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ゴーストインラビリンス1
 待ち合わせ場所は、駅前から徒歩十分ほど歩いた先にあるコンビニ。緑色の明るい店構えの前に訪れれば、自動扉のセンサーが反応してうっかりと軽快なチャイムと共に扉が開いてしまって、建物の角へと移動する。喫煙スペースが近いせいで、煙が漂ってくる。仕事が終わるのを待ってほしい、という待ち合わせ相手の要望も、快く受け入れた。それが自分の仕事だから。自分の縄張りともいえるネオン色めく通りから場所は離れているが、美味しいご飯を食べてお店に行きたい、というお客様のご要望には笑顔で引き受ける。それでおまんま食べて生きてきているのだ。嫌な顔になんてなるわけがない。
 しかし、今日はどうにも調子が悪い。ホストクラブ【Argento Anima本店】の二年連続ナンバーワンに君臨し、今では新人教育係とエリアマネージャーまで兼任する立場である坂田金時は、これから始まる狂乱の時間を前にしてハア、と重い溜息を零した。
 体温は平熱。喉の調子も鼻の調子も万全、昨日のアルコールだってもう消化してしまっている。肝臓の強さだけは店のホストで誰にも負けない自信がある。
 しかし、どうにも今日は頭が痛い。身体がなんとなくだるい、というのは、二十歳でホストになってから初めてのことだ。初心者らしい不安だとか色々昔は付きまとったはずなのだが、金時にとってこの仕事はいわば天職。大学に通いながらもホストとして頭角を現し、八年、今日という日まで生きてきた。色々あった。酸いも甘いも噛分けてきたのだが、原因不明の身体のだるさに見舞われることなど、これまでなかったのだ。
 ガラス張りの建物に自分の顔が照らされる。なんて辛気臭い顔だろう。日本人離れした顔立ちはちょっとした変化で大いに表情が変わる。お客様はお姫様。金づるなんてひどい言い方はしないし、そんな認識はない。自分が施すサービスに対して、相応の大金を投じてくれる、ある意味シビアなお姫様。そんな姫君を前にして見せる物じゃない。
(……右肩かな、凝ってんのかな………)
「あの、」
 左手でギュムギュムと自分の右肩を揉みこみながら、金時は首を左右に曲げる。そんなものは気休めで、明日はオフだから整体に行こうか、と思案している時だった。ハスキーだが、通りの良い声が右側から聞こえてきた。
「あの………」
 もう一度かけられた声は先ほどよりも遠慮がち。金時は振り返って驚いた。自分よりも頭一つ分ほど低い背の、学生服を着た男子がそこにいる。それは特段驚くことではなく、彼の見目だ。
 学生服よりももっともっと深い夜の闇のような色をして、ダメージを知らない艶やかな黒髪。吊り上がって、どちらかというと鋭い瞳。それでもまあるくビー玉のような幼さがあり、髪の毛よりも深みのある黒目。色素の薄い、年の割に荒れが一つもない肌。すらりと長い手足。長い睫毛で彩られた瞳がジッとこちらを見詰めてくるものだからたまったものではない。これは上玉だ、とホストクラブの新人を選定する面接官も携わっている金時は、思わず値踏みするような目で彼を見てしまった。
 だが再び「すみません、」と声をかけられて、ハッとした。今彼に声をかけられて振り返ったのに、なにも反応しないなんてこれほど失礼な話はない。それなら元から聞こえないふりをするべきだ。それも人としてどうかとは思うが。
「ご、ごめん、なにかな」
 年齢差に合わせて金時はやっと返事をする。男になんて興味はないし、優しくする義理もないのだが、先程までの自分の不躾な視線や非礼もあって、金時はできる限り下手に出ることにした。
 すると名も知らない美少年は、鞄からおもむろにメッシュ生地の黒いペンケースを取り出したかと思うと、そこから小ぶりなハサミを取り出した。これにはギョッとして、今度は少し大きな声で「え、本当になに!?」と言ってしまった。
「……すみません、あの、スーツの仕付け糸……」
「えっ」
 ついてるのが見えたんで、と申し訳なさそうに少年は言う。金時は想定をはるかに超えた(いや特になにも想定なんてしてなかったのだが)言葉に、間抜けな声を上げてしまった。そして意味をすぐに把握して、焦りを覚える。嘘だろう、と。そんなもの今まで忘れたことなんてなかったのに、まさか。金時は慌てて振り返り、背中に回した手でスーツの裾を摘まんで引っ張り、視界に入れた。
 本来、ひっくり返ったV字になっているはずのベント。それが開いておらず、シックなネイビーのスーツに対して白い糸で繋がれている。これはまずい。冷や汗がタラリと背筋を伝い落ちる。なんせこれから会うお姫様から、先週贈られたばかりのイタリア製のスーツなのだから。
「俺、ハサミ持ってるんで、ちょっといいですか」
「あ、ありがとう」
 だからハサミだったのか。金時はやっとやたら見目の良い少年の行動に合点がいって、頷いた。これは助かる。まさか大恥をかいてしまうことに、という危険は回避できた。
 プチン、とハサミの刃を入れて糸を断ち切ると、結び目を摘まんでするすると糸を引く。先ほどまで閉じられていたベントは綺麗に三角形に開き、形も良くなった。
「ごめん、助かったよ、ありがとう」
「……いえ、」
 少年はハサミを仕舞う前にちらりと金時の右肩を見上げる。そのままジッと見つめていたかと思うと、「ちょっとだけ、もう一度いいですか」と聞かれた。すっかり油断や警戒もなくなった金時は柔らかく微笑んで「なにかな」と問うと、少年はハサミを持っていない手で右肩にそっと触れる。自然と金時は前屈みになり、一気に少年との距離を詰めてしまった。学生服から、ほのかに柔軟剤の匂いがする。そんなありがちなことに動揺するほど青臭いわけでもないのに、なぜかドキリとした。
 シャキン。ハサミが右肩を、というよりも空を切る。もしかしてまたなにか糸が出ていたのだろうか。仕立ての良いスーツに限ってそんなことはないとは思いはするが、もしかしたら仕付け糸が残っていたのかもしれない。
「これでいったん大丈夫です」
 そう言われて、少年が離れていく。静かに消えていく柔軟剤の香りに名残惜しさを感じながら、金時は再び「ありがと」と言った。しかし少年は、小さく会釈をした程度で、特に表情を変えることが無い。白い肌も相まって、どこかひやりとした冷気を纏っているような雰囲気すらある。
 少年が黙ってハサミをペンケースに仕舞うと同時に、ピンヒール特有のカッ、カッ、という鋭い足音が徐々に近づいてきて、「金ちゃん!」という若い女性の声がした。近づいてきたミルクティブラウンに髪を染め上げた見慣れた女性が見えて、金時はにこやかに笑みを浮かべ、ひらひらと手を振る。ごめんね、と遅れたことに軽く謝りながら近づいてくる彼女に、金時は「全然」と笑って見せる。会いたかったよ、という甘い言葉を吐く前に、金時はふと右隣りに振り返る。
 あれ、と固まった。そこにもう人がいない。先ほどまで自分と寄り添うように立っていた少年は影もなく消えていた。悪いと思ってすぐに立ち去ったのだろうか。
(まあいっか)
 名前も知らない、いわばすれ違った程度の人間だ。金時は気にすることをやめて、近づいてくる彼女を受け入れる気持ちに心を切り替えた。
 スーツ似合ってる、と喜色を滲ませてうっとりと言う彼女に、「君のセンスがいいからね」とありふれた文句を口にして、手を伸ばしてくる彼女にそっと右腕を差し出す。絡められるほっそりとした腕。そこには先ほど香った柔軟剤の優しい香りはなく、ハイブランドの甘くスパイシーな香水の香りがあった。
 そういえば、先程までなにを悩んでいたんだっけ。金時は右肩にあっただるさをすっかり忘れて、今日のお客様一人目をエスコートすることに集中をした。


 ◆◆◆

 ホストクラブ【Argento Anima】は東京、名古屋、大阪に展開する店。
 金時が在籍をする東京本店を仕切るオーナーは、志村新八という男。金時と同い年ではあるが、ホストクラブでの勤務経験は金時よりも二年長い。実家の財政難で、と始めは裏方として勤めており、そこからバーテンダーに転身。そしてホストとなった。ホストとしては金時よりも売り上げが伸び悩む時期は多くあり、お世辞にも売れっ子ホスト、とは言えなかった。だが彼は営業面では非常に長けており、店舗指揮の才能もある。いわばこのホストクラブを全国展開にした立役者でもある。金時と知り合ったのは、金時が初めて務めたホストクラブに彼がたまたま在籍しており、彼が新しい店舗を任されることになった折り、金時がホスト一人目として引き抜かれた。
「お疲れ様、金ちゃん。あら、今日はなんかご機嫌ネ。子猫ちゃんからご褒美でも貰ったアルか?」
 休憩に入った金時の元に現れたチャイナ服の美女。
 オーナーの新八を直接雇用するのがこの女性。きわどいスリットが入った、真っ赤なチャイナ服も見事に着こなすプロポーション。赤いルージュが良く似合う白肌の美女は、金時が腰掛ける安っぽいパイプ椅子の前の、これまた安っぽい事務用のテーブルに腰掛けて金時の頬を赤いネイルで彩った指先でつるりと撫でて、顔を覗き込んできた。
 チャイニーズマフィア【夜兎】の一人、神楽はこの【Argento Anima】を取り仕切る人物でもある。金時との付き合いも非常に長く、どちらかというと仕事仲間というよりは昔からの付き合いも含めてほぼ腐れ縁であり、飲み仲間、時には家族のような関係性でもある。今はそれぞれが多忙で叶わないが、昔はよくこの辺りを飲み歩いたものだった。そんな神楽は金時をとびきり気に入っており、非常に高く買っている。
「キスとボトルをもらったよ」
「なあに、随分情熱的なキスだったの?」
「んーロマネコンティ三本分くらいかな」
 それはいいわね、とくすくす笑う神楽は妖艶だが、幼さが若干残る。見事なプロポーションではあるのだが、彼女はまだ年に換算するとかなり若い。早い内からこの世界に足を踏み入れて、金時と共に渡り歩いてきた。彼女にとって金時は大事なビジネスパーソンである以上に、兄のような家族めいた感覚を持っている。
「そういえば、今日すごい美少年見て」
「美少年? 金ちゃんそっちの趣味もあった?」
「いやないない。……でも、将来有望って感じの見た目してっから」
 金時は、今日の同伴出勤の前に出会った中学生らしい少年を思い出した。
 思い出補正というのは、実際の記憶をはるかに美しく見せるもの。だがそんな補正すら追いつかない。ただ可愛いだけではなかった。芯があって、どこか禁欲的で、人を寄せ付けるのに踏み込ませない魔性の雰囲気。
 どちらかというとショックだった。こんな人間がこんなところにいるなんて。こんな職業をしている以上、見目麗しい人間はたくさん見てきた。それこそ「我こそは」とホストに志願してくる男性は、ピンキリあっても世間的には「イケメン」と評される男性が多いのだから。それがたとえ、作り物のそれであったとしても。
「そんなに上等な子なら、今度会ったら唾つけといてヨ。こっちの間口を開けときますって」
「神楽ともあろうお方が唾なんて言うなよ」
「あら、私の唾つけられたい男がこの世に何人いると思ってるネ」
「うーん、星の数」
 合格、と神楽が軽く金時の頬にキスを落とした。
 ほどなくして神楽の元に、新八がやってきて、少し時間が欲しいと言いに来た。おそらく簡易の打ち合わせに入るのだろう。神楽は新八について休憩室を出て行く。明日の夜空けておいて、と言い残して。
 ハイハイ、と軽く振る左手。バタン、と無機質な扉の閉まる音が狭い室内に響き渡り、金時は左手をそのまま右肩に添えた。肩凝ったな、と再び感じるだるさに首を左右に揺らしながら。


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