列車が止まる振動に小十郎は眼を覚ました。
とっさに時計を見やると深夜の23時5分だった。部屋の中に車掌の姿はない。寝相を変えて2人の青年が未だ目の前で眠りを貪っていた。ベッドの上ではこちらに背を向け綱元が深く寝入っている。
夢の中で懐かしい面影を見た気がしたが、目覚めれば明らかな現実の続きだった。壁に背を付け不自然な体勢で眠りこけていた体が軋む。男は呻き声を漏らしながら身じろぎした。
その視線がふと上がり、横たわる青年の内一人が頭を擡げているのが見えた。隣に眠る成実を起こさぬようそっと毛布から抜け出し、呻き声の聞こえた方向へ四つん這いに這い寄って来る。位置がズレていたので小十郎は手を伸ばして青年の頬を引き寄せた。
引き寄せられるまま、顔を上げた青年の唇に軽く口付ける。
「ご気分は」
そう尋ねると「良く寝た」と言う、面白げな返事が返って来た。
今、彼の左目はタオルで覆われている。両目を塞がれガラスの破片が左の頬や顎に点々と赤い傷跡を残している。だが、半開きの口元からは表情を伺い知れない。
彼は小十郎の前に座り込み、タオルに手をやりつつ俯いた。そしてその口が動いて言う「不思議だな」と。
何がです、と尋ねるより前に車掌室の扉の鍵が開けられる音がした。
小十郎は立ち上がり、部屋に入って来たエレナを出迎えた。
「Thank you so….」
「Sluchilas beda!」言い掛けた小十郎の英語をエレナはロシア語で遮った。
「What's happen?」
「……A checkpoint…in Ekaterinburg…by the government」
小十郎の質問に何時も以上のカタコトでもどかしげに応えるエレナ。
政府によるチェックポイント―検問所だろうか―がエカテリングルク駅に設けられたらしい。
まさか…と小十郎は息を呑んだ。
ロシア連邦の中で人口の多さで言うと5番目の州都スヴルドロフスクのその町は、重工業都市としても交通の要所としても有名だった。そして又、アジアとヨーロッパの境界線としてその郊外に白いオベリスクが立てられている事でも知られていた。
「Now, Another train is have checked by Russian soldier.」
「―――…」
「They comes this train at soon….」
息せき切ったエレナの英語が畳み掛けるように小十郎を追い詰める。
まさかとは思うが、シュレメーチェヴォ国際空港で一度ロシア兵に追われている身としては楽観視は出来なかった。
「政宗様、成実と何処か安全な場所へ…」
言葉を投げ掛けられた政宗は、その場に座ったまま男を見上げた。
「綱元はどうすんだ」
「俺が連れて行きます」
「何処へ」
「………」
「列車が止まってんなら、ロシア兵の眼を盗んでエカテリングルクの町中に紛れ込んじまった方がいい。―――今は夜か?昼か?」
「…深夜の11時です…」
「なら、夜陰に紛れて駅を出る。デカイ町なんだろ?」
「…それは…そうですが……」
「迷ってる暇はねえ、綱元を担ぎ上げろ」
言うだけ言って、政宗は従兄弟を起こすべく毛布を手探りで辿った。
気怠げに上半身を起こした綱元に素早く事情を話す小十郎。それと成実の頬を抓って引き摺り起こそうとする政宗を見て、エレナは彼らがこれからどうするのかを悟った。その眼が見開かれ、だが何を言う事も出来ない。
シベリア横断鉄道の車掌として出来るのはここまでだ。いや、乗車券もパスポートもない彼らをそうと知っていて庇っただけでも規定違反になっていただろう。後は日本人に銃で脅された、とアエロエクスプレスの車掌のように言い逃れしてくれれば良いが。
「……Wait,…wait…!」
綱元を肩に担ぎ上げ歩き出した小十郎の腕にエレナは手を添えた。
―――無茶だ、と思った。
息の乱れや、なかなか下がらない発熱、それに時折零す非道い咳から肺炎かその一歩手前、とエレナは綱元の症状を見ていた。それをこの上深夜の町中に連れ出して逃げ回るなどと。
「Thank you so much, Miss Elinor. We don't forget favor that was papular with you throughout the life.(あなたのご恩は一生忘れない、ありがとうエレナ)」
少しだけ立ち止まって小十郎は早口に言い放った。エレナの視線が彼のそれから外されて、所在なく伏せられる。