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―記念文倉庫―

騒ぎのあった夜から更に数日経った夜、例の高級住宅地の豪邸の中に傷の癒えた政宗の姿はあった。
前回と同様、照明の落とされた広間の奥、老女の私室と見られるそこに年代物のグランドピアノがあって、鍵盤の前に2人は並んで腰掛けている。
「先生」の意味は直ぐ分かった。
老女はピアノレッスンを受けるつもりだったのだ。
だが、教えられたのはむしろ政宗の方だった。老女の知る音楽の幅は広く、そしてそれに関わったアクターやアクトレス、コンポーザーに関する造詣は遥かに深い。例え鍵盤の上を走る手が拙くても、音楽を愛する心はそれにも増して広大だった。
その時は映画「ティファニーで朝食を」の主題歌である「ムーンリバー」を2人で代わる代わる弾いていた。
彼女は時折音を外しながら(当然だ、見えていないのだから)この曲にまつわる話を聞かせてくれた。
「"ムーンリバー"の謂れはご存知?ムーンリバーの川幅は1マイル(1.6キロ)以上あるって歌ってるでしょ。あれはね作詞したJ・マーサの故郷にあるバックリバーがムーンリバーって呼ばれてたのによるの。大きい川だけど何の面白みもない風景でね…でも、それを思い出しながらマーサはニューヨークの素敵なお話の為の歌を作ったの。気持ちが、良い曲や歌を作るのね」
彼女は本当に嬉しそうにそう話し、微かな声でピアノの音に合わせて歌い出した。

「…Moon river wider than a mile.
 I'm crossing you in style someday.
 Oh, dream maker you heart breaker.
 Wherever you're going I'm going your way.
 Two driffters off to see the world.
 There's such a lot of world to see.
 We're after that same rainbow's end.
 Waiting round the bend my huckleberry friend.
 Moon river and me.」

「…それってオードリー・ヘップバーンの一人称で恋愛ものみたいに訳されてるけど、違うだろ?俺には子供の夢物語に聞こえるぜ」
可愛げのない事に政宗は思った通りの事を口にしていた。それに対して老女は怒るでもなく、ほんの僅か考え込んでから大きなサングラスをこちらに向けた。
「子供なら、まだ夢破れてないと思うわ」
確かに、と政宗は言葉に詰まる。歌い手は何度も夢見ては破れる経験をしている。それは多分、自立して社会に出て希望と現実の遥かな距離を知った者の言葉だろう。
「でも、自分の影法師と一緒に河を渡って行く、なんて子供らしい発想よね」
「自分の影法師?」
「あら、私の勝手な解釈よ」
「聞かせて」
老女は微かに笑った。
恋人に我が侭を言われている大人の女のように。
「最後にMoon river and me.ってあるでしょ。これ、You and me.で考えてみるの。そうすると歌詞の中に出て来るYouは全部Moon riverよね。君を渡って行くのも、夢見せてくれたのも、それを壊したのも。君が行き、君と共に行くのも、一緒に虹の果てを追い掛けるのもずっとずっと、一緒。Moon riverと"私"とは切っても切れない間柄、それは自分自身なんじゃないかしらって思っただけよ」
「…それを別け難い恋人だと解釈しちまうんだな」
「恋人は別れてしまう事もあるけどね」
「そうだな」
声のトーンが落ちて、政宗は白と黒の鍵盤を見つめた。
ああ、気が滅入る。
「恋してるの?」と言った老女の唐突な問いに、振り向いた政宗は口を僅かに開けたまま固まった。
「ばっ……!」
否定しようとした彼の腕に、カサついた彼女の手がそっと添えられる。
「生まれてから死ぬまで一緒にいるのは本当、自分自身だけだわ。それだけ長い付き合いになるのだもの、この歌にあるみたいに胸を張って向き合ってごらんなさいな。期待したりがっかりする事もたくさんある。でもずっと、一緒なの。自分の中から湧き出て来るものに目を反らさないで、誠実でいて。あなたはあなたの敵じゃない、小さな頃からの友達なんだもの」
「―――…」
本当にそう聞こえる。
「Moon riverの意味が今分かった気がする…」
あら、と言うように老女は自分の口元に手をやった。
「やあね、年を取ると余計なお節介ばかりしてしまうわ」
彼女は早口にそう言ってふふふ、と声を立てて笑った。



新しいバイト先で稼いだバイト代を持って武田の診療所に向かったのは、長かった梅雨も明けた暑い日曜日の事だ。
こいつで家賃を払って、予想以上に長期入院させてしまったメルの入院費も支払う。武田も文句を言うまい。もう一度空のペットゲージをぶら下げて、昼休み直前の診療所の玄関を潜った。相変わらず診察室からは武田と幸村の威勢の良い掛け合いが聞こえて来た。
「脇が甘い幸村ぁぁっ!しっかり抑えておかぬか!!!」
「申し訳ありませぬぅ御館様!某、気合いを入れ直すでござるよ!!」
ぅおおおおぉぉぉぉっ…
とか言う雄叫びがその後に続いた。
観客、もといペットの飼い主はやんややんやと囃し立てる。
小型犬が2人の騒ぎに反応してきゃんきゃん吠える声もそれに重なった。
―――暑ッ苦しい奴らだ…。
騒ぎを背に居住空間に踏み込むと、居間には片倉の背中があった。
縁側で、待合室にあった週刊誌を流し見ている。その肩が不意に揺れてこちらを振り向いた。
「よう、来たな」
「―――…」
常と変わらぬ男の態度だ。
政宗は少しだけ考え、ゲージを置いて縁側の男の隣に腰を下ろした。
「佐助から聞いた。ミラが…俺が引っ掛けた女がやらせたんだってな」
何を言い出すのかと、片倉は片眉を上げて次の台詞を待った。
「…店に迷惑かけて申し訳ありませんでした」
言い切って潔く頭を下げた青年を、片倉は特にこれと言う表情も浮かべず眺めていた。それが不意に皮肉に歪んで、目の前に下げられた頭をがし、とばかりに鷲掴む。
「ナマ言いやがる…俺の店の不始末は俺の責任だ。手前が頭下げたからって何の解決にもなりやしねえよ」
どうやら裏の事情までは佐助も明かさなかったらしい。言うとすれば片倉本人の口から、とでも思ったのだろう。いちいち小賢しい情報屋だった。
一方政宗は、髪の毛を乱雑に掻き回されて眉間に皺を寄せていたが、その事については一言も口にしなかった。
「今日は長えな…」
男の手が頭から離れて、そんな風にぽつりと呟いた。
居間の時計を見れば、普段ならとっくに午前の診察を終えている頃合いだ。あの2人は興が乗って来ると時を忘れて何時までも怒鳴りあう事がままあった。
外もやけに蒸し暑い。気温が彼らをヒートアップさせているのだろう。
「あと1時間は終わらねえな」
そう言って政宗はその場を立った。
ゲージを持って奥へ行こうとするのへ「連れて帰るのか、メルを?」と言う片倉の声が追った。それには「ああ」とだけ応えて立ち止まらずに歩いた。



いつかのように2人は政宗のアパートの前に立っていた。
「そう言やお前の部屋、クーラーもなかったな…」
「金食うだけだろ、あんなもん」
「うだるぞ」
「うだった事はねえ」
ぼそぼそとそんな風に言葉を交わしながら崩れそうな階段を上がった。
鍵を開けて中に入ると相変わらず二つある窓は全開だった。そのお陰で熱気がこもらずに済むが、戸口の鍵の意味が分からない。まあ、確かに盗まれて困るようなものはここには何一つなかったが。
六畳間に入ると片倉はゲージから子猫を誘い出した。自分で買って政宗に譲った猫じゃらしを使って。
「おー、元気になったもんだなあ。ほら一生懸命だ、…よっ」
大の男が床に屈み込んでそうしながら子猫とじゃれるのを、政宗は鳥カゴの傍らで見やった。何とも不思議な光景だ。いや、シチュエーションが、か。
コン、と言う音に気付いて男が顔を上げると部屋の隅の座卓の上に麦茶の入ったコップが一つ置かれていた。それを置いた本人は窓辺に今腰を降ろした所で、トラジローの鳥カゴを覗き込んでいる。その右手には既に一杯のコップがぶら下げられていて。
「…しかし、暑いな。―――今からこれじゃ先が思い遣られる…」
片倉はどうでも良い事を口にして、体を伸び上がらせて座卓のコップを手に取った。良く冷えた麦茶は一気に喉を通り過ぎて行く。
大きく溜め息を吐きつつ「一雨欲しい所だ」と言った。
「梅雨明けたばっかだろうが」
青年の返しには返事をせず、片倉はメルを両手で抱き上げた。
手の中でいやいやをする、捕らえ所のない体を何とか抱き込んで立ち上がった。窓際の政宗の側に立って、鳥カゴにメルを近づけてみる。
「…にやってんだよ…」
「躾」
鳥カゴの中でトラジローは混乱したかのように飛び回っている。一方メルはと言えば、その羽音にびっくりして片倉の肩にしがみついて爪を立てていた。
「雨音が音譜に見えるんだってな、絶対音感てのは」
何気に吐かれた台詞に、政宗は男の方へ顔を振り向けた。
「鬱陶しくないか、それ?」
「―――別に」
「英語も音で覚えたのか?」
「…親父が外資系の仕事やってて、家でも良く聞いてたから覚えちまっただけだ。音は関係ない」
「音楽の道に進むのが夢か?」
「………」
政宗は鳥カゴを窓辺に置いて、立てた膝の上に顎を乗せた。
「ピアノ褒められてチップ貰っても一つも嬉しくなかった。むしろ、金を貰う事が何か…汚らわしいって思ちまった。…これじゃ仕事になんねえよな…」
まるで他人事のようにそう話す彼は、すっかり途方に暮れているようだった。
「あの老婦人はとても喜んでたって聞いたぞ」
片倉はシャツに爪を立てるメルを苦労して引き剥がそうとしていた。
「ありゃあ、音楽の話が出来て思い出話を聞いてくれるからだろ」
「お前の弾くピアノの音には言葉が見える、だとよ」
は?と振り向いた所へメルを押し付けてやった。メルは今度は政宗のサマーセーターに爪を絡ませた。政宗は仕方なく小さな体を抱きとめる。
「おかしいよな、盲目なのに何か見えるらしいんだよ」
窓の縁に手をやって身を乗り出して来た片倉が、青年の顔を覗き込む。
「意味は支離滅裂だがこう、さらさらってな」
「………」
政宗は子猫の首筋に口元を埋めた。
「何だ…?」
問い掛けられて、更にメルの毛並みの中に顔を押し付ける。そうして暫くしてからほんのちょっと上げた目線で子猫のアイスブルーの瞳に見入った。
「ヤベ…超嬉しいかも…」
「………」

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