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―記念文倉庫―

店に戻ったのはまだ9時前だった。
そこから何時もの通り内勤に戻る。小じゃれてグルービーな音楽に紛れて交わされる会話と、それを邪魔しない黒子のような存在に徹しているボーイたちと、遮蔽性抜群のテーブル席の間を縫って政宗は銀盆を抱えて歩き回った。
もう、ピアノは弾かない。
認めてもらうのは嬉しい事だが、何かが違った。
別に今更優等生振りたい訳ではない、硬派を貫きたい訳でもない。女と体を繋げた事に罪悪感がある訳でもない。
ただラウンジでの女のやり取りとその後に続く一連の出来事には後悔があるだけだ。
考え事をしながら店内を歩いていたら、一人の客とぶつかってしまった。
「申し訳ありませんお客様、大丈夫でしたか…?」
我に返って営業用の顔と声音を作る。壁に凭れ掛かった女が無表情にこちらを見ていた。その唇が震えるように動いて、呟いた。
「伊達…政宗―――」
「…?」
次の瞬間、女は弾かれたように駆け寄って来て体と体がぶつかった。
ドン、と鈍い音がした。
政宗の背がテーブル席のパーテーションに押し付けられ、それが大きく揺れた。
女が引こうとした手を政宗は掴んだ。おそらく、店内のものであろうアイスピックが握られている、それ。とっさに避けたが切っ先は彼の脇腹を抉っていた。
女は甲高い呻き声を発しつつ身悶えた。
異常を悟ってホストが数人駆け付けて来た。彼らは訓練された兵士宜しく、女を政宗から引き剥がして羽交い締めに抑え付けた。政宗は腹の傷を抑えながらパーテーションに再び寄り掛かった。
足に力が入らない。
痛みは余り感じられなかった。その代わり、頭の中でわんわんと血が踊っている。彼の体を支えたホストが耳元で何か叫んだようだったが聞き取れなかった。ただ鬱陶しくて、その手を振り払ったような気がする。
良く覚えていない。
次の瞬間に彼の意識は途切れたから。



意識の覚醒は唐突だった。
ずっと続いていた会話が不意に意味を成すものとなって、彼の耳朶を打つ。
「…だから言ったでしょ〜、女の恨みつらみは怖いって」
「お前が言ってたのは人間の嫉み妬みだ、あと金絡みと」
「ちょっと!現実逃避に人の揚げ足取りすんの、やめてくんない?!」
「んな事より…確かなのか?アデレードに依頼されたってのは」
「…小十郎さん、俺の事、ナメてる?」
「……うるせえなあ…」思わず呻いていた。
2人がはっとして同時にこちらを振り向いた。
「ちょっと伊達チャン!良かった、目ぇ覚めたんだ!!」
「うるせえって言ってんだろうが…」
掠れた声でそう言って政宗は片腕で目の上を覆った。体を起こそうと思ったのだが、麻酔でも打たれたのか全身が鉛のように重かった。不意に眼帯が外されているのに気付いた。何故かとても不愉快だった。
顔を捩じ曲げて病室にいる2人の姿を視界に納めた。
正しくは、少し離れた所に立つ男を。
「佐助、席外せ」
「え…何?」
「そこのフザけた野郎に話付けてやるんだよ」
「何言っちゃってんのもー」
「佐助!」
叫ぶと思い出したように腹が激痛を訴えて来た。
顔を歪めて歯を食い縛る政宗と、背後の男とを見比べて佐助は諦めたように溜め息を吐いた。肩を竦めて立ち去り間際に言い捨てる。
「無茶しないでよね、2人とも」
扉は閉ざされ、その向こうで足音が遠離って行く。
「やっと……俺の前に現れたな…」
片目で男を射抜きつつ政宗は低く言い放った。
「こそこそ隠れて汚え手使いやがって―――」
「…傷は浅いが今はとにかく寝てろ」
「はぐらかすんじゃねえ!!」
断ち切るように叫んだ。
痛みの火薬が爆発して、政宗は布団を跳ね飛ばす勢いで体をくの字にへし曲げた。男が駆け寄って来てその肩を掴む。せっかく縫合した傷が開いたのかも知れない。ナースコール、と思って伸ばし掛けた手が止まった。
男の体がよろめく程、強く腕を引かれた。
その逞しい腕を伝い肩に縋って、政宗が上身を起こした。
短く、浅く繰り返される呼吸が男の肩口に絶え間なく落ちる。
「手前が欲しいのはこの俺だろ…あいつんちを巻き込むな…」
首筋に鳥肌が立った。
「ホストなんてまどろっこしい事抜かしてねえで」言って苦痛を圧して顔を上げる。
その唇が、いや歯が、シャツ越しに男の肩を咬んだ。それは血の滲む程、強く。男の体に電流が流れたようだった。
「俺のカマ掘るなり手擦りなり、好きにすりゃ良い…」
はあ、と生暖かい息が男の首筋に掛かる。
大事な人形を扱うように抱き寄せられていた。重なる唇は唇にではなく、耳の下の柔らかい肉を食んで、強く吸った。
「ぅ…ぁあ、…は…あ……ぁ…」
果てる時のようなか細い声が、政宗の喉から溢れる。
その顔を片倉は間近に上から覗き込んだ。
陸に上がった魚のように、上手く呼吸が出来ずに喘ぐその唇に、啄むだけのキスを落とした。
「Why did you kiss me…?」
「―――」
「Though I waited for you all the time….」
「…伊達、政宗……?」
「From that rainy day all the time….」
口惜しげに顔が反らされ、そのこめかみから頬を伝って首筋まで汗が滴り落ちた。冷や汗だヤバい、そうは分かっていても今の青年から目を離せなかった。
「バカヤロウ…、大事な事は日本語で言え…」
瞳を覗き込まれ、流れる汗を掌で拭われて政宗は薄く笑った。
「…仕事なら、ちゃんとしてやる―――」
そう言って、政宗の体は糸の切れた操り人形のように力を失った。



某国の大使館、そのプライベートルームで男は黙って上着の内ポケットから取り出した写真をテーブルの上にバラまいた。
金メッキの優雅な猫足にクリスタルの天蓋を持ったアンティークのテーブルだ。そこに広げられた、対照的に醜悪な瞬間を閉じ込めた写真を見て、立派な顎髭を蓄えた壮年の男は言葉を失った。そのヘーゼルブラウンの瞳が、隣のソファに座る女に呆然と向けられる。
女の表情には何の色もない。
ただ詰まらなそうにテーブルの上から視線を外す。
彷徨ったそれが行き着いたのは目の前でソファに腰を降ろしもせず、自分を見下ろす一人の日本人の男だ。
羨ましい、とだけ思った。
先の先まで読んで裏からの根回しにも抜かりなく、思った通りに事を運ぶ。そんな男の手腕にではない。
憎ったらしくなる程迷いのない、勝ち誇った―――いや、そうではない。
―――何て清々しい瞳をするのだろうかこの男は、と思った。
それこそ女が長年求めて止まなかった「真実の」「本物の」「永遠の」、それを手に入れた者だけが持つ見えない輝きのようで。
―――何て羨ましい。
その場にいるのがバカバカしくなって、女は席を立ってさっさと部屋から出て行った。彼女の「父親」は娘に何と声を掛けて良いか分からずにただ口をぱくぱくさせて見送る。
同時に背を向けた日本人に対しても同じ事だ。
彼らの間にだけ暗黙の了解はあり、そしてそれは成就された。
全ては今この瞬間に終わったのだ。


片倉は六本木から車を飛ばして山形まで向かった。
東北自動車道で仙台に入り、仙山線と平行して走る国道48号線へと逸れて、奥羽山脈を越える。山形・寒河江の更に北に尾花沢と言う鄙びた町がある。そこで住所だけを頼りに一軒の古い民家を探し当てた。
車を狭い道路の路肩に停めて、由緒ありげなその佇まいを眺める。
大正と昭和初期に銀山ブームに湧いて風光明媚な温泉街にその栄華の極みを見た土地も、今や過去の遺物と言った趣だ。滅びの足音を大人しく待つ忠犬のような穏やかさと、不思議に根強い生命力を感じさせる田畑や山並みにある種圧倒される。
目的の人物と接触する可能性など万に一つもないだろうと思っていた。片倉は田舎の風景を物珍しげに眺める旅行者の体で再び車に乗り込んだ。
そこへ、北上する道を場違いな程に重厚な高級外車が滑るように走り来たって、片倉はハンドルに手を乗せたまま釘付けになった。
車は重心の低い安定性のある走りで公道から私道へと入り、玉砂利を蹴りつつとある民家の私有地へと入って行った。
目的の家人だ。
運転手の姿は見えなかった。
あるいは客人なのかも知れない。
どちらにせよ、今のあの青年には関わりのない世界の話だった。余計な事をした、と自戒しつつも気持ち的には何かの一区切りが付いたようですっきりしていた。
片倉は来た時と同様、迷いもなく道を飛ばして自分の「ホーム」へと帰って行った。

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あきゅろす。
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