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―記念文倉庫―

自分の部屋に重い足を引きずるようにして戻った。
明かりを点けて、固まった。
六畳間のど真ん中に細々した物が置かれていたからだ―――キャットフードは乾燥したものと缶詰。室内用の猫トイレとその砂の入れ替え用パックが二つ。ブラッシングに爪切りは何時か目にしたものだ。その他にも小さな首輪や猫じゃらしの鼠の玩具、爪研ぎなど―――色々だ。
それに、キーホルダーに留められた一つの鍵。
思わずそれを引っ掴んで駆け出していた。玄関の扉に飛びつき、その取っ手が丸ごと新品になっているのに気付く。外の鍵穴に試しに入れてみたら、ドアロックは正常に動いた。
呆然となって六畳間に戻った。
鍵を閉めたのは無意識だ。
―――訳が分からねえ…。



次の日、又しても雨降りの中、学校から出て来た政宗を見知らぬ外車が出迎えた。水たまりの水が跳ねないよう、それは静かに止まる。
何事かと足を止めた彼の目の前で後部座席のドアが開いた。
ホテルのラウンジでチップを出した女だった。
その彼女が身を乗り出して言う、「アストル・ピアソラはご存知?今夜、コンサートがあるの。一緒に行ってくれない?」
早口で捲し立てられるのに政宗は口を開けて固まっていた。未だ返事もしていないのに、制服の袖を引っ張られている。
この後バイトが、とか。バイトの前に武田のおっさんとちょっと話が、とか。組み立てていた予定が一瞬頭を過ったがそんな事お構い無しに、興味津々と言った表情で自分を見上げる女の貌に見せられていた。
通りで派手な顔立ちだった。
瞳はブルーの混じった明るいブラウン。いわゆるヘーゼルと呼ばれる複雑な光彩を放っていた。欧米人の血が混ざっている証拠だ。昨夜のラウンジでは暗くて分からなかった。いや、名前を聞いていないし訛りのない見事な日本語に騙されているだけなのかも知れない。そんな事を考えているうちに、女の車に引き入れられていた。
濡れた傘を折り畳んでいた政宗の紺ブレに浮かぶ雫を、女の細い指が払った。
「強引だった?」とそのナチュラルピンクの唇が呟く。
「アストル・ピアソラって言やタンゴの大御所だろ、"踊れないタンゴ"を作ったって当時命まで狙われた」
「―――音楽性はグローバル化に向けて可能性を広げたけど、元々のダンサーや奏者には受け入れ難かったのは事実ね。でも踊りのないミュージックとしてのタンゴも私は好きだ、と思う」
「日本人には表現出来ないジャンルだな」
政宗のその言葉にようやく瞳を見られた事を自覚したか、女は顔の上に手をやった。今更自分のバッグの中からサングラスを探している。
「別に良いだろ、奇麗な瞳なんだから」
女は手を止め、政宗を振り向いた。
「Thank you.」
私の事はミラ、って呼んで、と女は言った。
政宗は微かに笑った。
つい先頃、子猫に付けた名前と似ていたからだ。


朝になって、東京の街を洗って行った雨は一先ず止んだが、重く厚く垂れ込めた雲は一向に晴れる気配を見せなかった。
白いレースのカーテン越しに白茶けた光が差し込んで来るのに、政宗は目を覚ました。ベルベッドの毛布が乱れて腰の当たりにわだかまっている。ベッドサイドを見上げれば点けっ放しのサイドランプが場違いに明るいオレンジ色の光を投げ掛けて来た。水差しと、飲みかけのワイングラスを二つ、視界に納めてようやく頭が動き出した。
―――やっちまった…。
それは、女との行為と言うよりバイトをすっぽかした事に対する後悔だった。
1年、真面目に勤め上げて来た政宗に対するホテルの評判は上々なものだった。それを連絡も無しに無断欠勤し、そして今は頭を下げて続ける気が起きない、と来ている。
掻き乱されている、と言う自覚だけが青年の中で色濃く影を落としていた。
何気なく振り向いた先でブルーブラウンの瞳と視線がかち合った。あの、男の表情を窺う、無垢とさえ言えるミラの表情にいたたまれなさが募った。
「後悔してる」
疑問形ではない台詞に、溜め息を吐きつつ身を起こした。
「私に悪いって思ってる?」と今度は問い掛けられて、政宗は振り向いた。
「大丈夫よ」
何かを言う前にミラに抱きつかれた。
「私は大丈夫だから、もう会わないなんて言わないで」
「―――いいトコのお嬢さんの火遊びに付き合えって?」
冷たい台詞は意図したものではない、女に惚れられて悪い気はしないのが男と言うものだ。だが、これは映画でもないし彼は恋に奔放なイタリア人でもない。更に言うなら、商売でもない。
何でも良い、何かが違うと心の奥深い所が叫んでいた。
「I always heard your piano. Every evening most in the lounge of that hotel.(いつもあなたのピアノを聞いてた、あのホテルのラウンジで、ほとんど毎晩)」
「バイト先に聞きに来るのは勝手だ」
更に冷たく言い放って、政宗は立ち上がった。
素早く制服を纏ってホテルのその部屋から出て行くのに数分。その間、政宗はミラを一度も顧みる事はなかった。



気怠い気持ちと体を持て余してミラがベッドに横たわったまま虚空を見つめていると、部屋の呼び鈴が鳴らされた。一度、そして二度。ミラはそれを無視した。ホテルの人間の用件など些事に過ぎない。
だが、扉越しに小さく呼び掛けられたその声に聞き覚えがあった。
「話がある、開けてくれ」
ミラは急いでガウンを身に纏うと扉を開けた。
丈高い男がその向こうで自分を冷ややかに見下ろしていた、そして、その頬の傷。

ミラはテラス前のテーブル席に腰を降ろし、腹の前で両手を組んだまま黙り込んだ。片倉はその側のイミテーション・ペチカに凭れて腕を組む。その気配が何時になく逆立ってミラを無言で責め苛んでいた。
「アデレード(貴婦人)…困った事をしてくれた」
「ごめんなさい…」
「今の所、この事実を知っているのは俺と情報屋くらいなものだが…他店にバレたら矛先は彼に向くぞ。それは分かっていたか?」
「…でも、どうして?本当に好きな人が出来ただけなのに…それがたまたま一般人だっただけなのに……」

ダン!

男の拳が壁に叩き付けられ、ミラはびくんと肩を揺らした。
「金に物言わせてあらゆる店の男を食い潰して来た女が今更、素人に目覚めただ?寝言は寝てから言えよ。お前はこの界隈じゃ名の知らぬ者はいねえ、アデレード(貴婦人)だ。お前の寵愛を求めて何人の男が駄目になったと思ってやがる。そして未だにあんたの金目当てにその動向を追ってる連中がいる…足を洗えると思うな」
「……ずいぶん、彼を庇うのね…」
「―――…」
「私が他所のお店の男たちをナンバー1にしたり、使いもんにならなくしてやったの、黙って見てたあなたが。あなたのお店には出入り禁止にしたくらいで私を無視して来たあなたが、―――どんな風の吹き回し?」
「警察沙汰にしたくねえだけだ。この業界はそれでなくとも目え付けられてる。バカな女が一人、身の程も弁えねえで素人を喰いもんにした挙げ句、店同士の取り合いで死人が出たなんて結幕じゃ笑えねえジョークだ」
「だから!今回は違うって言ってるでしょ!!」
鎌切り声を上げて女は本性を見せた。
「私は!彼のピアノを聞いてこの人だって思ったの!ピアニストになりたいんだったら全面的にバックアップしてあげる!きっと彼は世界的な名ピアニストになれる、その為だったら私、ずっとずっと彼を支えてあげられる!!」
「なれなかったら?」
「―――な…」
「なれなかったらどうすんだ?パトロン遊びもそれまでか?」
女の表情から一切の色が消えた。
人は怒り心頭に達すると顔面からあらゆる感情が消えるものだ。女の頭の中で血の気が引いて行く音が響いた。あれだけ熱く激しく燃え盛っていた怒りの炎が凍り付く。
「あなた…嫉妬してるの?」
「才能があってもなくても見捨てないと誓えるのか?」
二つの問いが真正面からぶつかり合った。
男もまたふつふつと怒っていた。いや、怒り狂っていた。
ただ、疑似恋愛依存症の女が一人の青年の人生にひょいと顔を出したくらいでどうしてここまで、と思える程に。
「誓うわ…だから邪魔しないで。彼は私のものよ」
どうして、
どうしてこう金を派手に使う女は自己顕示欲が強いのか。そしてどうして金と言う即物的なものを乱用しているクセに「本物の」だとか、「真実の」とか言う陳腐な言葉を使いたがるのか。
幻想の小舟に乗った無垢な妖精は、その実トロールよりも醜い。
「誰にも邪魔させない…誰かが彼を目障りだと言って消そうとするなら私が先にそいつを殺してやる…」
女は勝ち誇ったような薄ら笑いを浮かべて立ち上がった。
「―――例えあなたでも」
片倉の腕を掴みながら、女が身を伸び上がらせて来た。
そしてその独占欲だ。
高過ぎる欲望にいつか火が点くんじゃないだろうかと思った。だが今は、女のヘーゼルブラウンの瞳が男の燻りにある種の欲望を点火させた。
男はミラ・アデレードの細い腕を掴むと乱暴に引いて、押した。
よろけながらベッドに倒れ込んだ所へ覆い被さる。
女の表情に初めて焦りが浮かんだ。

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あきゅろす。
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