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―記念文倉庫―

「…小十郎、どうすんだよ…」
抑揚のない昏い声で成実が声を掛けて来た。その両目は木製の床に落ちて、まともに周りが見られないようだった。
「成実、お前は大丈夫か?」
彼へのケアも必要だった。
ヤクザ稼業に生まれついたとは言え、"本物"の暴力の世界を目の当たりに、肌に感じる事はなかった。そのように綱元と一緒になって庇って来たのだ。それを失敗だったとは思わないが、成実にはここで踏ん張ってもらいたかった。
「俺なんかどうでもいいよ。政宗と綱元だよ…。言えよ、俺何でもする」
「…良い子だ」と言って小十郎は、自分の後ろに立っていた青年の肩を抱き寄せた。
ガタイばかり政宗よりやたらでかくなっていたが、抱き寄せられた成実は幼い頃のように小十郎にしがみついた。そうして声を殺して泣く。それが落ち着くまでたっぷり待ってやった。途中でヘレナが戻って来たが、様子を窺うと気を遣って又出て行ってくれた。
優しい、気配り上手な女性だった。
政宗に聞かれるのを憚って成実は泣いても弱音は吐かなかった。不安を口にする事もしない。ただ頼りになる男の背中を必死に掻き抱いた。
やがて声を殺して泣きやんだ成実は、そろそろと手の力を緩めた。
頼りにはなるが相手も一人の人間だ、スーパーマンじゃない。ただ縋って任せっきりにしている訳には行かない。そんな思いが芽生え始めていた。
「えへへ…。久々にかたくーの胸で泣いた」
そう赤い眼と鼻のままで笑う青年の頭に、小十郎は手をやって揺らした。
「今でもでっけえガキだよ、手前は」
もう一度成実はえへへ、と笑った。
その成実から離れて小十郎はデスクの上に追いてあったウォッカの瓶を取り上げた。
綱元の傷の消毒に使われる前はヘレナの夜の楽しみだったのだろう。今はもう半分程に減っている。45度と言うアルコールから言って、ちびちびやるのが通常だ。そして、それを口に含んだだけでもアルコールが鼻腔を突き抜けて行く。
小十郎はデッキチェアに腰掛けたままぴくりともしない政宗の前に屈み込んだ。
ハンカチを抑えていた彼の左手をそっとどかす。傷口から滲んだ血が皮膚とハンカチの間で斑に乾いていた。だが、未だに鮮血はじわり、と鋭利な傷口から沸き出して来る。
男の手が政宗の顔を仰退けさせた。
傷口に唇が触れると青年の身体が強張った。
痛むだろうが仕方ない。動かぬよう彼の顎と後頭部を両手でしっかり抑え付けつつ、ウォッカを含んだ唇で左目を丸ごと覆った。
舌で塞き止めていた酒を少しずつ流し込む。激痛が走り、政宗の両手が男の腕を激しく掴んだ。
強張りはするが暴れはしない、恐るべき自制心だ。
そんな様を成実は胸の潰れる思いで見ていた。
―――もし…、
もしも政宗の左目までもが失明したら、と思うと心臓が締め付けられるように痛い。だがその不安を最も感じているのは政宗の筈だ。自分が潰れる訳には決して行かないのだ。
瞼の傷をウォッカで洗浄してやり、血で濁ったそれを小十郎は飲み下した。
そしてもう一度新たな酒を口に含んで傷口を念入りに洗浄する。
その後で政宗の顔を覗き込んだ。
切れた瞼が真っ赤に腫れていた。右目は普段通り眼帯で隠されているが、その下には醜い腫瘍痕が残っている。思わず胸に迫る苦しみに押されて抱き締めたい、と思った。肩を掴む手に力が入る。
「…何てえ面しやがる……」
見えてもいないクセに政宗は嘲笑する口調で言った。
数呼吸で気持ちを切り替え、小十郎は努めて落ち着いた声を意識した。
「瞼の下は如何です、政宗様」
「破片が残ってる…痛くて開けられねえ」
「しかし、洗い流さねば」
「ああ…失明するかもな」
そんな事は大した問題じゃない、とでも言うように政宗は気怠げに応える。
痛みに耐える表情で小十郎は、政宗の手からハンカチを受け取った。それを彼の口元へ持って行く。政宗は黙ってそれを咥えた。
そんな彼を小十郎は抱き上げ、床に降ろしてベッドの縁に座らせた。三度目はたっぷりとウォッカを口に含んだ。
そして、頭を抑え左目の瞼を唇で覆う。
その舌が瞼に割り入れられると青年の足が床を蹴った。両手が先程より強く男の腕に縋る。
「……んう…っ…!」
苦痛の悲鳴が上がり、思わず成実は両手で耳を塞いだ。
ゴロゴロしたものが舌先に触れた。政宗の手が痙攣し、呻き声は泣き声のようになった。舌を伝って瞼の中にたっぷりとウォッカを流し込んだ。それが更なる激痛を政宗に齎す。
弾かれそうになるその手を圧して、容赦なく瞼の中を掻き回した。
バタバタと靴が何度も床を蹴り、踏み締められる。
「…う…ぅう…んッ……」
その苦痛の声にすら、衝動は沸き起こる。

―――もし…。

彼が残る片目をも失ってしまったら、何処かへ攫って行ってしまおうか。誰も彼の名を知らない遠い遠い僻地へ逃げ隠れて2人でこっそり暮らそうか。
そうすれば彼を縛るものは自分一人しかなく、従って彼の身も心も己だけのものになる。好きな時にその身を貪り、溶けてなくなるまで甘えさせてやろう。痴呆となって、自我が崩壊するまで、ずっとずっと永遠に。
だが―――、
荒涼とした風が吹き荒ぶ心の中にぽ、と温かい光が浮かんだ。

『全て呑み込め』

苦痛の中に快楽を見ていた頃、同情やシンクロなどで心も体も許してしまっていた、まだ稚すぎた日々に、昏い水の淵を共に歩んでくれたその人の声が蘇る。
それは何と懐かしく、温かい思い出だったかと小十郎は静かに息を呑んだ。
そうして、唇を離し血混じりの酒を嚥下する。
「政宗様…」
苦痛を呑んで荒いだ息を繰り返し、政宗は口中に溢れた唾液を飲み下した。
「Thanks…, だいぶ楽になった…」
気遣いにそんな気休めを言う青年の、頬や眦に流れ落ちた液体を指先で拭ってやった。
彼が、自分と2人きりで逃げ出す筈がなかった。何となれば、彼自身があの人の息子なのだから。闇に呑まれそうな小十郎に光を指し示し導く事があっても、それに背を向け何もかもを投げ打って肯んずる訳がない。

だからこそ(愛した)。
いや、だからこそ(愛してはいけなかった?)。

微妙な所で揺れ惑う小十郎の沈黙を何と見たか、落ち着いた政宗の方から手を伸ばして触れて来た。男の左頬の傷、その上を指先で辿る。
「…大丈夫か、小十郎」
反対に心配されて思わず苦笑が浮かんだ。
「数時間後にまた洗浄しましょう。まだ破片が残っているかも知れません」
「All right.」
政宗は低く呟いてそのまま深く項垂れた。その彼の隣に何をするでもなく成実が腰を降ろし、座り込む。
ウォッカの瓶を持って小十郎は立ち上がった。デスクの上にそれを戻して、それから2人の青年を何気なく振り向く。

破壊衝動―――小十郎は自分の中の闇をいつしかそのように名付けていた。
余人だけではない、自分も状況も一切合切を破壊する方向にと望んでしまう。その結果を思うに恐ろしさに立ち竦むのに、破壊された自己と他己の中に自虐的な満足を覚えるのだ。それの最たるものがアメリカでのヴィンセントと暮らした日々の全てだ。
それを、政宗の前では懸命に隠して来た。
彼が小十郎の自制心そのものだったのだ。
それが崩れ掛かっている、とそう思う。他ならぬ、彼が欲望の赴くままに男の体と愛撫を求める事によって。
政宗の中にも破壊衝動のようなものがあるのだろうか。
共に堕ちたいと、そう願う心が。



小十郎は3等車の通路に出て開け放った窓から吹き込む風に眼を細めた。流れ去る景色は見晴るかす限り平坦な草原だ。短い春の訪れに永久凍土の表面だけが溶けて湿地となる。そこへ萌え出した瑞々しい生命の絨毯だ。それが、シベリアの広大な大地を覆っている。
ツンドラ、とはウラル地方の言語で「木のない土地」を意味する。
森林が育つのに適しない大地は正に「荒野」だった。丸坊主の平原は薄っすらと汗を掻き、それも3〜4ヶ月で直ぐに枯れ果てる。
孤独と寂寥、沈黙と屈折した思い。そうしたものが相応しい茫漠たる大地は、小十郎の胸の裡にすんなりと馴染んだ。
「Hey, kojuro.」
不意に声を掛けられ我に返った小十郎は、窓辺から離れて背後を振り向いた。
エレナが立っていて、その片手にビニール袋を下げている。
「Don't you feel hungly?」
言って、目の前に上げた袋をガサガサと揺らして見せる。
先程キーロフ駅から発車した。
20分くらいの停車時間で、プラットホームに出た乗客らはそこに待ち構えていた売り子から食べ物などを購入したりする。
駅に出て来る売り子は農家の者だったり貧しい町人だったりする。売り子を職業としている訳ではないのだ。だから、売り物は家庭的な手作りパンだったりチーズだったりする。エレナが買って来たのはカチンカチンのフランスパンとピロシキのような揚げ物、それにチーズと水、更には韓国製のカップラーメンなどだった。
食堂車でもてなされる高額な食事を出来ない乗客らの定番メニューだ。
「will…, you not have cash anyway?(どうせ現金を持ってないでしょ?)」
エレナは苦笑いをその口元に浮かべながら言った。
「I'm sorry….」小十郎は頭を下げるしかない。
目尻の皺はそれでも直ぐに渋いものに変わった。彼女の憂慮は晴れそうにもない状況だ。
エレナは見飽きているであろうツンドラの春を、そのブルーアイズで寂しげに眺めた。

女車掌に続いて、小十郎も車掌室に戻った。
しかしそこでは、床の上で毛布にくるまって眠り込む2人の青年の横顔が彼らを出迎えただけだ。良く似た面影の、色の違う2つの顔が寄り添いながらしどけなく眠る様に、小十郎はエレナと顔を見合わせた。
エレナは口元をちょっと引き締め、なるべく音を立てぬよう食糧の入った袋を床に置いた。
小十郎はそれから視線を外して2人を何となく眺めた。彼らの向こうで綱元は深い深い眠りに就いている。
とても、静かだ。
女車掌が日誌でも付けるのか、デッキチェアに腰を降ろして引き出しの中からノートやクリップボードを取り出していた。その作業に取り掛かるのを眺めやって、小十郎は狭い部屋の片隅に腰を下ろした。
安定した列車の騒音。
落ち着いた三つの寝息。
ページを捲る音、そしてペンが紙面を滑る小気味良いリズム。
全てに眠気を誘われた。
すとん、と呆気なく小十郎の意識は闇に堕ちた。


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