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―記念文倉庫―

草原の若草が忽ちの内に立ち枯れ、ツンドラの大地が再び凍り付く。
針葉樹ですら育たない大地は正に荒野、唯一立ち竦むのは白く頼りない送電線の柱の連なりだけだった。
人の作り出した物がか弱くも大自然に立ち向かう姿だ。
そして、言葉もなく騒ぐのはびょうびょうと吹き荒ぶ風のみ。
政宗はそのど真ん中に一人立っていた。
シベリア横断鉄道の姿も影もない。一緒にいた小十郎も成実も綱元も、いない。
ただ、独りきりだ。
彼らを呼んだ。呼んだ筈の自分の声すら、風に掻き消される。
何も聞こえない。
独りなのだ、と思った。
視界の及ぶ所360度全てが全部同じ光景であり、分厚い雲に覆われた空はそれなりに明るかったが、太陽の位置さえ掴めない。
時間経過すら、分からない。
永遠にこのままのような気がした。
政宗は空を睨み上げた。
何も見えない。
結局、辺りの光景は彼の中にある記憶、イメージ(幻想)でしかないのだ。
頬に当たる風だけがリアリティ。

ふと、自分の身が軽くなった。

己を虚しくして、空っぽにして、気薄にして行く。
雲を突き抜ける程の孤高と孤独だ。その中に一切合切の想いや感情が包括されて、とてもとても小さなものになる。
自分と言うものが消えた時、そこにあるのは顔も名前も知らぬ人々の抱く感情だった。怒り、不安、憤り、悲しみ、それらを政宗は何より愛した。
あるがままに、全てあるがままに。
現実逃避だと思わないでもない。
だが、眼を背けたくなる程醜い感情も、ちっぽけな願いも、我が侭な愛も、そこでは全て愛おしいものだった。死も生も越えて、時代を超えて国境を越え、人種や言語の壁も全て飛び越えて政宗の中に内包される。

愛している、と思った。

道端に転がる石も、腐肉を漁る野犬も、自分たちを今正に追い詰めんとしている蒼白い顔の青年ですらも、全て―――。



列車がカーブに入り、車体がゆっくりと傾いで政宗は覚醒した。
身じろぎし、意図せず漏らした自分の声に意識がはっきりして来る。何時の間に眠ってしまったのだろう、と辺りを見渡そうとしてそれが適わないのを知る。そして左目に走る激痛だ。そうだ、思い出した。列車に兵士が乗り込んで来て、3等車の乗客らと共に大芝居を一つ打って、それから。
「政宗様」
低い男の声が側近くでして体を起こされた。そして手を持ち上げられて冷んやりとしたグラスを握らされる。呷った水は乾き切った体に音を立てて吸い込まれて行った。
「政宗、顔とか体とか拭きたいだろ?俺、タオル濡らして来る」
こちらはちょっと離れた所から従兄弟の声がして、慌ただしく扉を開けて出て行ってしまった。
自分が床に座り込んでいる事、そして列車の音の響き方からして、彼らが車掌室に戻って来ているのを政宗に教えた。
「他の乗客には迷惑かけなかったか?」
意識が途切れる前に確認しておきたかった事を、政宗は今問うた。だが返事はない。
気配は直ぐ側に男が跪いている事を指し示していると言うのに、その男は黙ったままだ。訝しがって、顔をそちらに振り向ける。
「小十郎?」
「皆、何事もなく」何かを堪えているような声で男はようやく応えた。
そして大きな掌で頬を覆われた。その手も何故か微かに震えている。
政宗はふ、と鼻から息を吐き出した。
「この世の終わりみてえな面してやがんだろ、小十郎?」
「…貴方の眼が完全に、見えなく、なったら―――」
途切れがちの声は、驚いた事に男が泣いている事を政宗に教えて思わず言葉を失った。
コンパートメントで、他の乗客らの真ん中で、気を失った政宗を抱えた小十郎と成実は言葉にできない程動揺した。それを政宗は知らなかったが、何となく彼の元へ落ちて行くような気がした。
霧散した雲が寄り集まって、降らせた雨の滴が昏い淵に流れ集まって来るように。何時も自分はこの男の所へ戻って来る、とそんな気がした。
「眼が見えなくたって、手足をもがれたって、生きてる。俺は生きてる」
そんな相手に更に染み込ませるように政宗は静かに呟いた。
じわ、とそれは確かに男の胸に染み渡った。
扉が開いて成実が戻って来るのと入れ違いに、小十郎は車掌室を出て行った。



定期的に列車内を見回りに出ていたエレナが、デッキの割れた窓ガラス前に佇む男を見つけた。
手にはインスタントと思しきミートローフの器ととミルクの入ったコップを乗せたトレイを持っている。病人にはパンやインスタントラーメンよりもこちらの方が良いだろう。何処から手に入れたのか知らないが、彼女にはし尽くせぬ感謝が絶えなかった。
「…They had better…a docter examine it…. Even as for the Russian…….」
ロシアの医師の問題に眼を閉じても、その診察を受けた方が良いと女は言った。それは分かっている。だが、そうなるとこの列車は降りねばならない。次の移動手段は何になるのか、流石の小十郎にも皆目見当がつかず途方に暮れた。
「We arrive at the next station.…in 30 minutes more.」
次の駅は30分程で到着すると言う。それだけ最後に言って、立ち去ろうとしたエレナを小十郎は呼び止めた。
「Miss Elinor, Where did you learn English?」
「―――…」
この問いに、彼女は悪戯っぽく笑んで見せた。それだけだ。
返事はなく、冷めないようにと粗末なアルミ製の食器とカップを持って女車掌は男に背を向ける。その彼女の眼が、前方から壁伝いに歩いて来る一人の青年を見つけた。デッキを区切る扉の窓から見ていると、廊下に踞る人々が彼を黙って避けていた。誰も文句は言わない。
そしてエレナは、彼の伸ばした手の先がぶつかる前に、その扉を片手で開けてやった。
政宗が通り抜けるのと入れ違いに客車へと姿を消すエレナと一瞬、視線が絡み合った。そこにはある種の同情?微笑み?
ともかく、複雑な色と影が垣間見えて小十郎は戸惑いがちに、ゆっくり歩いて来た青年の肩に手を追いた。
「これからの事を話しておこうって思ったのに…お前何時の間にかいなくなってるし…。成実に体中ごしごしやられて、皮が剥けるかと思ったぜ。奴のは力任せ過ぎる」
殊更明るく、おどけて見せる青年に言い返す言葉もない。
「…何か言えよ…独り言言ってるみてえじゃんか」
「申し訳ありません…」
列車が揺れて、よろけた青年を小十郎はその腕を引いて支えた。
政宗は顔を上げ、男の顔がある辺りを顧みる。そうして自分の腕を掴む手に手を重ねた。
「日本に戻って落ち着いたら、いっぱいエッチしようぜ、小十郎」
「……な…」余りに露骨な物言いに小十郎は絶句した。
と言うか、その突飛な提案に、か。
「あんまり身近に居過ぎて分かんねえんだよ俺、お前が好きなのかどうか。…や、好きっちゃ好きだけどよ…そう言う意味の方かって事だな。だから厭って言う程して、その後でも未だお前の事好きだったら―――きっと、そうだ。そう自信持てると思う」
「…………」なかなか返事が出来ない。何て言えば良いんだ。
「どうよ?」
更に突っ込まれて、見えもしないのに首を振った。
「そうでは…なかったら?」
「そりゃ、そん時は諦めてくれよ。厭って程した後なんだから」
あっけらかんと言い放つ、そんな青年に対して腹の底でくつり、と何かが蠢いた。
政宗にとってはやはり、ごく親しい身内のラインから越える事はないのだろう。自分は政宗だけ居さえすれば良いとまで思い詰めているのに、彼にとっては大事な人たちの内の一人に過ぎないのだ。そしてそれが正常なのだ。
「―――当分、動けないぐらいにして差し上げましょうか?」
苦痛を呑んで、そんな事を青年の耳に吹き込んでやる。
「それとも、俺以外では勃たない体に?」
眼の見えない青年にとって、それは脳天から背筋を通って腰にダイレクトに響いた。冗談めかしているが、本気がちらほら垣間見える。男のその心の奥底に潜む影がずるり、と体を這う。
「…やれるもんなら」
応えた声は僅かに掠れていた。
「約束、ですよ…」
声のない囁きで男は言った。



それからの数日は比較的穏やかに過ぎ去った。
ロシア政府によるダイヤ乱れも何とか解消されたようだ。それまで絶え間ない連絡事項に謀殺されていた車掌と運転手らも落ち着いた。
竹中半兵衛の追及の手は、シベリア横断鉄道で彼らを見つけられなかった事で目標を定められずに霧散したようだった。
後はこの列車に乗ってハバロフスク駅に到着したら新潟まで飛べば良い。
綱元に快復の兆しが見えず、時折り厭な咳をする事や、政宗の左目の消毒に使っていたウォッカが残り僅かになっている事を除けば、至ってのんびりとした列車旅行だった。

小十郎はトイレで髭を剃り、頭を洗った。
数日振りにさっぱりして顔を上げた所で、跳ねた髪の先から滴った水が首筋を伝って、思わず体が強張った。
「……?」
鏡に映しつつ、右側の首筋を指先で辿った。
そこには見事な歯形が残っていて。
淫らな姿で悶えた青年の姿が脳裏に蘇った。声を殺す為に自分の肩に顔を埋め、これでもかと言う程歯を立てた。
堪らない痴態だった。

もっと。

もっともっと追い詰めたい、と願う自分が居た。
鏡の中から燃えるような欲望を瞳の中に宿した男が、自分を見ていた。
「―――っ!」
別の面影がそれに重なり、思わず小十郎は鏡に濡れた手を突いた。
自分は今、あの男に成り代わろうとしている。
過去は繰り返される。
やられた事はやり返す、それが人間の心理だ。
だが、どうしてそれを実行出来よう。あの若者は真っ直ぐ前を向いて立っている。たった一人でも立ち続ける、そんな若者だ。自分と共に落ちる事など願う筈がなかった。
少し前にした"約束"も、平常通りの日々に戻った暁には果たされない事を小十郎は知っていた。

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あきゅろす。
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