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―記念文倉庫―

「そんなおっかない顔三つも突き合わせてんじゃねーよ」
不意に上がった声に彼らは三者三様に視線を寄越した。
客室への通用扉を開けた所に成実が立っていて、その傍らには小さな女の子がもじもじしながらこちらを見ていた。それへ、成実がにか、と笑ってやると少女は弾かれたように駆けて来て床に座り込んだ綱元の側にちょこんと膝を突いた。
先程、母親に抱き締められながら怯えていたロシア人の少女だった。
絹の糸のように細くて艶やかなブロンドが縺れてくせ毛になっているが、人形みたいなその顔立ちといい、作り物じみた愛らしさだ。ただ現実には、何日も何週間も着たきりのようなフェルトの上着とジャージのズボン、毛糸の帽子と言うみすぼらしい姿で、どう見ても職を求めて都会へと出て行く貧しい農村の子供だった。
その子が何をするのかと四対(三対と一つ、か)の眼が見守る中、彼女は握り締めていた掌を綱元の目の前に突き出した。思わず差し出した両手のたなごころにそれが落とされる。
―――たった一つの飴玉だった。
この子にしてみれば楽しみに取っておいた大事なおやつだったろう。それを、惜しげもなく大の男に分け与える。政宗はその様を見つめつつ笑った。
「こんな小さな子供に心配されるぐらい、お前は今ボロボロなんだよ…。とにかくキーロフの町に着いたらホテル探すぞ」
もう否やは許さないと言った風に言い放って、政宗は駆け去る小さな背中を見送った。
飴玉を両手に押し頂いた綱元はもはや一言もない。
小十郎も黙るしかなかった。
ホテルでカードを使えば足が付く恐れがある事など、政宗にはとっくに分かっていたのだろう。その上で僅かでもちゃんとしたベッドに綱元を寝かせたいと言う気持ちを隠す事もしなかった。ならば小十郎に出来る事は、降り掛かる火の粉を払って払って、払いまくる他ない。


その火の粉は早くも彼らに降り掛かろうとしていた。
少女の姿が3等車への扉に消えて行ったのと同時に、食堂車側からの連結部分を通って一人の男がのっそりと足を進めて来た。
長駆だ。
その上横幅もある。肩までの黒髪はロシア人と言うよりその周辺地域、カザフスタンやウズベキスタン辺りの人種を思わせた。その紛争地帯に相応しいキナ臭さを纏わせた漆黒の瞳がじろりと政宗たちを睨めつける。
無気力だった。
そして無関心で無軌道な男だ。
不穏な気配に身構える政宗たちから一度つまらなそうに視線を外した男は、ボロボロのジャンパーに両手を突っ込んで、出した。

ひゅん

と風を切る音がして、ギラリと輝くナイフが繰り出されるのに予備動作らしきものがなかった。それでも政宗たちは勘が働いて、さっと身を翻してその切っ先から逃れ得た。
前へ踏み込んだのは小十郎で、政宗と成実は慌てて綱元を引き起こした。
小十郎はその男と揉み合いになった。
ギリギリと突き出されるナイフを握った右手を掴み上げ、ジャンパーの襟首を絞り上げる。男は取られた右手をそのままに、左手を小十郎の肩口に当てているだけだ。表情も変えない。
そこへ、3等車の扉が開いて何故か少女が後ろ向きに出て来た。
彼女の前を塞ぎつつ伸ばした腕で扉を開けたその男は、少女ににっこり微笑んで見せた。
額の禿げ上がった小柄な男だ。貧相な面体に、笑んで開いた口から覘く歯列は前歯が一本抜け落ちていた。
その男が少女の上着を無造作に掴んで振り回した。
「Don't move.」
聞いた事もない訛りがある英語だった。
この地域で英語を話せるのは民間人ではなく、政府の公的機関か外資系の企業の役員か、あるいは国際的なマフィアか戦争屋ぐらいだった。
禿男の右手のナイフはそうして、少女の顔の前でギラつく。
開けっ放しの扉の向こうで母親が口に手を当て呆然と立ち尽くしている。
それを押し退けて例の女車掌がやって来るのも見えた。そして無謀にも男の肩に手を伸ばして力任せに引いた。

びゅんっ

と空気が切り裂かれ、女車掌は短く悲鳴を上げて手を引っ込めた。
長駆の男の方は小十郎の手の力が緩んで来たのを見逃す筈もなく、左手で相手の首根っこを引っ掴むとそこを抑えながら腹へと膝蹴りを叩き込んで来た。
その衝撃は例えようもなく、重い。
小十郎は呻く事も出来ずにその場に踞ってしまった。
辛うじて立ち上がった綱元は腰の後ろに差した銃へと手を伸ばす。
「この狭い所で無理だ、綱元」と政宗がそれを制した。
彼の言う通り、ごく狭いデッキで8人もの人間が入り乱れて思い思いに動いた。

揉み合い押し合いへし合い、荒いだ息と衣擦れの音、そして男たちの呻き声に女車掌の威勢の良い罵声が重なる。
少女はぎゅっと眼を閉じて、頭上で巻き起こる騒動が通り過ぎるのに堪えた。足で蹴られフェルトの上着を引っ張られたりしたが、そちらを見もせずに振り払った。
何が何だか分からない程混乱していた。
別々の場所で全く違う音が響いた。
窓ガラスが割れ、吹き込む風に破片が飛び散った。
もう一つはくぐ籠った銃声だ。
綱元は、床に捩じ伏せた禿男の上に馬乗りになり、その体に弾丸を3発撃ち込んでいた。当然男は静かになったが、綱元自身も間もなくぐしゃりと崩折れた。
割れた窓ガラスは、昇降扉の薄汚れたそれだ。
蹴りを喰らった小十郎に対して長駆の男は更に爪先を蹴り上げようとした。その古びた革靴の先には仕込みナイフが煌めいていて。
それを目撃した政宗と成実が男の体に飛びついた。
小十郎は男の右手を掴んだまま身を捩った。
2人の大男に弾かれ、青年たちは壁に背を打ち付けた。
そこへ更に女車掌が消化器を振り上げる。それは惜しくも大男の右肩に逸れ、ナイフを掴んだ手は離された。
床に落ちる白刃の刃。
成実は綱元が禿男に掴み掛かっている間に少女を引っ掴み、振り払われ。
小十郎は大男の右手を渾身の力を込めて捻り上げた。
大男は背後へ手を伸ばし女車掌の服を鷲掴み、それから消化器を奪った。
それを目の前に投げつける。
僅か数分の出来事だ。
飛んで来る消化器を避けた小十郎は、男の腕を取りながら右拳のフックをその腹に何度も叩き付けた。いや、めった打ちにした。
ガードする腕を折らんとする勢いで何十発と言わず叩き込んで、ようやく大男は踞った。

静かに列車の騒音が戻って来た。
踏切の立てる甲高い音が近付いて、そして遠離った。
「政宗!!」
叫んだ成実が壁際に座り込んだ政宗に取り縋る。
顔を抑えた掌から鮮血が滴っていた。
「政宗様…!」
大男を放り出して小十郎もそれに駆け寄った。
政宗が抑えていたのは左目の辺りだ。その手を退けて見やると左の瞼がぱっくりと傷を開けてたらたらと血を流していた。
ギクリ、
と心臓を鷲掴まれたかのように体を強張らせて小十郎も成実も、一言もなかった。

車両の連結部分は体の良い"ゴミ処理場"だった。
男たちの死体をそこから投げ捨てたのは小十郎と成実だった。それがこの後どうなるのかは考えたくもない。だが、死体を車両に乗せておく訳にも行かなかった。
成実にとっては初めての殺人だ。表情を無くして瞳孔すら開いてしまったような青年は、それでも込み上げる吐き気を我慢して仕事をこなした。
綱元は二の腕や掌にナイフによる軽傷を受けただけで、気を失ったのは発熱の為だった。命には別状はない―――今の所は。
一方、政宗の左目は割れたガラス片が引き裂いたものだが、激痛に黙り込み、触らせるのを拒む所を見ると傷口の中に未だ破片が残っているらしかった。
そして少女は無事に母親の元へ帰された。

車両の一部に鍵のかかる車掌の個室があった。
ヘレナ、と名乗った車掌の案内で、部屋のベッドに綱元を寝かせ簡単な治療をした。と言っても、アルコール度の高いウォッカを傷口に吹きかけて薄っぺらなタオルで包んだだけだ。
問題なのは政宗だ。
止まらない血を片手で押さえつつ、他人に一切傷を触らせようとしなかった。唇は噛み締められ続け、語る言葉も僅かだった。
心配で堪らない小十郎と成実があれこれとなく言葉をかけるが、痛みに耐えているらしい政宗は粗末なデッキチェアに腰掛けてからと言うもの、何の反応も示さなくなった。
「Ah…, Hospital―――」と女車掌が呟いた。
小十郎や成実と一緒になって黙んまりを決め込んだ政宗の横顔を見つめながらの事だ。彼女のアイスブルーの瞳が彼らを顧みた。
「Big hospital…, the operation is impossble….」
酷い片言の英語だった。要するに大病院でなければ手術は無理だと言いたいのだろう。
「Kelov?」と小十郎が返した。
「English…no English. and I think that there is problem…dirty.」
英語は駄目、全く通じないのだろう。それにロシア人の彼女にさえロシアの病院は汚い、つまり衛生上に問題があると言う。
「…Where did you come from?」
何処から来た、と問われて「Japan」と小十郎は応えた。
「Then, Go to the Japanese hospital. …it's better」
言われるまでもない、日本の病院と医療施設が世界でも高水準なのは周知の事実だ。小十郎は分かり切った事は言うなと言うように、荒々しく息を吐き出した。
女車掌は責任を感じていたようだ。自分が持ち出した消化器が結果的に政宗の残った左目を切り裂いてしまったのだ。これで両目が失明、となるとかなり彼女の心にも負荷が掛かった。
「It's so…. How many days more does the train arribe?(後何日で列車は到着する?)」と小十郎は彼女に横顔を見せたまま尋ねた。
「End terminal?」次の駅ではなく終着駅か、と彼女は聞き返す。
「Yes,…Vladivostok…?」
終着駅はウラジオストクかと小十郎は重ねて問う。
「In the terminal is Khabarovsk.…Ah…, An airplane appears from Khabarovsk to Niigata.(終着駅はハバロフスク駅よ。そこから新潟へ飛行機が出る)」
応えてからヘレナは腕時計を見た。
「It's 6th days more and 17hours.」
「―――…」
小十郎は抑え切れない溜め息と共に腕を組んだ。
身動きの取れない綱元と、一刻の猶予もならない政宗と、衛生上問題のあるロシアの病院に、6日と半日以上かかる旅程とが全部天秤にかけられる。だが、ふと思いついて隣のロシア女性を振り返った。
「May we get on a train?(列車に乗ってていいのか?)」
今更な問いにヘレナは肩を竦めて見せた。
それから、ベッドで苦しげな呼吸を繰り返す綱元と、ハンカチで左眼を抑えて身じろぎ一つしない政宗をちらりと見やる。こんな人間たちを放り出せと言うのか、とでも言いたげだった。

「God bress you.」

最後にそう言い捨て、ヘレナは車掌室を出て行った。
次の停車駅、キーロフが近付いているのだ。車掌としての仕事があらゆる場面で待っているのだろう。外へ出てから戸には鍵が掛けられた。


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