《empty》 失う。 ◆◆◆ 静かに時が流れる。 時折聞こえてくる、ピアノの音と工具の音が耳に優しい。 旧校舎の音楽室に、俺達はいた。 音楽室といってももう使用されていない教室。 机や椅子もなく、この伽藍とした教室にあるものといえば、教室の中央に構える古びたグランドピアノだけだった。 そのグランドピアノの存在だけが、この場を音楽室たらしめていた。 ぼろぼろのカーテンがはためき、遮られていた西日が教室に差し込む。 赤く染められた彼女は、そんなことも気にせずに黙々と作業を続けている。俺は音楽室の壁に寄り掛かって、彼女の作業を見ていた。 ピアノの調律。それは本来学生などには務まらぬ仕事である。彼女の、こと音楽、中でもピアノに関する知識は一学生におさまるものではなかった。育った環境もあるのだろうが、それにしても彼女の才能は異質であった。 「先輩、きてたんだ。気付かなかった」 彼女がこちらを向いて、俺に声を掛ける。 「お前が来いっていったんだろ」 「あはは、そだったね。ちょっと待って」 そう言うと彼女はピアノの大屋根をゆっくりと閉め、工具をしまい、奏者椅子に腰掛けた。 「お待たせ。先輩も座ったら?」 「このままでいい」 隣の音楽準備室に行けば、椅子はあるだろうが、面倒臭かったし、何より長居する気はなかった。 「あっそ」 彼女は呆れたように言う。 「今日は終わりか?」 「うん、あたしレベルじゃこんなグランドピアノ一日掛けても調律しきれないからね」 「そうか、大変だな」 「そうでもないよ、楽しい」彼女は静かに鍵盤を叩いた。完全に調律されてないピアノの音色は、歪んでいて、どこか滑稽だった。「可哀相にね。このコもっと綺麗な声出せるのに」彼女は憂いを帯びた表情で笑う。「このコ、捨てられるんだって」 「年代物だしな。仕方ない」 彼女は頭を垂れ、じっと鍵盤を見つめている。 「だから、調律してるのか?」 捨てられるからか、とは言わなかった。 「わかんない」 彼女は困ったような笑顔を浮かべ、歯切れの悪い口調でそう言った。 「ピアノってさ、いや勿論その他の楽器もそうなんだけど、人間みたいなんだよね。インハーモニシティって要は矛盾した意識っていうか、自分自信そうしたくないけど、そうしちゃう、みたいな。そんな感じじゃない?自我に反抗してるっていうのかな」 「それはピアノの機構上仕方ないことじゃないか。人間とはまた違うだろ」 「確かにそうだけど、案外人の構造もピアノの構造も大して変わらないんじゃないかなと思う時があるの。さっき言ったインハーモニシティなんかがいい例だよ」 「そんなものかな」 「そうだと思う、きっと」彼女はそういうと、スカートのポケットからヘアゴムを取り出し、髪を後ろで一まとめにした。 そして、おもむろにピアノを弾きはじめる。 「おい、まだ調律終わってないんじゃなかったのか?」 「いいの。調整も兼ねて、このコに歌わせてあげるんだ」 彼女はすぅっと息を吸うと、本格的に演奏し始めた。 時が、止まる。 緩んだ空気が一気に張り詰めていくのを、俺は肌で感じた。白く長い指が、絶え間無く踊り、滑らかに鍵盤の上を行き、縦横無尽に駆け巡る。大胆かつ、繊細。彼女の十本の指は、それ自体が一つの生き物のようであった。勿論、その十指は全て別々に動いている。にも関わらず、十指は、彼女という一人の指揮者の下、完璧に統率されていた。 彼女が今演奏しているのは、暗く、陰欝なメロディが延々と続く喪失の曲。彼女の激しい演奏とは似ても似つかない曲目であった。だが、彼女は曲目の本来の曲調を忘れるような愚は犯したりしない。それは存外難しいことで、それが出来るのは完成された、一握りのピアニストだけである。 彼女は間違いなく、完成されたピアニストであった。調律されていないピアノで奏でられた曲だと、誰が思うだろうか。彼女は紛れも無く、神に愛されていた。 ◆◆◆ 「自分殺すのって、苦手」演奏が終わり、彼女は髪を振りほどく。 「お疲れ様」 「ご清聴ありがとうございました」 彼女は奏者椅子から立ち上がると、おざなりな感じに一礼した。 「クラウディアのピアノソナタ第七番『喪失』」 「おお、先輩知ってたんだ」 「誰がお前に、この曲教えたと思ってるんだよ」 「んー、そういや先輩だったね」 彼女は顎に人差し指を当て、思案したようなポーズをとってから、ふざけた口調でそういった。 「変わった曲だよね」 「ああ、確かにな」 俺はそう相槌を打つと、制服の胸ポケットにいれた、携帯電話を取り出した。時刻を確認する。そろそろだな。 「んじゃ、俺は行くぞ。まだ生徒会の仕事があるんだ」 「あ、そうなの?ごめんね。また明日」 彼女はそういって、奏者椅子にとすんと座り、手をひらひらと振る。 「ん、ああ」 俺は肯定したわけでもなく、否定したわけでもないようにただ、頷き、音楽室の扉に手を掛けた。 「先輩」 ふいに後ろから、声を掛けられる。 「なんだよ」 「約束、調律終わったらまた前みたいに連弾したい」 一拍の間、音が消えた。俺は振り返らない。故に、彼女の表情は窺えない。 「曲目は?」 「さっきの」 「考えておく」 俺はそう言い残すと、彼女の二の句を待たずに音楽室をあとにした。 ◆◆◆ クラウディアのピアノソナタ第七番 『喪失』。 彼女を以ってして、変わった曲だといわしめたのにも、それ相応の理由があった。 『喪失』は終わりの無い曲である。比喩ではなく、本当に終わりがないのだ。楽譜の最後にダ・カーポがあり、曲の終わりまで演奏すると曲の始まりに繋がる。 奏者が任意のタイミングで、曲の終わりを選ばなければならないのだ。 正に奇曲である。 しかし、 クラウディアの『喪失』は二種類あって、もう一方のそれはしっかりと終わりが定められているのだ。 クラウディアの連弾曲『二十指のための喪失』。 クラウディアの『喪失』は二人でなら、終わらせることができる。 彼女が演奏しようとしているのは、果たしてどちらの『喪失』なのか。 俺には、わからなかった。 ◆◆◆ 《empty》 is the end... / 《What did you lose?》... / to be continued...《funeral》... ← [戻る] |