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―記念文倉庫―
5●
何の事だ、と眼を上げた所へ、むくりと政宗が上半身を起こした。目が覚めたのかと思って見ていると、小十郎の姿を認めるなり抱きついて来た。
―――寝ぼけている、その上酔っ払っている…。
「その方が楽になるぞ」女の声に揶揄するような気色が滲んだ。
部屋の隅に腰を下ろした女は燭台の明かりから外れて、今はその影すら辺りとの区別も付かない。そうであってもそこにいるのは確かだ。
それだと言うのに、彼女の目の前で青年は酒精の香りを放つ唇を小十郎のそれに押し付けて来た。
「国主としてそれは罷りならぬと政宗様が決めた事だ…」
小十郎は苦渋の台詞を吐き出しながら、何とか青年の身体を引き剥がそうとした。
「罷りならぬ?知らぬのか、禁忌は欲望の裏返しだと言う事を」
「何故…お前がそんな事を―――」
青年の自分の身体を弄る手が、熱い。
引き剥がそうにもその体は全幅の信頼をもってしなだれ掛かって来る。
「別に…」一旦言葉を切ってから重朝は言った。
「少し、心を動かされただけだ…彼に」
それを聞いて小十郎は苛立たしげに青年の力ない身体を抱き寄せていた。
何時もならこうした事は細心の注意を払って避けられて来た筈だ。政宗の用心は並大抵なものではなかった。なのに今は。
嗜虐的な感情が沸き上がる。
例え政宗が気付いたとして、それが何だ。この期に及んで隠そうとするなら力尽くでも暴いてやる。いずれこの城を立ち去る流れ者ではないか。
自分の考えが余程乱暴である自覚はありながら、その時の小十郎は女に対する当てつけのような行為を止めるつもりはさらさらなかった。
彼の柔らかな髪を掴んで、その唇に食らい付いた。青年の両腕が男の頭を抱き込み、後ろへ体重を掛けられるままに彼の上へ覆い被さった。着物を乱す男の手に、更に青年は胸元を押し付けて来る。
音を立てて唇と舌とを絡めてやると、合わせた唇の間から心地良さげな溜息が漏れた。
小十郎は、首に絡まる彼の手を解いてその肩肌を暴いた。
昨夜は青年の身体を満足させただけなので、今夜は小十郎自身の抑えが効きそうになかった。男は徐々に主の着物を剥ぎながらぎらりと前方の闇を見やった。
室の角で闇に埋もれながら気配を殺している女を。
「祝福してくれんならそこで見て行け。…望み通り、あから様に」
凶悪なまでに低い声でそう言ってやると返事はなく、ただ鼻で笑うような呼気が聞こえた。
「…小十郎―――」
蕩けた声で呼ばれると小十郎は視線を下ろした。
「政宗様…」
女に放ったのとは打って変わって穏やかな声でその名を呼んだ。
それは、ただ主人の夜伽の相手をさせられている、と言うもの以上の思いが籠められていて。
闇の中、燭台の明かりに浮かび上がる2人の姿を冷ややかに眺める重朝は、苦いものを噛み締めつつ嘲笑を漏らした。
―――バカバカしい…。
甘える青年と、甘やかす男と、密やかで熱い営みと。
全てを嘲笑した。


途中から女の存在も忘れて愛しい身体を貪った。
半ば眠りこける彼を無理矢理に熱くし追い詰め、夜明けの鳥が囀り始めるのに焦りながらも欲に狂った。
浅ましい、と思いながらも国主としての己の役割を全うしようとする青年が愛おしくて、苦しくて止められなかった。
気が付くと朝で、女の姿も消えていた。
微睡む政宗の着物を整え、先ず一人で重朝に与えた居室から出た。自分は手水で顔を洗い髪を撫で付け、何食わぬ顔で自室に戻った。こんな後ろめたさを政宗は実は心の片隅で忌々しく思っているのか、全てあから様にしたいのか。
そう考えると思わず舌打ちが漏れた。
それに応えてやれぬ自分を不甲斐なく思う。
踏み出せぬ青年の稚さを思う。

結局、筆頭がいないと皆で探した果てに、部屋の主人がいない重朝の居室で政宗を見つけ、苦笑の内に安堵する。



今の形にほぼ近い新型銃が完成したのは、重朝の父がずっと若かった頃だと聞いている。
その頃は未だ根来衆とも交流があり、銃火器の開発にお互い心血を注いでいた。それが、弾込めなどを必要とせず連撃を容易にした銃の登場で意見が対立した。
根来衆には想定の範囲外の威力だったのだろう。それを封印しろと言う意見に圧されて彼らはこの件から手を引いた。
しかし、もう時既に遅しだったのだ。
雑賀衆の中では完成間近の新型銃の最後の仕上げに取り掛かった。もはや、根来衆の協力無しにそれをやり遂げるのは眼に見えていたからだ。
完成と同時に織田信長からの打診があった。
雑賀衆は法外な額の金銭を要求した。
国十個分などではない。日の本の国を丸ごと買い占められるような額だ。それをもって雑賀衆を雇い入れろと言ったのだ。
信長は当然それを一笑に付した。
それ程の威力ならば試させろ、と言って新型銃を幾つか発注しそれを国十個分で売った。成る程、信長とその北の方の濃姫の手に入れた銃は信長自身の予想を遥かに上回る性能と威力だった。だがそれが却って、信長に雑賀衆を目障りなものと見るように仕向けたのも事実だ。
こうして、織田信長と雑賀衆の因縁の争いが勃発する。
殲滅か服属か2つに1つ、信長にとっては雑賀衆を野放しにする事も、あるいは対等の立場で取引する事ももはや論外だった。
雑賀衆は存在そのものが禁忌となった。
激しい攻勢は雑賀衆の内部に幾度も軋轢を産んだ。
織田に帰順して存亡の危機を乗り越えようとする者、徹底抗戦で織田を倒し自由を獲得しようとする者。
前者が土橋氏であり、後者が鈴木氏であった。
重朝の父は強堅に楯突き続けた。
その結果が今の自分である。

戸塚山の頂きで重朝は、田畑を整然と野駆けする伊達の騎馬隊を見ていた。
軽速歩と言っても人間が全速力で走るよりずっと早い。そして走る為に生まれて来た馬たちの心臓と肺臓は、熱く激しく燃える機械より逞しい。
初春の清澄な空気に男たちと馬たちの吐く息が白く煙っていた。
重朝は膝までの黒い外套の内側で指先を銃把に滑らせた。
手に馴染んだ撃鉄を、その歯車が噛み合う感触を味わいながらじりじりと引く。これで引き金を引いても弾は出ない。安全装置が掛かっているからだ。
雑賀衆の開発した銃は完璧だ。
父や祖父が狂ったようにこれに心血を注いでいたのを、幼心に覚えている。
そんな男たちを物陰から見て、重朝は恐れるどころか心を揺さぶられる程感動したのを覚えている。
兄たちや弟たちを差し置いて射撃の才覚を見せた重朝を、父と祖父は破格の待遇で扱った。大好きな銃と、大好きな父と祖父に可愛がられてそれは幸せだった。
―――今更、何を思い出しているのだ、無意味な…。
牧歌的、とさえ言える奥州の眺めから視線を剥ぎ取って重朝は他の見物客らに背を向けた。

冬枯れた木々の間を人気のない方向へと歩いて行った。
日陰の落ちるそこで身を捩りながら寒さに堪えて来た枝々が、吹く風に細く鳴いた。それへ女は眼を投げやった。
糸のように細い枝先に数羽の鴉が止まっていた。
重朝は腰のベルトから小さなものを取り上げて口元に当てた。それへ大きく息を吹き込むと、人間には聞こえない周波数の笛の音が響き渡った。
鴉たちは明らかにそれに反応し、驚いたように小枝から飛び上がりつつ何だ何だと鳴き交わす。
一羽が降りて来た。
篭手に覆われた腕を差し伸べると人慣れしたようにそれへ足を降ろした。重朝は手にした笛をベルトに戻したついでに、腰の後ろにぶら下げたポーチから彼らの餌となる干飯を取り出した。
彼女の掌を傷付ける事なく、濡れ羽色の鴉はそれを啄んだ。
干飯がなくなると、重朝は鴉の足に括り付けられた封書入れから丸めた紙片を取り出す。片手で広げてそれを一読した彼女が顔を上げると同時に、鴉は飛び立った。
風切り羽がその名残に一片、舞い散った。
重朝の眼は南西の方角に向けられている。


他国の兵卒の眼を尻目に、2人連れの山伏が道を急いでいた。
もう既に幾つもの関を越えていた。彼らは通行手形を持っていなかったが熊野三山各社で配られる牛王宝印と、それを持って羽前の羽黒山への修行に行くのだと言う事を説明して何事もなく関所を通り過ぎた。
旅は順調だった。
それが俄かに不穏な空気に包まれたのは、上野国の赤城山を越えた辺りからだった。
背後から追われているのではない。前方の森の木々の中、姿を見せぬまま付かず離れず同じ歩速で進む気配があった。
非道く不快な輩だった。
こちらの様子を窺い、遠くの誰かに報告をしに行って指示を待っている、山伏たちはその気配をそう読んだ。
捲くにも捲けぬ。
引き返せば却って怪しまれる。
ぴったり余計な虫を纏い付かせながら、気付かぬ風で進むしかなかった。
その2人の山伏の心が「やるしかない」と無言の内に心を固めたのは武尊山のその嶺の1つに差し掛かった時だ。同時に、斜面の途中に出来た獣道にバラバラと姿を見せた者たちがいる。
身なりは薄汚い百姓だった。
粗末な襤褸に頬っかむりや破れ笠を被り、泥まみれの足に脚絆をしっかりと巻き付けている。だが、その中身は極限まで鍛え抜かれた鋼の肉体だ。しかも武士などではない。暗器の扱いを得意とする、暗殺や破壊工作をその仕事とする忍びだった。
それが無言で山伏たちを取り囲み、腰の後ろや懐から短刀を引き抜いた。
名乗りや、誰何の言葉もない。
2人は背中合わせになって、表情のない男たちを見渡した。
手にした錫杖を身体の前で構えて見せる。
一人は白い僧衣の懐に右手を忍び込ませた。
合図も掛け声もなく男たちが一斉に動いた。
複数の斬撃が同時に2人を襲い、到底避け切れるものではなかった。山伏の一人は二、三太刀を浴びながら、これと決めた者にだけ錫杖を打ち込む。腕を斬られ、法衣の袂を穿って切っ先が脇腹を少なからず抉った。
もう一人は地面に倒れ込んだ。
湿った土が顔を法衣を泥だらけにしたが、何とか凶刃を避け得た。そしてその懐から右手を引き出す、―――とその時。

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