ事になる。

彼らは閑散としたロビーで疲れ切った体をベンチに沈めた。
移動した事で政宗の眼の傷が開いたようだった。彼はベンチに座るなり体を丸めた。抑えた木綿の布には薄っすらと血が滲んでいる。一方綱元はふらふらで、まるで雲の上を歩いてるみたいだ、などとおどけた。言葉とは裏腹に酷い脂汗を掻いているのが痛ましい程だ。
そんな彼らの元へ、チケットを発券していた女係員が歩み寄って来た。
「YA poluchayu nomer nadvoih, Hoteli by vy kto?」
ロシア語が分からず、ジェスチャーでやり取りする事十数分、2人分のキャンセルが出たらしいと分かった。どうする、と女係員は重ねて尋ねる。
「小十郎、綱元を連れて行け、…とっとと日本に帰すんだ」
俯きながら政宗が言うのに、小十郎がうんと言う筈がなかった。綱元自身も「政宗様が行くべきです。伊達は貴方が引っ張ってかなきゃならない」と言って譲らなかった。
「俺のは命に別状はねえ怪我だ。けど、お前は死にそうじゃねえか」
「しかし…それでも…!」
「ああ、分かってるよ。でもこれは伊達家筆頭としての命令だ、行け」
「政宗様…!」
何やら揉め出したジャパニーズから離れて行こうとした女係員を、小十郎が呼び止めた。そして自分のキャッシュカードを差し出しつつ2人分のチケットを要求する。
「成実、お前も一緒に行け」
立ち去る係員の背中をちょっと見送ってから、振り向いた男は言った。
「政宗様をお前に任せるにゃ心許ない。だが、お前が責任もって綱元さんを日本まで連れてくんだ、いいな?」
有無を言わさぬ強い口調だった。小十郎の決意の程が知れようと言うものだ、成実は言葉もなく頷いた。
「それじゃ、綱元さん。俺たちは今夜の便でハバロフスクに向かいます…どっちが先に着くか競争ですね」
真っ向から見つめる小十郎に対して、綱元は霞む眼を擦りつつ苦笑した。
「遊びじゃねえんだ、バカヤロウ…」
女係員がチケットを持って戻って来た。搭乗口はここから階段を登って2階、右手奥になると又してもジェスチャーで説明してくれた。
成実が、綱元に肩を貸しながら立ち上がった。
「…じゃ、政宗…ハバロフスクでな」
「ああ、綱元を放っぽり出して逃げるなよ」
「誰が逃げるかっての!」
常の通り威勢の良い声が帰って来て、政宗は声を立てて笑った。
「政宗様…すんません……」
そして綱元はこの旅何度目かに政宗に頭を下げた。政宗はそれに手を挙げて応える。
それから綱元は小十郎を振り向き、ダッフルコートの中から取り出した拳銃を掌に隠して差し出した。
「後は任せた」
その言葉と、ずっしりと重い「グラッチ」を受け取って小十郎は頷いた。
「わかりました、お気をつけて…」
2人が立ち去って行くのを小十郎は何時までも見送っていた。しかし、政宗はベンチに踞ったまま、そちらへは一瞥もくれない。やはり相当傷が痛むのだろう。ウォッカで何度も消毒し、病院から奪った鎮痛剤や解毒剤を飲ませたが、外科的処置が早急に必要なのは分かり切っていた。
痛いか、大丈夫か、などと言った陳腐な台詞は吐ける訳もなく、小十郎はただ落ち着かなげにベンチの傍らに突っ立ったままでいた。
政宗は痛みから少しでも遠離る為、自我を手放した状態に入ろうとしていたのでそんな小十郎を気遣う余裕はなかった。
あと15時間。
とてつもなく長い時間が2人の前に横たわっていた。



早朝の清々しい光を一身に浴びながら、2人はテラスで朝食を摂った。
今日、秀吉はグループの役員会議に一人で出席する予定だ。一方、半兵衛の方は商業組合の会合で話し合われる問題への意見交換の場に出る。彼らがこうして別行動を取る事は珍しくなかった。
「手こずっているようだな」
責めるでもなく、ありのままを告げる口調で男は小さく言った。
「まあね」応える青年は自嘲の笑み。
「今はとにかく人手が要る。昔ながらの人海戦術だよ。幸い、この国には大量のロシア兵がいる。彼らには体を使ってもらうよ、存分にね」
シベリア鉄道で伊達の一行を見つけられなかったロシア兵に、半兵衛は人知れず苛立っていた。人探しすらまともに出来ないのであれば、大量に投入して逃げ惑う彼らを追い詰める猟犬になってもらう、そうした薄ら寒い考えが透けて見えていた。
「もう良いではないか。政府も軍事予算を割いて数人の日本人を追う事に疑問を持ち始めている。奴らにも俺たちの恐ろしさは分かった筈だ、骨身に沁みて」
「彼らは徹底的に潰しておく必要がある」
頑迷、とまで言える口調で半兵衛は言い放ち、コーヒーカップを置いた。
「何故だ」
心底不思議そうに秀吉は問うた。
「―――…」
戸惑いがちに視線が流れ、半兵衛は早朝の朝靄に煙る運河を顧みた。その口から吐き出される吐息は未だ白い。
「…秀吉、君だから言うよ…僕は彼らを恐れているのかも知れない」
己の片腕の思わぬ告白に、むくつけき男は軽く眼を見開いた。青年の口から弱音の類いを聞くのは初めてだったのだ。
「その感じは日増しに募って行くようだ。早く潰さなければ、と思いながら彼らは僕の策からギリギリの所ですり抜けて行く、その度にね。正直こんな感覚は初めてなんだ、それが未だ形を成さない不安である内にどうしても彼らを消してしまいたい…」
「それ程までに…?」
「秀吉、君は感じないだろうか?時折、世界を非道く穏やかな視線で眺め下ろすものの気配を。まるでそれは神気取りだ。僕は自分が俯瞰するのは好きだけど、されるのは好きじゃない。忌々しい存在だよ。もし万が一神と言うものが存在するのであれば、僕はそれを突き破りたい。僕が動かされざる動かし手である為に」
今度は秀吉が沈黙する番だった。
知略を尽くして状況を操作する、その立場にある彼にとっては運を天に任せる、などと言う曖昧な考えはそもそも存在すらしないのだろう。カジノのルーレーット、そのディーラーですら統計と経験に偶然を掛け合わせて数字を読み、操作する。
それらの"遊び"や"不確定要素"を一切許さない潔癖さだ。
「余り根を詰めるな」
最終的に秀吉の口から溢れるのは、半兵衛に対する気遣いだけだ。
彼には半兵衛が己の寿命を削りながら神との駆け引きをしているようにすら見えた。だが、秀吉の心配を他所に、青年は微かに華のように笑んでみせる。
「大丈夫だよ、秀吉。間もなく決着は着くだろうから」
そう言って彼は食事もそこそこにテーブルから立った。
地図はないが、テーブルの上にナイトの駒を幾つも散らしつつ。

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