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―Tell me a reason.―
Floating island.
済んだ食器を洗って片付けた政宗は、傍らに下がったタオルで手を拭いた。水音も絶えた広いキッチンを見渡し、ふうと息を吐きつつシンクに寄り掛かる。―――全く意味が分からない。
元就の考えは常人のそれから完全に逸脱している。正に狂気と言っても過言ではないだろう。だが、彼自身にはそれをそうと自覚するだけの客観性も存在している。何故と問うた政宗に応えなかったのがその証拠だ。聞いた者が混乱を来す、それをも狙っている。
―――本気だか謀だか、さっぱり分からねえ…。
だが、だとしたら明智はどうする。高橋杉恵は人質としては役立たずだ。使い道など一つもない。その身柄を預かる意味はゼロだ。
―――消す、か…?
人の命を何とも思っていない奴のやる事だ、十分あり得る。
「こりゃ…八方手詰まり…か―――?」
思わず呟いた時だ。
台所の外から声が聞こえた。うーんと言うような唸り声だ。まさか、今のちょっとした時間で元就が?と慌てた政宗は台所を飛び出した。
だが、駆け出してみたソファの上で元親は一人何事もなく横たわっている。広いフロア内に元就の姿はなく、寝室への扉も閉じたままだった。
歩み寄った先で元親は、上に掛けられていた毛布を撥ね除け、ソファの上で悶えている。その喉はああ、とか、うう、だとか意味不明の寝言を呻き続けた。悪夢でも見ているのか。
これは起こした方が良い、と判断して政宗は彼の肩に手を掛けて揺すった。
「おい、起きろ」
声を掛けつつ何度か揺する。が、なかなか目を覚まさない。
それ所か肩に掛けていた手を払われ、その弾みにごろり、と元親の体がソファから落ちた。傍らにしゃがみ込んでいた政宗はその体重を膝の上にもろに喰らって尻餅を突いた。
転げ落ちた元親は政宗をクッションにして目を覚まさず、更にはがっしりと政宗の腰にしがみついて来た。
「……毛利、行くなよ…行かないでくれ…」
聞き取りずらかったが、彼はだいたいそんな風な事を口走った。
「…………」
冷徹を通り越して残酷、いや人の情と言うものが欠落した人間に対してこれ程執着するのは、幼い頃唯一自分を理解してくれる存在だったからか。
その気持ちは分からないでもない。しかし、父親を殺された元親だとてそれとこれとは話が違う、と頭では理解している筈だ。今も自分の左目を抉り取ろうとする元就に怯えて自分に頭を下げて来ている。
政宗は、自分の腹の上で顔を伏せて取り縋る青年の横顔を見下ろした。蜘蛛の糸のような白髪は先天性アルビノの特徴だ。元親の左目が赤いのも同様。むしろ右目だけが日本人によく見られる濃いブラウンである事の方が例外と言って良い。
片手の指先で、その左目に掛かる前髪を静かに掻き上げてやった。
眼帯を外したその下に、非道い火傷跡が覗く。
「…目を、あげるって…言っただろ…」
むにゃむにゃと口の中で転がされる言葉にはそんなものも混じる。
「―――浮島は、消えちまうんだ」
それが最後の言葉だ。
元親は寝言をやめて、再び深い眠りに落ちた。
「目をやるから、浮島には行くな―――か」
声もなく呟き、寝室への扉をそっと振り返る。果たしてその事を問い質したら元就は応えるだろうか。いや、多分他者には理解できないと判断して無視をする。幼かった2人が大人たちに理解されなかったように、2人には2人だけの交わされた言葉と想いがある。
―――そうまでしてあいつを守りたいって気持ち、俺だけは呑んでやる…。
掻き退けた細い髪を何度か指先で梳き通す。
人肌の温度に安心したのか、元親はすっかり心地良さげな寝息を立てて、ちょっと阿呆っぽく半開きになった口元を歪めた。

笑みの形に。



カタカタ
コトコト…

微かだが、小気味良い音と、ざわめき出した表通りの車の音に目が覚めた元親は、ソファの足下に転がって横たわっていたのに「何だ?」と思いつつ身を起こした。ソファから落ちた覚えはないが、毛布はしっかりと肩まで被っていた。傍らでは最小出力にされたストーブの上でヤカンが水蒸気を吐き出しており、とにかく久々に熟睡した、と言う実感だけが冬の朝日の中に溢れていた。
台所に入ると政宗が鍋で煮立っているものの味見をしている所だった。
「Good morning.―――相当寝たって感じだな」
「あ〜寝た寝た、ぐっすりだぜ〜。これで一週間保つだろ」
「保つ訳ねえと思うけどな」
何なに、又止まりに来てくれんのか、飯付きで???と調子に乗る相手の向こう脛を爪先で蹴飛ばしてやる。
その場に踞って痛みをこらえる元親を無視して、政宗は出来上がった鍋のコンロを消した。オニオンベースのキャベツたっぷりスープだ。他に、昨夜の鍋の残り物野菜で作った野菜炒めと、今から油を入れて暖めるフライパンでは、既に用意してある溶き卵でスクランブルエッグを作る。フライパンが暖まるまでにトースターにパンをセットした。
ジワジワと油が音を立て始めた所で溶き卵を流し込む。
「おい元親」
「んーだよ」
「浮島ってのは、何だ?」
「ああ?」
元親は、ようやく立ち上がって体を伸ばす仕草をしながらちらり、とその右目を流して来た。自宅では眼帯を着けないらしい、跳ねた前髪の下で火傷跡は露わだった。
「海の水ってのは冬場は気温よりあったけーんだ。だから水面には温かい水蒸気の幕が出来てる。そこに陸地からの風、山から吹き下ろして来る奴な。その冷たくて乾いた空気が流れ込むと光の屈折ってのが起こるんだよ」
「夏場の逃げ水みたいな奴か」
「ん〜、まあ似てるっちゃ似てるか。で、そいつのせいで海の向こうの陸地がもや〜って歪んだり浮かび上がって見えたりする。それが浮島って奴だ」
「成る程、瀬戸内にはそう言うもんが見られる条件が整ってる訳だ」
「まーな。…それ、毛利から聞いたのか?」
「いや」
ざっと炒めて半熟状態で出来上がったスクランブルエッグを、既に野菜炒めを盛りつけてあった皿へと取り分ける。
「お前が寝言で言ってた」
そうしながら返って来た政宗の返答に、元親は急に押し黙った。
「…他に何か言ったか、俺」
「いや、何も」
スープも4人分、スープ皿に注ぎ分けて、8切1斤のパンを焼けば朝食の完成だった。


Floating island.―浮島―




その寺の坊主たちが盥や晒しなどを持って廊下を足早に通り過ぎるのをやり過ごして、女はほんの僅か足を止めた。
一般参拝客や通常の勤行が行なわれる院や殿などではない、寺の宝物などが納められたプライベートスペースだ。このように騒ぎ立てる由縁が見当たらない。だが女は、立ち止まる前と同じ歩調で再びゆったりと歩き始めた。
タイトスカートの中から伸びるしなやかな足が止まったのは、先程の坊主たちが飛び込んで行った一間だ。真新しい木と畳の香りが清々しい中に一抹の不吉が過る―――血の匂いだ。
「……これは…帰蝶様、ご機嫌麗しう…」
薄暗い一間の更に暗がりで、笑気に塗れた細い声が上がる。
女は冷たげな美貌の中の艶っぽい唇を歪めて一言、
「そう言うお前も上機嫌のようね、光秀…」と言った。
「ええ…とても、いい気分ですよ―――」
うっとりとした声とは裏腹に、簡素な椅子に腰を下ろした明智の周囲で坊主たちは慌ただしく動き回っている。血に塗れた晒しを手早く取り替え、何種類もの薬を飲ませ、輸血用の血液パックをセットする。本当だったら手術台で胸を開き、破れた血管を縫い合わせなければならないのに、男がそれを拒否したお陰でこうした手間を掛けねばならぬ。そして男は、瀕死のこの苦しみを一分一秒でも長引かせて悦に入っていた。
「ああ、帰蝶様」
帰蝶、と呼ばれた女はおざなりに男を振り向いた。
「一つ、お願いがあるのですが…」
「お前が、私にお願い?」
光の差し込まぬ影の中で、明智は紙のように蒼白い顔貌を笑みの形に歪めた。
「一生の…お願いですよ」死の淵に立った男はそう言う。
「良いわ、聞いてあげる」
「…預かって頂きたい女性がおります…。あの謀神の義母、です…」
「謀神の義母?」オウム返しに呟いて記憶を漁る。
「まだ執着していたの?お前に目を付けられたら相手もおしまいね」
「まあ、そう仰らず…」
「仕方ないわね、後でこの借りは返してもらうわよ」
ただでは靡かない女の魅力が、穏やかだが冷たい微笑に凍る。
「私の部下が情報を持っております…。宜しく、頼みますよ―――」
最後に男はそう告げて、ああ、と呻きながら身じろぎした。苦痛ではなく愉悦の波に襲われて。
帰蝶は薄い笑みを浮かべながら肩を小さく竦ませる。
あの男のマゾヒズムは今に始まった事ではない。が、それを理解する日は永遠に来ないだろう、と思っている。ただとてもよく働く犬、その程度の認識だ。



Quruli, Fate turns.―くるり、運命は回る―



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あきゅろす。
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