[携帯モード] [URL送信]

―記念文倉庫―

それから5日程経った晴れ渡った朝。
城中から突如上がった嬌声に、鈴木重朝は居室から庭へと降り立った。
彼女の行動に制限は設けられていない。見張りのない庭から柴垣の小門を潜って城郭の大手通り前に出る時も、誰何の声一つ上がらなかった。その眼前を、ほぼ裸同然の軍馬に跨がった伊達軍の若者たちが雄叫びを上げつつ通り過ぎて行く。
先頭を行くのは当然、領主たる伊達政宗その人だ。
「―――…」
すわ戦か、と武将だったら誰しも思う所だが、重朝は冷ややかな面に焦り一つ見せずそれを見送った。
「ただの野駆けだ」
不意に投げ掛けられた男の声に重朝は背後を振り向いた。
城の留守居役を勤める鬼庭綱元が常の通りその場に立っていて、彼女に歩み寄って来ると騎馬隊が通り過ぎた後に砂埃を上げる大手通りを見やった。
「城を出て高畠から川西までの平野と、駒ヶ岳山麓付近までをぶっ通して駆け巡る」
綱元の説明に、初めて女の頬に苦笑らしきものが浮かんだ。
「高畠・川西はずっと田畑ではないのか」
「…田起こしって、知ってるか」女より更に深く苦笑を刻みながら綱元は応えた。
当然、女はそんなものは知らぬ。
「春と秋、稲のない田畑を鋤き返して古い稲株を土中に埋めたり肥料を満遍なく混ぜる事を田起こしと言う。本来、農民が鋤や鍬でせっせと耕したり、農耕用の牛や馬に巨大な鋤を引かせたりするんだが…」
「まさか、あの一軍…」
呆れたような言い返しに綱元はちょっと悪戯げな視線を寄越した。
「五騎を横列に並べ、それを左右にずらして隊を組む。隙間なく十騎分の蹄跡を残しつつ300騎が2往復もすれば田起こしの完了と言う訳だ。そいつをこれから毎日続けなさる…夕刻からは駒ヶ岳の牧へ行って、じゃれ合いだ」
「じゃれ合い?」
「五騎と十騎の小隊に別れての組み打ち、だな。時折には合戦の様相も成す。隊は家中の人間のみではなく"らんだむ"に選んだ者たちで組むそうだ。…暇なら見に行ってみると良い。馬子なら貸す」
「不要だ」
女は切り捨てるように言い放って綱元に背を向けた。

数刻後。
戸塚山の頂きに黒い外套を肩から羽織った重朝の姿があった。
米沢城を出て田畑の畦をてくてく徒歩で歩いて来たのだった。
今見渡せる限りの景色の中に騎馬軍団は見えない。だが、道すがら聞いた話によると、伊達騎馬隊の春の田起こしは米沢の風物詩なのだそうだ。
あらかじめ田起こしを行う農家には通達が行き届いており、子供や老人が近所を出歩かぬように注意が喚起される。遠巻きに眺めていたいのであれば、重朝のように田畑の中に点在する高台からそれを臨んだ。
「お、来た来た!」
見物人の間からそんな声が上がった。
領主とその自慢の騎馬隊が派手に駆け回るのへ、町人・農民のみならず士分までもがやんややんやと囃し立てながら彼らを迎えた。そしてそれが十里先から見えていたらしい騎馬隊が応じて鬨の声を張り上げる。
足場が悪いので全力疾走ではなく、長距離を行く軽速歩ではある。それが田畑を抜け出し最上川河畔の葦原に入ると一気に速度を上げた。騎馬隊のそこここから歓声が上がった。
草っぱを蹴散らし、浅瀬で水飛沫を上げるその様は実に壮観だ。
それが戸塚山の手前で最上川から天王川岸辺の道へと折れ曲がり一路、東を目指し始める。
山間の和田の地より南東が駒ヶ岳一帯となる。

重朝は駒ヶ岳の山腹に切り拓かれた広大な牧でそれを見た。
五騎十騎の小隊が縦列になり横列になり、又は一丸となったり翼鶴を成したり、文字通り縦横無尽に隊列を変化させて入り乱れつつ槍を打ち合う伊達騎馬隊の模擬戦の様を。
それも、こういった修練にありがちな緊張や生真面目さとは無縁の彼らの有様だ。
誰もが大口を開けて笑い、又は罵り合い、時に狂ったような嬌声を上げる。
成る程、綱元が言った「じゃれ合い」は言い得て妙、ではあった。
しかしそれを眺める重朝の目は誤摩化されなかった。
これが適当な人選で組まれた小隊かと疑いたくなる程の阿吽の呼吸。前進し、回り込み、時に敵の一軍にかち割られても速攻で合流する整然とした動き。そうした小隊が今は2〜30組程入り乱れているが、二軍に別れて相争っているのが尾根に立つ重朝には目にも明らかだった。どちらも一匹の生き物―――竜とその手足を思わせる。
それが互いに互いの身体を絡み付かせ、手足の鉤爪で襲い掛かっては敵の喉笛を食い破らんと迫る。
得も言われぬドラマティックな展開だ。

模擬戦は、僅かに兵糧を摂る休息を挟んで夕焼けが差し迫る頃まで続けられた。
怒号が飛ぶ、馬蹄の轟きが森閑とした山々に響き渡る。具足の触れ合う音と、槍と槍とが打ち合わされる甲高い音が絶え間なく打ち続き、男たちの息せき切った呼気は山颪の冷気に吹き攫われる―――。



今春初の野駆けを先陣切って思う存分満喫した政宗は至極ご満悦だった。
夕餉の後の晩酌を嗜む事が稀であるのに、その夜に限って成実たちを呼び出して侍女らに酒の用意をさせた。
話に花が咲くのは当然今日の野駆け、及び「じゃれ合い」の戦果の可否についてである。
「成実、手前ン所はちっとばかり遅れを取っていたな」と政宗がじろりと従兄弟を睨む。
「仕方ないだろ〜、大将が代替わりしたばっかなんだ。まだ皆新しい指揮に馴れてないんだよ!」
唇を尖らせて成実がそう反論すると、政宗はそれを鼻で笑い飛ばした。
「戦時にそんな言い訳が通用するか。野駆けが始まる前までに何とかしておくのが手前の勤めだろうが」
「ぐう」と成実は唸って酒を呷った。
「そう言や筆頭」と言った良直がちょっと改まった様子で身を乗り出して来た。
「あの客人が尾根で様子を窺っておりやしたが」
「客人?」
「黒い外套の奴ですよ」
それが女だと分かり、雑賀衆の出だと知れても家中に不審の目を持つ者は少なくない。元々雑賀衆は火器を売り物に諸国の要請によって主人を転々と変える傭兵集団である。何処の間者と疑われても仕方ないし、伊達騎馬隊の戦術を盗まれても余り心地良いものではなかった。
「放っておけ、どうせ何も出来やしねえ」
小十郎の情報や奥州内部に散らした草の者たちからの知らせにより、周辺諸国に他の雑賀衆が潜伏している気配はない事を確かめてある。
真実、鈴木重朝は孤立無援と見て良かった。
石山本願寺に加担する雑賀衆を討つ為、織田信長は大大名を相手にする時と同じく数万、数十万の軍勢を投入したと言う。
信長の紀州征伐は容赦がなかった。
女が何と言おうと雑賀衆は駆逐されたと見るのが多勢の意見の一致する所だ。
「んな事より小十郎、明日の野駆けの準備は」
「は、万端整ってございます」
急に話を降られても、彼の近侍は淀みなく即答した。
その目が、領主の傍らにある火桶の影にちらと注がれる。
4月下旬とは言え奥州の夜は未だ冷える。それに今は酒精の匂いを追いやる為に妻戸を半分開け放ってあった。火桶は政宗の傍らだけでなく書院の端々に据え置かれていた。
それの影にひっそりと佇む壷にはしかし、諸臣が余り知る所のないものがあった。
政宗の盃に注がれた筈の酒である。
領主の飲酒量は升酒5杯が限度だった。それを隠してひっそりと捨てているのを知っているのは、小十郎一人だけだ。

剛毅果断である事、政宗が常に己に課した国主としての体裁はそれだ。酒の強さ弱さなどその人物の体質による所が大きいのだが、戦国の世ではそうとばかりも言ってはいられぬ。己の虚弱な部分を隠して強気に振る舞う事もよしと肯んじなければならなかった。
「明日もあります故、政宗様。この場はそろそろお開きと致しませぬか」
「Ah〜?何だ小十郎、かてえ事言うなよ」
「小十郎に激しく賛成!」
成実の挙手に政宗が座敷を見渡すと、その意見にほぼ全員の心が傾いているのが知れた。確かに、久々に馬の上の人と成った事で両脚に疲れが溜まっているのも事実だ。
政宗は苦笑しながら手にした盃を高盃に置いた。
「OK…下がっていいぞ」

[*前へ][次へ#]
[戻る]


あきゅろす。
無料HPエムペ!