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―記念文倉庫―

4月下旬―――――。
雪解けのかなり進んだ奥州の山奥に小さな人影があった。
連なる山肌は、セピア色と白の斑模様。葉の落ち切った枝々が地面を剥き出しに見せていて、その日陰に当たる部分に未だ残雪を抱えいてる。
しかし空は良く晴れ渡っていて、子羊のような雲片を僅か纏い付かせているのみだ。
山々の間を流れる渓谷は雪解けで水嵩が増し、その青を更に深くしている。
その人物は身を切るような流れから直接手に掬い取った水を口に含み、掌から水滴を払い落とした。それから、未だ続くであろう旅路の為に竹筒に清水を汲み取る。
旅人は膝裏まである黒い外套を頭からすっぽり被り、山頂から吹き下ろす寒風の対策としていた。
強い日差しのせいか山が近く見え、時には向こうの尾根に猿や鹿などが歩いていたりするのも垣間見えた。
それを眺めやっていた人物は、顔を元に戻すと何事もなかったように歩き始めた。



温かく温んで来た風に領主の気はそぞろのようだった。
伊達軍の騎馬隊は精鋭揃いだ。
日本の戦国時代、当時"家"単位の隊列を組むのが常だったとは言え、騎馬隊を預かる成実・良直・佐馬助・文七郎・孫兵衛の麾下に集まる家子らの中でも、馬術に優れ、馬上での戦を得意とする者を特に選んで修練を積んで来た。それは半農半士も併せると、ざっと1500騎から2000騎は下らない大部隊となった。
雪解けと共に腿に付いた肉を打ち払うように、馬とその部隊の一部を交互に率いて野駆けするのが政宗は何より待ち遠しかった。
だから「馬場の様子は」とか「今年産まれた仔馬の数は」とか「先の戦で負傷した馬の経過は」などと、日和の挨拶などより余程頻繁に小十郎に尋ねる。
その時も小十郎は余り変化のない馬場の状態について政宗に説明していた。彼の視線は手元に落ちており、打刀から抜き取った小柄を左手に、右手に己が主人の右足の爪先を掴んだままだった。
「晴れた日にはぬかるみも乾く事もありますが、未だ周囲から雪解けの水が流れ込んでいるらしく、方々で水溜まりが出来ております。馬飼いらは軽い運動や草食みなどはさせても、野駆けには未だとても…。馬が泥に蹄を取られて脚を折ったりでもしたら、元も子もありません」
語る言葉に重なってサク、サク、と小気味良い音が上がる。
政宗は脇息に凭れながら投げ出した足の爪をこの近侍に切らせていた。
彼が子供だった頃からの習慣だ。
恥じらいや見栄などが誇張された思春期に一度は絶えたそれが領主国主となった19歳の今、日課として復活したのは先祖帰り(と言うのもおかしな話だが)と言う訳ではない。
常の武将とその主人と言う格を越え、親兄弟とも違う縁で結ばれた2人だからこその親密さ、故だった。
その証拠に、脇息に凭れた政宗は実に気の緩んだ表情を明後日の方角に向けて煙管を吹かしている。
それが、不服そうに唇を尖らせて言い返す。
「なら、南部九牧はどうだ?」
問われた言葉に、小十郎は顔を上げて苦笑した。
「ここより北の地ではなかなか…」
「―――…」
政宗はもくもくと煙を吐き出した。
南部九牧とは、今の十和田から下北半島全域と、野辺地から太平洋岸に至る広域を南部光行が源頼朝によって封じられた土地だ。
南部氏は元々甲斐の国出身で甲斐駒の馬飼いに明るく通じていた。この広大な土地を与えられた南部光行は、藤原氏全盛の頃から馬の育成地として知られていた地勢を生かし、牧の整備・運営に大いにその手腕を振るった。そうして出来たのが南部九牧であり、南部駒だった。
政宗はそれの買い付けは何時始まるのだと問うたのだが、当然米沢より更に北の地で大量の馬を通す道が開けている訳がなかった。
「Shit!身体が鈍っていけねえぜ!!」
そう声高に叫んだ後の空白にしたしたと簀の子を渡って来る足音が届いた。
小十郎は左手に掴んでいた主の右足がすっと引かれたのに視線を上げた。
それとほぼ同時に、開け放たれた妻戸の向こうで鬼庭綱元がその場に姿を見せて膝を突いた。
「政宗様、今宜しいでしょうか?」
「何だ」
綱元は下げていた面を上げ、床の間前の領主を顧みた。
「鈴木重朝と名乗る武将が政宗様にお目通りを願っております。何でも、紀伊国のさる大名に仕えていたが織田信長の侵攻を受けて国を失い、追われ、遥々この奥州まで落ち伸びて来たのだとか」
「…鈴木…?聞かねえ名だな…」
「は、主君の名を尋ねたのですが、滅びた国の名など今は無意味と言って明かそうとはしません」
「小十郎、知ってるか?」
問われた小十郎は既に小柄を刀の鞘に戻して体を綱元の方に向けていた。その彼が綱元に問う。
「紀伊のどの辺りと申しておりましたか」
「それも話そうとはせぬ」
「―――…」
「小十郎?」
黙考した近侍を政宗は更に促した。
「政宗様…多少の心当たりがございますが本人に直接目通ってみぬ事にははっきりとは申し上げられません」
微かに頭を下げて言うのに、政宗の勘がピンと反応した。
「All right. 会ってやろうじゃねえか―――」

政宗の居室前の庭に通された鈴木重朝と名乗った者は、長旅を理由に座敷へ上がる事を拒んだ。そしてその膝裏まである外套を頭から被り顔も確とは見せぬまま、庭先の白州に端座した。
上座と下座、はっきり分たれたかのように思われるが威儀を正して真っ直ぐ座る姿に卑屈さは全くない。むしろ簀の子の上に立つ政宗をも気圧す気勢が感じられた。
「鈴木重朝、とか言ったな。一国の主を前にそいつは無粋ってもんじゃねえか?」
威嚇するような政宗の言にその人物は何としたか。
―――笑ったのだ。
そうしてから、外套の前を胸元の飾り帯で留めているのへ篭手に包まれた手をやって、それを一つ一つ外して行く。
「領主に会うまでは侮られる訳には行かぬからな…」
そう言った声はそこはかとない気怠さを孕んだものだった。しかし凛として一本筋の通った、しかも女の声だった。
ばさり、と外套を払い除け白日の下に晒されたその容貌も思い違わず凛とした眼差しを持った女だ―――明るい夕焼け色した髪を肩まで流し、腕や胸元を露出した衣装に身を包んでいる。長い足は身にぴったりとした朽葉袴に脛当て、篭手は指先だけが露出していて繊細な作業に向いている。何より特徴的なのは、右の腿に巻き付けられたホルスターに納められた短筒(拳銃)だ。それがずらりと10挺、物々しく装備されていた。
「…そなた、雑賀衆の者か」と小十郎は言った。
「雑賀…」と傍らの綱元が呟く。
「鈴木氏と言えば、雑賀荘の土橋氏と並んで鉄砲の名手を生み出して来た名家です」
小十郎は政宗を見上げつつそう語り出した。
「中央で行われた信長とその反対勢力との争いに常に影となり日向となって戦果を左右し、膨大な利を得て来たのが傭兵集団である雑賀衆です。やがて石山本願寺がその争いに参戦した折りは本願寺側に付き、幾度となく信長を苦しめたと聞いております。しかし、内部で信長側に着くか本願寺側に着くかで意見の対立が見られ、そこを信長に駆逐されたと―――」
「我らは駆逐されたのではない」
小十郎の独り語りの途中からその気配を尖らせていた女が不意に声を張り上げた。
政宗はその真っ直ぐと向けられる強い眼差しを黙って見返した。
冷淡、とさえ言えるそれが強い信念と誇りとに支えられているのを知る。そして又彼女の中にふつふつと燃え滾るものが、いかな状況であろうとも途絶える事がないのだと言う事を政宗に教えた。
「I see…. 城中の一角に住いを与えてやる、好きにしろ」
他国の一武将に対し破格の待遇を言い渡した己が領主を、小十郎と綱元は呆気に取られて見上げていた。
それを無視し座敷の奥へと引っ込んだ彼の後ろ姿を見送った女は、無表情。

小十郎と綱元が立ち去った後、彼女は無言で立ち上がると短筒に手をやりつつ遠い空を見上げた。

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