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おとなりさん2
 バイトが終了してから、まっすぐ家に帰ってくると土方は適当に夕飯を作って宿題をしてから、シャワーを浴びた。時刻はあっという間に夜の十二時。大体バイトから帰ってきて色々としていると、こんな時間になってしまう。バイトが休みの日にはもっと早く就寝できるし、このリズムでそこまで問題があったわけでもないので、特に不満はないのだが。
 そろそろ就寝しようとベッドを整えて明かりを消そうとした時だった。
 ガタン、と外から物音が聞こえてきて、びくりと肩が震える。一体何事かと慌てて玄関までやってきて、扉を恐る恐る開く。
「え、た、高杉!?」
 薄く開いた扉から外の気配を伺って、真っ先に目についたのは廊下。ちょうど隣の家の前で、男が一人座り込んでいる。土方はスリッパのままで飛び出し、高杉の元に駆け寄った。
「大丈夫か!?」
「……土方?」
「声よわ! ちょっと、体調でも悪いのか?」
「眩暈しただけだ。気にすんな」
「気にすんなって言うなら眩暈して尻もちつくな! 物音で誰だって気になるわ!」
 今の状況下、圧倒的に威圧もすべて勝てるのは土方。
 一方の高杉は、どうやらバイトの帰りらしいが酒臭い。酒臭い上に吐瀉物特有の胃液臭がする。学ランが濡れており、よく見れば頬に切り傷があり、手の甲が血で赤い。
「喧嘩でもしたのか? とりあえず濡れてるし風邪引いたらまずいから……」
「いやいい、離せ」
「いいって言えるような状態を見せてから言え」
 土方は無理やり高杉の肩を担ぐと、ほとんど引きずるような形で開けっ放しの自分の家に高杉を招き入れた。テーブルの前に座らせると、学ランを脱がせて、ひとまず何か飲ませようと、朝に作って冷蔵庫に入れていたほうじ茶をマグカップに注いだ。
「なんかトラブルでもあったか。別に話したくないならいいけど、とりあえずその手の甲は誰の血? お前?」
「ちげぇよ」
「それならいい。でも手も洗った方がいいな。眩暈がマシになったならシャワー入ってちょっと休め」
「あのな、おい」
 高杉の咎める声を無視して、土方はとにかく彼をきちんと綺麗にしてやらなければと風呂場の明かりをつけた。
 どんどんと話を進められるも、反論する力もないのか、高杉は半ばされるがままに風呂場へと向かう。下着の用意はできないものの、着替えは義兄の服がある。土方は高杉が風呂場に入ったことを確認し、脱衣所に着替えを置いた。洗面台で軽く学ランの汚れている場所を手洗いすると、洗濯機に放り込む。こんな夜中に洗濯をするのは初めてだと思いながら、土方は部屋に戻って高杉が上がってくるのを待った。
(一体なんなんだ……酒臭いし……ていうか、まて、もしかして高杉自分の家の鍵開けてるんじゃ)
「やべぇじゃん!」
「なにがだ」
 おそらく風呂場に向かってから二十分ほど経った。不意に声をかけられて土方は慌てて振り返った。そこには義兄が着用していたトレーナーとジャージを着た高杉が立っていた。どうやらサイズ的には問題はないらしくホッとしたのだが、そんなことよりも今はセキュリティー問題。
「高杉、もしかして家の鍵開けたままだったか!?」
「いや、まだ」
「なんだよかった」
 一気に不安になったが、すぐに安心した。土方は吐息して、空になっているマグカップにまた茶を注ぎ、高杉に寄越す。高杉はマグカップが置かれたテーブルの前に、再び座る。頬の傷も大したことはないらしく、今は赤い線が一本入っている程度だった。手の甲の血もすっかり綺麗になっている。
(眼帯が無い。そっか、風呂入ったし……)
 前髪だけで隠れた片目。いつもとあまり変わらない見た目ではあるのだが、少しだけ新鮮に感じられた。
 これは、と高杉がトレーナーの襟ぐりを摘まむ。
「為に……私の兄がうちに泊まりに来る時用に予備で置いてる家着。そこまでサイズ問題なくてよかった。あ、晩御飯って食べたのか」
「いや………そんな暇なかったからな」
「話したくないなら話さなくていいけど、念のため聞いとく。なにがあったんだよ」
 あんなところで眩暈を起こすほど彼は疲弊していた。しかも、きな臭いことに巻き込まれた様子もある。首を突っ込んでしまったのは自分だが、あんな状態の隣人なんて正直嫌だ。高杉はすぐには答えない。土方は、なにも答える気はないのだと判断し、ひとまず明日にでも食べよう思っていた炊飯器の中のご飯で、おにぎりを作ろうと立ち上がった。
「……飲み屋で」
「え?」
「バイト先の飲み会に参加させられて、そこで他の客とうちのが喧嘩になって、その仲裁に入っただけだ」
「飲み会って……お前高校生なのにいいのか」
「面倒だから断ったんだけどよ、ほぼ強制だからな。それで他の客にちょっかいかけてんだから馬鹿丸出しだ」
 どうやら、相手は近隣の大学にある空手部の人間だったらしく、当然腕っぷしも強い。酔っ払っているとはいえこちら側は不利だ。案の定、喧嘩を吹っ掛けた高杉のバイト仲間は一方的に暴力を振るわれる羽目になり、高杉が止めに入った。その際に酒をかけられて、そしてバイト仲間が殴られた拍子に吐き出した吐瀉物もかかってしまったのだという。
「災難そのもの」
「まあな」
「警察には言ったのか?」
「……言えるかよ。俺がいンだからよ」
 ハッとした。それもそうだ。こんな時間まで、しかも高校生が居酒屋にいること自体問題になり得るというのに。それにいくら高校生とはいえ、こんな席で、ほぼ同年代の人間ばかりの男たちが集い、どんちゃん騒ぎで飲んでいたとなれば、高杉も多少のアルコールを摂取してしまっていると考えてもおかしくはない。
 かなり相手の腕っぷしも強く、飲み会とはいえあまり食事をする間もなかったらしく、その上バイトでの疲労も重なっている中ではかなり止めるのにも手こずったようだ。
「喧嘩って仲裁に入るのが一番勇気いるもんな。私も何度か遭遇したけど、絶対こっちが怪我する覚悟で行かないと、なんにも止められないし」
「………お前が去年やらかした喧嘩は巻き込まれたのか?」
 塩昆布を具材におにぎりを二つほど作ると、土方はそれをテーブルにまで持ってきた。だが、高杉はそれに手を付けるよりも、先に土方に問いかける。その質問に、思わず手が止まった。
「……あれは、半分は巻き込まれたって感じ」
「半分?」
 高杉がおにぎりに口をつけたところで、土方は去年の夏の出来事を思い出した。夏休みの渦中だったので、目撃した生徒は少ない。その状況を高杉はたまたま見ていたらしい。
「総悟に彼女取られたってやっかんだ他校の不良が乗り込んできたんだよ。それでたまたま剣道部の手伝いに私が来てたから、私に総悟の場所聞きに来て。用件聞いたらそんなことでさ、総悟見かけるなり殴りかかろうとするから、それで私が止めたんだ。まあ、止めるついでにぶん殴ったけど」
「へぇ」
「今までもそういうことは結構あったんだけどさ、まさか学校にまで乗り込んでくるってのはなくて、それであの時は先生にも目つけられたし散々だったな」
 あくまでも土方は正当防衛。第三者からすれば、不良が沖田に向かって殴りかかろうとしているのが一目瞭然だった。身一つで止めに行った土方は、一躍その場では英雄扱い。しかし学校側からすれば暴力沙汰の事件だ。それを風紀委員の人間が加わったなど、外聞が悪すぎる。
「総悟の応援に来てる女子とか結構いたからさ、あの後めっちゃくちゃこってり絞られて。『女子生徒も多くいたのに巻き込まれたらどうするんだ』とか言われて、私としては結構嫌な思い出だな」
「……変な話じゃねぇか。お前も女なのによ」
「教師の言う女は、『か弱い女子生徒』のことを言うんだよ。私はただの太った人間で、女扱いなんてほぼされねぇよ。そんなこと、昔からそうだったし」
 もう慣れている。嫌に思ったことが無いと言えば嘘になるが、そういう扱いをされ続けると、自分は「女」としての価値はないのだと思えてくる。だからこそ土方は納得ではなく、諦めるようになった。
 その分、女子生徒がなにか危険な目に遭っていたら率先して助けに行ってもなにも言われず、止められることもない。あの喧嘩は、たまたま相手側に複数人いたこと、他校の女子生徒もいたことが災いして、被害が広がることを教師たちが心配したのだ。普段はきっと、そんなこと咎められることも止められることもない。
 カタン、とマグカップをテーブルに置く音が鳴る。きちんと二つともおにぎりを食べ終えてくれて、一言「ごちそうさま」と言われた。きちんと食べきってくれたことが嬉しくて、「お粗末様でした」と皿を下げようとする。
 だが、その手は高杉に掴まれた。
「お前は女だ」
「え、」
「どこからどう見ても」
 ジッと見つめてくる左目。ザワリと胸の内がざわつく。人相が悪いと色々言ってはいたが、今はそんな風に見えない。目つきは鋭いが、今の高杉の目は優しい。長い前髪が揺れると、いびつに縫い合わせたように閉じられた状態の右目が微かに見える。しかし、それがあったとしても高杉の見目はどこに出しても恥ずかしくないほど整っており、存在感がある。圧倒されたせいか、ドキンドキンと胸の鼓動が早くなる。
「あ、あり、ありがと………」
 するりと掴まれた手を指先で撫でられて、緊張してしまう。こんな風に触られたことがない。容赦なく掴まれたり引っ張られたりすることはあった。でも、こんなに慈しむような形で触れてくるなんてことは、一度もなかった。
「別に誰に対してなにを言おうと構わねぇが」
 土方の手に触れていた指先が徐々に離れていき、今度は土方の丸い頬に触れる。いよいよ心臓が飛び出そうな程に高鳴る。こういう時、どんな反応をすればいいのか分からない。男から容赦のない手が伸びてくることはあったとしても、こんなに優しい手は知らない。
 この男は、誰に対してもこんな風に触れるのだろうか。そう思うと、なにも知らない自分が恥ずかしいし、なんとなく寂しい。
「俺の前で、自分を女じゃないって言うな」
「た、たかすぎ、あの、」
 スルリ、と頬から指先が離れていく。どういう反応をすればいいのか分からない。高杉を見るが、彼は顔色一つ変わらない。彼にとってはこれが当たり前なのか、と思うと昂ぶった体温がどんどん冷えていく。男というのはこういうことを普通にできるのか。少なくとも、高杉に関しては。
「美味かった、悪いな」
「あ、うん……」
 それは良かった、と思うのだが、それよりも頭が混乱してしまう。いきなりなにをされるのかと思った。これはひとえに自分が男と話し慣れていないせいなのだろうか。
 皿をシンクに持っていくと、高杉はカップに入ったほうじ茶を飲み切った時点で帰ると言い出した。それについてはなにも止めずに、とりあえず学ランは洗って乾いたら返すとだけ伝えて、高杉を送り出した。



◇◇◇


 日直当番に当たっている朝は早い。といっても、気持ち早い程度なのだが、土方はいつも出発する時間よりも三十分早く家を出た。昨日、帰宅時間が遅かった分、予習もできなかったので、早めに準備をして、始業するまで予習にあてようとしている。施錠をしてエレベーターでエントランスまで下ると、パッと郵便受けのポストが目についた。
「あれ」
 ポストの差し入れ口になにかが挟まっている。一枚の紙程度で、チラシだろうか、と土方はポストに近づいた。ピッと引っこ抜いて裏返す。
「えっ」
 手触りはただのパソコンのコピー用紙。チラシではない。ただ、そこには一言『おはよう』と書かれている。なにこれ、と目が点になる。こんなチラシ見たことないし、こんなものを入れられたのは初めてだ。もしかしたらまだなにか入っているかもしれない、とダイヤルを回してポストを開ける。
 中を覗くと、なにか塊で置かれている。土方はそのひと塊を手に取った。それは白い封筒。どうやらその封筒が十通、いやそれ以上の枚数を輪ゴムでひとまとめにされている。
 ひとまとめにされているこれらは、すべて同じ差出人だろう。そうとしか思えない。なぜなら、真っ白な封筒の種類も、『土方様』と書かれた表面も全部コピーをしたかのように同じなのだ。郵便物がひとまとめになって送られてくることなんて、今まで年賀状くらいだ。土方は一番上の一通を引き抜いて、開封した。
「うわっ」
 思わず声を上げ、目を疑った。
 封筒の中にある、至って一般的な便箋。封筒と同じ真っ白な物だが、半分に折りたたまれたそれを開いてみると、白さなどない。――いや、元々は白かったのだ。
 白い面が埋め尽くされるほどに書かれた、文字。

『好きです。ずっと見ています』
 
 たったその一文が、一面にびっしりと何度も何度も書かれている。まさか、ともう一通だけ開封してみると、同じ文面がびっしりと埋め尽くされた便箋が入っているだけだった。要するに、この封筒の束はすべて同じ内容。
 土方は慌てて手紙を閉じて封筒に再度ねじ込むと、その封筒の束を鞄に押し込み、その場から逃げるように走り出した。
(なんだよこれ、なんなんだこれ、誰がこんなこと。嫌がらせ? ラブレターなんてもんじゃねぇだろ。嫌がらせなんだろうけど、でも、誰が、こんなのが全部?)
 走って体温が上がるはずなのに、底冷えを感じる。段々と速度を落とした。これは恐怖だ。感じたことのない、恐怖。
 気にしないようにして一先ず学校についたら、いつものようにしていよう。ただの嫌がらせなのだ、と思い込み、土方は鞄の中に押し込んだ封筒の束を忘れようとした。
(これって、誰かに相談した方がいいのか。でも別に果たし状とかそういうのじゃないし、嫌がらせにしては別に悪口書かれてるわけじゃないし、こんなの誰に……)
 山崎にでも言った方がいいか、と思ったのだが、土方は気が引けてなにも言えなかった。今回だけのことかもしれないし、そもそも書いてある内容が内容だけに、土方は誰かに見せる気になれなかった。
 見方が変われば、熱烈なラブレター。そんな域を超えているようにも思えるのだが、一般的なそれを知らない。見せたところで笑われてしまわないかも気になる。相談することに、どうも自意識過剰ではないかと言う懸念が生まれるのだ。
「はよ」
「えっ、………あ、おはよ」
 考えないようにしようと思っていたのに、予習をしている間もずっと同じことを悩んでいた土方は、いつの間にか無人ではなくなった教室の状況にやっと気づいた。すでに教室にはほとんどの生徒が登校してきており、今声をかけてきた高杉が最後の一人と言っても過言ではない。
「どうした、顔色悪いな」
「あ、えっと……そうでもねぇよ」
 顔を逸らして、土方はふとあの封筒の束が存在する鞄に視線を落とした。
(そうだ、高杉に相談)
 そう思ったところで慌てて止めた。山崎以上に、こんなことを相談しても高杉が困るだけだ。ただのクラスメートで、ただの隣人。特別友人というわけではない。
 いよいよ、なんでもないと言うしかなくて、土方は俯いた。
 その日、土方はバイトが休みで、学校が終わるとスーパーに買い物に寄ってからまっすぐ帰宅をした。そして、マンションについて絶望した。
 郵便ポストを開けると、チラシや夕刊と一緒に、今朝と同じ封筒の束が入っていた。




あきゅろす。
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