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―記念文倉庫―

「梵は…、梵にはできない…」
そう言ってえぐえぐベソをかく幼な子を、剃髪した僧形の男は痛ましげに見つめた。

奥州が雪に閉ざされる直前の、晴れた日の事だ。
昨夜も一降りあったらしく、庭の隅や石灯籠の石の上に薄っすらと白いものを名残に残してある。
寺の房室はだがしかし、桟唐戸を全て開け放って、黒く鈍光る板の間に外の柔らかい日差しを受け入れていた。
吐く息は自然に白く、床に直に腰を下ろせばひたひたと忍び寄る冷気に震えが起こる。
幼児は錦の綿入れを着込んで、見るからにコロコロと丸まって暖かそうだが、僧侶は簡素な一重に絹の袈裟を肩に掛けただけの軽装だ。
だが寒そうにしているのは子供だけで、僧侶はつるんとしたその顔貌に何の変化もない。
「………」
何かを言おうと口を開きかけた所へ「虎哉和尚」と声を掛けられた。
「倉の供物に見知らぬものが幾つかあったのですが、見ていただけますか」
「…ああ、今行きます」
虎哉はそう応えて、目の前の子供を見やった。
「梵天丸様、少し表に出ましょうか?」
「…行きたくない」
拗ねたように言うのへ、虎哉は年齢不詳ののっぺり顔にふわりと笑みを浮かべた。
「そう言わずに。倉の供物を虫干しにしている所です。なかなか珍しいものも見られますよ」
珍しいもの、に眼がない子供の心理を熟知した誘いだった。

寺の宝物庫、その日陰に当たる所へ小僧らが総出で倉から出した供物を並べていた。木箱なり漆器なり、様々な謂れのある物品らは、その容れ物から出されて丁寧に薄紙の上に置かれている。中には異国のものもちらほら散見しており、一種趣を異にしていた。
梵天丸はその間を興味深そうに歩き回った。
「虎哉様、これなんですが」
小僧頭の僧侶に差し出された品を振り返って「ああ」と虎哉は懐かしげに眼を細めた。
「これは私が預かります」
「お願いいたします」小僧頭は一礼して仕事に立ち戻って行った。
正方形の黒漆の箱に収まったそれを手にし、虎哉は梵天丸の側へ歩み寄った。
幼児は自分の背丈より高い水瓶を目の前にして、ひっくり返りそうなくらい顔を上退かせてそれに見入っていた。
青銅と錫で出来た彫金も見事なそれは、確か天竺から帰ったとある僧が虎哉に贈ったものだ。
「梵天丸様」
声を掛けても振り向かない。
一度一つの事に夢中になると周りが見えなくなる子供の癖を、虎哉は好ましいものと思っていた。
「人の行く末は誰にもわかりません」
構わず、彼は語り出した。
「それを梵天丸様には楽しんで頂きたいとこの虎哉は思っておるのですが、少しだけ、遊興なさるのもまた宜しいかと存じます」
「なんのことだ、虎哉?」
「こちらへ、梵天丸様」
そう言って虎哉は梵天丸を宝物庫から仏殿へと導いた。
その道行きにひっそりと語る。
「今のあなた様にとって世界は夢現の境も曖昧、願望と恐れとが見せる幽玄の郷に近いものがおありのようです。虎哉は既に幾つかの戒律を破っております故、ここにもう一つ加わったとしてもお釈迦様は許してくださるでしょう」
「梵はおきてるぞ、虎哉」
稚い子の返しに虎哉はちょっと驚いた顔をしたが、すぐにふふふ、と密かに微笑った。
「人は起きながらも夢を見るのですよ」
「…ふーん?」
「刻と言うものは、輪のように連なっていると聞いた事があります」
「わ?」
「はい、幾つも幾つも…鎖帷子を思い返して頂けると理解しやすいかと存じます。その輪の一つに乗って、ひたすら歩いていたら何時の間にか別の輪に移っていた。人の人生とはそのようなものだと」
「目がまわりそうだな」
「はい、だから人はよく迷います」
「…梵もか?」
「そうですね」
「………」
二人は仏殿裏手の潜り戸の前に来た。
人の気配は今はなく、ただ巣作りに励む百舌の騒がしい鳴き声だけが場を満たしていた。
「こちらの品は」と言って、虎哉は手にした漆黒の小箱を梵天丸に差し出した。
「大唐の時代、天竺の更に西へ行った者が持ち来ったものと言われております」
「てんじくの西?阿蘭陀(オランダ)や西班牙(スペイン)のことか?」
「いえ、亜剌比亜(アラビア)や君府(トルコ)辺りです」
虎哉の口にした地名に梵天丸は聞き覚えが無かった。やはり虎哉は物知りだな、と言う感慨と共にその名を梵天丸は胸に刻んだ。
「これを使った者に行く末を見せてくれる呪具、と申しましょうか」
言いながら蓋を開けて、中身を幼児に見せる。
それは大人の掌程の大きさの鏡のように見えた。蛇の形をした紐通しに紫紺の飾り紐が通してある。異国風の幾何学文様はアラベスクと呼ばれる様式だが、その事までは虎哉は知らない。
「覗いてみますか、梵天丸様?ご自身の行く末を…」
「…みれるのか?」
「巧くすれば」
「………」
何とも渋い顔をして、幼い梵天丸はその鏡を睨みつけた。
親の仇でも見るような。
「今」の梵天丸にとって行く末(未来)は想像の産物でしかない。それに恐れ戦き、立ち竦んでいる時に「これがお前のなれの果てだ」と突きつけられたとしたら。それが例え連なる輪の一つ、数ある可能性のうちの一つだと分かっていても何かがふつと終わってしまいそうな、そんな予感に打ちのめされてしまうだろう。
と同時に、もしかしたらと言う甘い蜜のような期待も抱く。自分にとって都合の良い、晴れやかな夢をも夢見るだろう。
その狭間で揺れ惑う子供に、虎哉は呆気なく鏡を持たせた。
「仏様の御前で良くお考えなさい」
そう言い残して、僧侶はひっそりと立ち去った。

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