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―記念文倉庫―

室内の明かりは落としてある。
窓の外では街灯の明かりが灯され、又水路を行く観光用の遊覧船が煌煌と窓から光を溢れさせていた。黒い水面がそれをちらちらと乱反射させて、夜だと言うのに文字が読めそうなぐらい辺りは明るかった。
大理石のテーブルの上には相変わらず大きな地図が広げられたままだ。だが、それを眺める人物は一人きり。
金属製の古い窓枠から漏れ入る蒼白い光に、細いシルエットとなって彼は俯いていた。視線の先には三つ目のチェスの駒が置かれていた。
場所はキーロフ、駒の種類はナイトだ。
シルエットの青年はそれを音もなく倒した。ナイトがその役割に失敗したのを知っていた。続いてその指が動いて置いたのは、ルーク(城)の駒だ。
地図の場所はスベルドロフスク州、ロマノフ王朝終焉の地、エカテリングルクだ。



列車が止まる振動に小十郎は眼を覚ました。
とっさに時計を見やると深夜の23時5分だった。部屋の中に車掌の姿はない。寝相を変えて2人の青年が未だ目の前で眠りを貪っていた。ベッドの上ではこちらに背を向け綱元が深く寝入っている。
夢の中で懐かしい面影を見た気がしたが、目覚めれば明らかな現実の続きだった。壁に背を付け不自然な体勢で眠りこけていた体が軋む。男は呻き声を漏らしながら身じろぎした。
その視線がふと上がり、横たわる青年の内一人が頭を擡げているのが見えた。隣に眠る成実を起こさぬようそっと毛布から抜け出し、呻き声の聞こえた方向へ四つん這いに這い寄って来る。位置がズレていたので小十郎は手を伸ばして青年の頬を引き寄せた。
引き寄せられるまま、顔を上げた青年の唇に軽く口付ける。
「ご気分は」
そう尋ねると「良く寝た」と言う、面白げな返事が返って来た。
今、彼の左目はタオルで覆われている。両目を塞がれガラスの破片が左の頬や顎に点々と赤い傷跡を残している。だが、半開きの口元からは表情を伺い知れない。
彼は小十郎の前に座り込み、タオルに手をやりつつ俯いた。そしてその口が動いて言う「不思議だな」と。
何がです、と尋ねるより前に車掌室の扉の鍵が開けられる音がした。
小十郎は立ち上がり、部屋に入って来たエレナを出迎えた。
「Thank you so….」
「Sluchilas beda!」言い掛けた小十郎の英語をエレナはロシア語で遮った。
「What's happen?」
「……A checkpoint…in Ekaterinburg…by the government」
小十郎の質問に何時も以上のカタコトでもどかしげに応えるエレナ。
政府によるチェックポイント―検問所だろうか―がエカテリングルク駅に設けられたらしい。
まさか…と小十郎は息を呑んだ。
ロシア連邦の中で人口の多さで言うと5番目の州都スヴルドロフスクのその町は、重工業都市としても交通の要所としても有名だった。そして又、アジアとヨーロッパの境界線としてその郊外に白いオベリスクが立てられている事でも知られていた。
「Now, Another train is have checked by Russian soldier.」
「―――…」
「They comes this train at soon….」
息せき切ったエレナの英語が畳み掛けるように小十郎を追い詰める。
まさかとは思うが、シュレメーチェヴォ国際空港で一度ロシア兵に追われている身としては楽観視は出来なかった。
「政宗様、成実と何処か安全な場所へ…」
言葉を投げ掛けられた政宗は、その場に座ったまま男を見上げた。
「綱元はどうすんだ」
「俺が連れて行きます」
「何処へ」
「………」
「列車が止まってんなら、ロシア兵の眼を盗んでエカテリングルクの町中に紛れ込んじまった方がいい。―――今は夜か?昼か?」
「…深夜の11時です…」
「なら、夜陰に紛れて駅を出る。デカイ町なんだろ?」
「…それは…そうですが……」
「迷ってる暇はねえ、綱元を担ぎ上げろ」
言うだけ言って、政宗は従兄弟を起こすべく毛布を手探りで辿った。
気怠げに上半身を起こした綱元に素早く事情を話す小十郎。それと成実の頬を抓って引き摺り起こそうとする政宗を見て、エレナは彼らがこれからどうするのかを悟った。その眼が見開かれ、だが何を言う事も出来ない。
シベリア横断鉄道の車掌として出来るのはここまでだ。いや、乗車券もパスポートもない彼らをそうと知っていて庇っただけでも規定違反になっていただろう。後は日本人に銃で脅された、とアエロエクスプレスの車掌のように言い逃れしてくれれば良いが。
「……Wait,…wait…!」
綱元を肩に担ぎ上げ歩き出した小十郎の腕にエレナは手を添えた。
―――無茶だ、と思った。
息の乱れや、なかなか下がらない発熱、それに時折零す非道い咳から肺炎かその一歩手前、とエレナは綱元の症状を見ていた。それをこの上深夜の町中に連れ出して逃げ回るなどと。
「Thank you so much, Miss Elinor. We don't forget favor that was papular with you throughout the life.(あなたのご恩は一生忘れない、ありがとうエレナ)」
少しだけ立ち止まって小十郎は早口に言い放った。エレナの視線が彼のそれから外されて、所在なく伏せられる。

ドンドン

その時だ、車掌室の扉がノックされたのは。
小十郎はエレナと視線を見交わし、それから綱元を抱えたまま扉の影に隠れた。政宗にも自分の背後に隠れるよう手で合図した。
成実に引っ張られて移動した2人を確認して、小十郎はエレナに頷いて見せた。
エレナは扉の鍵を開け、少しだけそれを開いた。
戸の向こうに立っていたのは乗客の一人だった。暫く男の声とロシア語を交わしている時間があって、エレナが小十郎を顧みた。
「He say…"I cooperates with you"」
"協力してくれる"?一体何を、と訝しく思う間に、エレナは小十郎の返事も待たずに扉の向こうで待機していた人物たちを部屋の中に招き入れた。その中には綱元に飴玉をくれた少女の母親もいて、彼らの視線に気付くと強張った顔を素早く上下に振った。

1時間後、別の列車を検査していたロシア兵が政宗たちの乗る列車に次々と乗り込んで来た。
彼らは政宗たちの写真を持っていた。
ビジネス絡みの長期クルージング中、船内で撮られたものだった。それを手に乗客一人一人に尋ねて回る。欧米人にはアジア系の人間の見分けは付きにくい。彼らは瞳・髪・肌の色と顔の骨格の組み合わせで個体を識別する歴史的なクセが付いているからだ。性別と年代が似たようなアジア人の中から判別するのは意外に難問なのだ。それでも兵士たちは写真と生身の人間とを食い入るように見比べて勤勉に、丁寧に、調べた。
エカテリングルク駅のプラットホームにもロシア兵たちが3人一組になって警戒に当たっていた。車両灯を焚き、夜陰に紛れて列車から列車を移動したりエカテリングルクの町に逃げ出す者がいないか、丹念に見回っている。
逃げ出す事はおろか、おかしな行動一つ取りでもしたら連行されそうな気配だった。

兵士の一人が、中国人旅行者と思しき壮年の男とその娘らしき2人連れの前で立ち止まった。2段ベッドが両脇にあるコンパートメントの一つの中だ。ソファには8人腰掛けている所を見ると、4人部屋を彼らでシェアしているらしい。
娘の方は薄汚れた木綿の布を目の上にぐるぐる巻きにしていた。その下から覘く鼻筋と口元は正に美人の相で気品さえ窺えるのだが、着ているものと言えば粗末な人民服だ。そのちぐはぐさと、探している人物の中に片目を眼帯で隠している青年がいた事に兵士は注目した。
「目隠しを外せ」と言うような事を兵士は言った。
娘は、戸惑うように隣に腰掛ける父の方を顧みた。父は中国語で娘の状態を説明する。曰く、モスクワに出稼ぎに来ていたが働いていた工場で眼を怪我した娘を上海の医師の所へ連れて行く途中だ、非道い事はしないでくれ、と。
それは兵士は聞き入れなかった。
娘は両手を上げて木綿の布切れを解きに掛かった。同室している中国人たちは疲れた顔を俯かせているが、その眼だけは彼らの様子を注視している。
布は"彼女"の肩の上でわだかまり、その両目が露わになった。
右目は古い糜爛の痕、そして左目は真新しい鋭利な傷跡が痛々しく美貌を穢していた。
「古い方の傷跡はどうした」と兵士は更に尋ねる。
「病気で痕が残った」と父親が応える。
「その痕も皮膚移植で直すつもりだ、そうすれば右目だけでも視力は残る筈だから」
写真の青年は右の視力どころか眼球がない、と言う情報を得ている兵士は、娘の涼しげな容貌の中に残る右目を食い入るように見つめた。
その黒瞳が、爛れた皮膚の中で僅かに動いて自分を見る。そして細っそりとした唇が笑みの形に歪むのを見るにつれ、呆然としながら「彼女は違う」と言う結論に至った。
結局、その列車にも探している4人の人物が見つからなかった兵士たちはぞろぞろと引き揚げて行った。
しかしそれでも、他の路線を調査している間はどの列車も、勿論シベリア横断鉄道も出発する事を許されなかった。
朝になる頃には乗客や、シベリア横断鉄道会社から苦情が続出した。列車を半日近く何本も留め置くのはやはりロシア政府としても無理があったのだ。
そして早朝7時5分、上りや下りの列車はエカテリングルク駅からゆっくりと静かに、発車した。



「政宗様」
「まさむー!」
列車が走り出して間もなく、そのコンパートメントに乗り込んで来た人物がある。
一人は人民服に人民帽を被ったガタイの良い男、もう一人はパックパッカーらしき日本人の若者だ。他ならぬ小十郎と成実だったが、その外見はものの見事に変装していた。
小十郎の左頬に傷は見当たらないし、前髪を降ろした頭髪は白いものが目立っていた。20歳は更に老けて見える。一方、成実はその顔中ソバカスだらけにして歯並びまで変わっている。間抜けっぷりに磨きがかかっていた。
そして、木綿の包帯を巻き直している娘は体のラインまで女性らしく作られていたが、その顔は明らかに伊達政宗だった。
彼らに協力すると申し出て来たのは、モスクワで劇団を営むロシア人の一行だった。彼らがこぞって一時間程で施した特殊メイクや変装は、兵士らを軽く騙し仰せる程巧妙だったのだ。
因みに、別のコンパートメントで眠る綱元は、口髭と顎髭を生やした寝たきり老人の役割になり切っていた。その髭も皮膚に直接貼り付けられ、引っ張ると確かに痛みが走って本物としか思えない作りになっている。
隣の中国人を押し退けて成実が政宗に黙って抱きついた。
「―――…っ!」
言葉もなく、安堵の溜め息を何度も、何度も吐いた。
それがふと、顔を上げる。
腕に抱えた身体が、異様に熱い。
手を離して従兄弟の顔を覗き込んだ成実の目の前で、"彼"はするりと立ち上がった。そうして、乗客らがコンパートメントの中からも外からも見守る最中、彼はゆっくりと頭を下げた。
「Thank you….」
俯いた口がそう呟き、それは何度か重なった。


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