―Tell me a reason.― Breathing. 成実に嘘を吐いた。 別の友人に誘われて、成実の嫌いなホラー映画を見て来るから帰りは遅くなる、と。 そんなの、すぐにバレるだろう。 今晩だけじゃない、明日も明後日も、そのまた明々後日も違った理由を捏造しては夜、家に帰らないつもりだった。 成実はとても心配するだろう。 そして、政宗の言っている事が嘘でもデタラメでも「わかった」と言ってくれる。そんな時つらい顔をするのは政宗を攻めているからではなく、どうすることも出来ない己の不甲斐なさを惨めに思っているのだ。 思わなくたっていいのに。 息を止めて。 仙台駅のバスターミナルの前の階段に座り込んで、政宗は息を止めた。先程まで呼吸する度まとわりついていた白い呼気が消えてなくなる。そうやって、ずっと息を止めて。 ―――――我慢できなくなって盛大に息を吐き出した。 自分は今呼吸をしていない、と政宗は思った。 初めて自分の呼吸を意識したのは、小十郎に連れられてマラソンを始めた時だった。あの時は苦しくて苦しくて、喉が灼け着くように痛くて、肺の中に砂鉄でも入ったかのように軋んで辛かった。 「ブレスだ、ブレス」 息継ぎの事を小十郎はブレスと言った。 普通に吸って吐いて、のリズムでは過呼吸になるか酸欠になるかのどちらかだ。二つ吸って一つ吐く、そうする事で十分酸素を補給しまた一気に吐き出せるし、足運びと一緒のリズムも作れる。 苦しいが、長く走れるようになった。 長く走れたら、タイムを縮めるのが面白くなった。 相変わらず走り続けていると苦しいが、同時に喜びもあった。 体を動かし、人並み以上に走れる喜び。 いや、それ以上に。 今自分は呼吸をしている、そんな当たり前の事がとても嬉しかったのだ。 多分、それまで呼吸など意識した事がなかった。 いや、呼吸すらしていなかったのだ。 それは、喩え。 ただ生き、ものを食べて、寝て、起きて。ただそれだけなら呼吸なんか意識しなくていい。体が正常に機能していれば、勝手に肺が動いて心臓が血液を運んでくれる。だから「呼吸」なんてものは有って無きが如しの存在だった。 しかし、何時からか何処かが違ってしまった。 「それ」をしないと息ができないぐらい苦しくて辛くて、溺れてしまいそうなのに、自分は「それ」を止めている。 止めずにはいられない。 どうしてなのかなんて、わからない。 多分、昔は「それ」がなくても平気だったのだ。むしろ「それ」がない状態が普通だった。 意識しないまま生きて来られたということは、人間「それ」がなくても生きては行ける。 ―――その筈なのに…。 ただ単に「生きる」だけでは駄目なのか。 一度、たった一度「それ」を感じてしまったなら「それ」なしには生きて行けないと思う程の。 「それ」――――― 頬杖を突いて、微かな溜め息を吐く。 「よっこらしょ…」 「!!」 声と共に政宗の隣に腰を下ろした女がいた。 若い女だ、ばっちりと化粧を施してウサギの毛皮のショートコートを羽織っている。中は黒いタイトスカートと、モノトーンのカットソー、すらりと伸びた足には網タイツにエナメルのピンヒールと来た。 ―――夜の女か。 と思って腰を上げようとしたら、「君、帰るトコないの?」と聞かれた。続けて「あたし百合香」と聞いてもいないのに彼女は名乗った。 「―――――」 「何よ、名乗ったんだから名乗りなさいよ」 「…政宗」 小さく応えてやると、ほんわりと笑った。 多分、こんな格好も夜の街も本当は似合わない、そんな笑顔だった。 「すごいカッコイイ名前」 「どーも」 「行くトコないの?」 同じような事を再度聞かれて、政宗は黙った。 帰る所も、行く所だってある。ただ、そこから逃げているだけだ。窒息する程に何もかもあり過ぎて息が詰まる、そんなのはうんざりな所。 何もなければいい。 自分の中は混沌なのだ、この上周囲まで混沌としていたら溺れる、だから逃げた。 「あたし、行くトコも帰るトコも自分で潰しちゃった―――」 「え」 「待ってる人はいるんだけど」 政宗の返事がないのをどう受け取ったのか知らないが、百合香は勝手に自分の事を話しだした。 「待ってる人っていうか、ものなんだけどね」 そう言って、政宗に微笑みかける。 「あたし、それに振り回されて宙ぶらりん」 何の事だ、と思った。 そしてすぐ、何となく事情を察した。と言うか推測した。 多分、売春か何か、それのもたらす金に溺れて行き場所も帰る場所も失ったのだろう、と。 「それを俺に話してどうするってんだ」 抑揚のない声で政宗は言った。 「溺れかかってる、君もあたしと同じように」 「―――――」 「あ、同情じゃないわよ?ちょっと嬉しかったの、戦友?みたいで」 「下らねえ」 「だよねえ」 路傍の石に吐いて捨てるように言い放った政宗に対して、彼女はやっぱりほんわりと笑った。 「だってあたし、もう諦めてるもの」 「………」 ちり、と政宗の胸の中で何かが焦げ付いた。 「俺はあんたとは…」 「あっ!」何かを言いかけた政宗を百合香の小さな叫び声が遮った。 慌てて走り出した彼女は蹴つまずいてピンヒールを片一方落とした。が、そんな事も気にせず彼女はまばらな人波の中に駆け込んで行ってしまった。 「あ、おい…!」 政宗はそのヒールを拾って追い掛けようとしたが、路上を行くタクシーに阻まれて叶わなかった。 行き交う車の向こうに百合香はいた。 閉まった銀行の前で何やら一人の男と話している。かと思うと二人は連れ立って街角の一つを曲がって行ってしまった。 政宗は女物のピンヒールを片手に立ち尽くすばかりだ。 ―――どーすんだよ、コレ…。 元の場所に再び座り込み、傍らにヒールを置いた。 ぼちぼち終電の時間だ。 ケータイを覗くと何件もの着信履歴とメールがあった。成実のものだったり、小十郎のものだったり、家のものだったりする。全部、音とバイブをOFFにして無視したものだった。 ギリギリまで百合香を待った。 何となくだ。 別に、片方靴がなくても男と一緒なら問題はないかと思った。でも、取りに来るかも知れないし、放っておいて捨てられてしまうのもちょっと気が咎めた。 15分程待って、立ち上がった。 さすがに朝帰りをするのはどうかと思う。 「政宗くん」 駅の改札へ向かいかけた足を、女の声が止めた。 振り向くと、片手にピンヒールを引っ掛けて立つ百合香がそこにいた。網タイツの裸足でずっと歩いて来たのか。 「待っててくれたの?靴を拾って」 「帰るトコロ」 「ありがとね」 「別に―――」 「帰るんだね」 「………」 「バイバイ」 ちら、と政宗はケータイの時計を見やった。 「今ので終電行っちまった」 「え」 「どーしてくれんだよ」 「え、えーと、あの…その…」 どうしてそんな分かりやすいウソを吐いてしまったのか。帰りたくなかった、言ってしまえば簡単だ。彼女が気にかかった?そんな事はどうでもいい。 渡りに船、に乗り込んだまでだ。 そっぽ向いて腕組みをする政宗を見やって、それでも百合香は微笑んだ。 「どーしてくれようか、ね?」 そう言いながら。 [*前へ][次へ#] [戻る] |