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―記念文倉庫―

アパートに戻って鍵をかけた。
鍵が、あの男の気配を引き連れて来る。鍵だけではない、子猫の為の諸々が部屋の隅に置かれている。そこに未だ切れぬ男との関わりを強く感じてしまう。ましてや、メルをこの部屋に引き取るのであれば、それはより一層濃く六畳間の部屋を満たした、雨の気配と共に。
政宗は窓際に置いた鳥カゴににじり寄って、ぱたぱたと小さな翼を羽ばたかせるトラジローの姿を覗き込んだ。チチ、と鳴いて小首を傾げつつ政宗を見返して来る。
掌の中にすっぽりと納まってしまう程の小さな生命だ。政宗は幼い頃、初めて飼った小鳥を掌に乗せられて、その余りにいたいけな生命の有り様を恐れた事がある。小さ過ぎて握り潰してしまいそうだ、と。
恐れて、その時は手の上から取り零してしまった。当時存命だった父親はそんな政宗を笑ったが、政宗が初めて小さな生命を守りたいと思った瞬間でもあった。人間は大概の動物たちより強い存在なのだと肌で感じたのだ。
今はそれよりちょっと気持ちの有り様は変化している。
人間が強いのは確かにその生命力において、環境に対する適応能力において他の生物より群を抜いて優れている。ただ、他の動物と違って未来予測をする唯一の霊長類は、そのお陰で「不安」と言う時限爆弾を抱えるようになってしまった。
何処の世界に「乾季になって雨が降らず食糧の草が全く生えなかったらどうしよう」と心配する草食動物がいるだろうか。
何処のサバンナに「狩りに出ても又失敗したらどうしよう、私の子供たちを養って行けるだろうか」と立ち竦む肉食動物がいるだろうか。
だから政宗は、生き物と接していると不安を忘れ去れる。信じて疑わない動物たちは強靭な意志を持って生きていた。
不安の他にもう一つある。
「期待」だ。
それはやはり未来予測をする人間の特権であり、
―――束縛でもあった。



次の日の放課後、面接に行く前に話がある、と言って佐助に呼び出された。池袋東口のファストフード店で待つ事15分。小雨がそぼ降る中、オレンジ色の髪をぴんぴんに跳ねさせて佐助がやって来た。
「参っちゃうよ〜、湿気のせいでくせっ毛がさあ」と傘も差さずにやって来たらしい佐助がぼやいた。
22歳と言う若さで新宿・池袋での情報屋として確立した地位を持っているとは思えない外見だ。今日も白と紺の派手なボーダーシャツにビビッドオレンジのフード付きジャンパーと言う出で立ちだ。時折、政宗より若作りをしていて、それが又ぴったり嵌っているのに閉口する事もあった。
「話って何だ」
熱いカフェラテにふうふう息を吹きかけている所へ、政宗は切り込んで来た。
佐助は肩を竦め、それからチラ、と腕時計を見た。
「うちに借金あんの、知ってる?」
初耳だ。
だが診療所にしろアパートにしろ、儲かるどころかちゃんと金が入って来てんのか?と時折疑問に思う事もあった。
「殆ど俺様の稼ぎで返済してるんだけどさあ。まあ、それでもまだ半分?てな所。土地を売れば一発で返せるんだけど俺様、反対なんだよね〜。大将は売ってしまえって口では言うけど本当は手放したくないの丸分かりだもん」
「早く用件言えよ」
「あら、分かる?」佐助は上目遣いでこちらを見た。
「俺みたいな"苦学生"に何が出来るとも思えねえがな」
政宗の嫌味にも佐助は動じず、両手でカフェラテのカップを包んだ。
「そうでもないよ―――、片倉小十郎さん」
「………」
ストローに口を付けようとした政宗の手が止まった。
「君が連れて来た人」と、重ねて佐助は言う。
「俺もまさかあの人が車に挽かれた子猫の為に駆けずり回るような人だとは思わなかったけど、あの人も俺のねぐらがあそこだったって知って、驚いてた」
大企業やグループ経営者を相手に危ない橋を渡ってる凄腕の情報屋が、流行らない粗末な診療所の院長を義父として、能天気な高校生を義弟として持っていたとはな、と片倉は笑ったと言う。
「俺様の弱点になるからね、意図的に隠してたんだ」
「それをあいつに握られたか」
「そゆこと。―――んで、あの人言うんだ。借金は全部肩代わりしてやる、条件を一つ満たしてくれたら」
凝、と見つめられた政宗は、次に来る台詞に予測が付いた。
「政宗クン、君を自分トコの店で働くよう説得するコト」
「汚ねえ野郎だ」
「だから言ったでしょ〜、小十郎さんには近付くなって」
「近付いた覚えはねえ」
分かってるよ、と言って佐助はクスクス笑った。こんな汚い話の何処が面白いのか、政宗にはさっぱり分からなかった。
「まあ俺様も最初は無視してたよ?でも今度は小十郎さん、地上げ屋使って嫌がらせしてやるなんて脅して来てさ〜。もうホント、悪い奴だよね〜」
「………」
政宗は無言で溜め息を吐いた。
そんな青年を佐助はカフェラテの湯気越しに見やる。
「そういうの、大将やダンナには経験させたくないんだ。裏の世界に塗れるのは俺様だけで十分」
言って、目を伏せた。
ご丁寧に控えめな睫毛までオレンジ色だ。
ガタッ
と椅子を鳴らして立ち上がった政宗を、佐助はぽかんと見上げた。
「行くんだろ、これから」
さっさと席を離れて行く青年の後ろ姿を見送りながら佐助もカップを片手に立ち上がった。
―――ゴメンね、伊達チャン。とは心の中で一つ謝って、彼の後を追った。



政宗が片倉の店に入ってから数日。
夕方から24時までの契約で始まったバイトは平穏無事に過ぎて行った。
片倉の店は一風変わっていた。
全体的に言えば高級指向のハイソな婦人方を楽しませるサロンのような趣だ。だが、料金設定が高い訳ではない。初回2000円から5000円の間と言うのは良心的とも言える。置いてある酒に関しては、居酒屋に並んでいそうなハイボールから、50年もの60年もののワインまである。ただし、禁止事項が一つあった。
「静かに」。
騒いだ客は丁重にお引き取り願う。悪酔いした客もだ。シャンパンコールや煽り文句も禁止。それでホストクラブか?と疑問に思う所だが、慣れてみれば各々のテーブルで密やかに交わされる男と女の会話や笑いさざめきは、不思議と親密で心地良いものだった。
政宗は最初内勤としてバイトを始めた。
料理の上げ下げやホストたちのテーブルの割り振りを言伝る役目だ。それが3日目、フロアマネージャーから「行って欲しい所がある」と言われた。
噂の出張ホストって奴か、と半ば諦めの気持ちでそれを聞いた。
クラブの車で送り届けられた先は、都内のとある高級住宅街。そこの一際大きな邸宅だった。玄関で名乗ると品の良さそうな四十絡みの婦人が出迎えた。ホストとは一生縁のなさそうな女性だ。彼女に導かれて建物の2階、奥の部屋に通された。
女は去って行った。
訝しげに一人残された部屋で立ち尽くす。
部屋の中央に、貴族の晩餐のような食事が用意されていた。そのシルクのテーブルクロスに指先を走らせる。
―――新種のプレイか何かか?
などと下品な思考を巡らせる。
とその時、更に奥への扉が開いて、そこに一人の老女が姿を見せた。
「あらあら、もう新しい先生がいらっしゃったのね…ごめんなさい」
そう言いながら杖を突きつつ危なげな足取りで二歩、三歩と歩を進める。そして、骨と皮ばかりの顔面に掛けられた大きなサングラスだ。
部屋の中は薄暗い、ロココ調の家具や調度が辛うじて見分けられるくらいに照明は絞られている。老女の空いた方の手は、障害物を探すように空を泳いでいた。
―――盲目、と言う推測が働いて慌てた政宗は小走りに老女に近寄って行って、彼女の手を取った。
「!!」
老女の皺だらけの口から少女のような悲鳴が上がって、その手を振り払われた。
「―――ごめんなさい…」と老女はまるで自分が悪い事でもしたかのように謝った。
「でも…、いきなり掴まれるのはとても…とても怖いの。掴まらせてくれるのだったら、あなたの腕に…」
控えめな要求に、政宗はぎこちなく左腕を差し出した。
老女の手が彼の肘辺りをおずおずと掴んだ。その皺深い顔が何かを探すかのように上がり、そして俯いた。微かに漏れる吐息がまるで笑ったかのようだったので、思わず政宗は問うていた。
「何がおかしいんだ」
「やっぱり思った通り」と老女は少し明るい声で即答していた。
「何が…」
「腕をね、掴んだ時にお若い方だなって思ったの。声を聞いてやっぱりって思った。娘は先生を連れて来てあげるって言ってたけどそんなの嘘。最初から分かってた、偉い先生が私の所になんか来てくれる訳ないもの」
訳が分からなかった。
娘が母親の為にホストを呼んだ、だと?
しかも母親には何かの「先生」だなどと吹き込んでいる。
「あなたも、こんなおばあちゃんの相手なんてうんざりでしょ?無理しないで帰っても良いの、誰も叱らないから」
そんな事を言われても困る。
フロアマネージャーにはとにかく相手の要求に全て応える事、要求して来なくても望む所を察して先に行動を起こす事、と言われている。
「―――あんたは、どうしたいんだ」
え、と言うように老女の横顔が上がった。
政宗はそのサングラスが落とす影を透かし見た。
「何でもしてやる…俺の出来る範囲で、だが」
言葉の割りに自信なさげだったのが伝わったのだろう、老女は困ったように少し笑んだ。
「じゃあ…せっかくだから、お食事でも、どう?」
政宗はテーブルを振り向いた。長方形の端と端に確かに2人分のそれが用意してあった。テレビや映画なんかで見た事のあるシーンだ。ホストと客は、最も離れた位置に座ってもてなし、もてなされる。
政宗は肘に引っ掛かる老女の掌を意識しつつゆっくり歩いた。
彼女は恐る恐る杖で椅子の在り処を叩いて確認しつつ、それへ腰掛けた。辺りを見渡した政宗は、向かいの席からもう一つの椅子を引っ張って来てガタガタと老女の脇に置くと自分も腰を下ろした。
「悪いけど俺、テーブルマナーとかあんまり詳しくない…」
「あら…良いのよ。お食事は美味しく頂ければ何でも。でも、取り敢えずナプキンを取って下さる?…私こんなだから直ぐ零してしまって…」
ナプキン、と思ってテーブルを見渡す。
崩すのが惜しくなる程美しい形で鎮座する白い布だ。それを掴んでばっとばかりに広げた。
この頃には政宗は老人介護をする気持ちになっていたから、遠慮なく老女のブラウスの胸元にそれを差し込もうとした。だが、老女は又しても小さな悲鳴を上げて、自分の胸を両手で押さえた。
カラン、と杖が倒れる。
「…ごめんなさい…自分でやるわ…。あなたも、あちらの席へ…」
「いや…でも―――」
「若い方にはやっぱり無理よ」
思わずむっとした。
出来ない、無理、と言う言葉につい反応してしまう。そう言う性格なのだ。
「邪魔なら手出しはしない。でも、ただ見てるだけってのは無しだ」
「まあ、ガンコなのね…」あの人にそっくり、と彼女は続けた。
そんな感じで約束の1時間はあっと言う間に過ぎ去った。
「また来て欲しいわ」と老女は言った。多分、来ることになるんじゃないか、と政宗は他人事のように返した。

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