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夕刻7
 
 
 彼の名前は、マナと言うらしい。マナは、ぎこちない笑いを向けていたであろう私に、


「そう、かたくならなくても大丈夫ですよ。では行きましょうか?」


 手を差し伸べてくれた。
 人買いであったとしても、彼は悪い人ではないのかも知れない。……そう考えてしまうのは、いけないことだろうか?

 私はマナに向かって黙って肯いた。


―――*−*−*―――


「クレハー、ちょっとこっちを手伝ってくれっ!」

「はい、少しだけ待ってもらってもいいですか!? 今終わらせますから」

「おうっ! 至急頼む」


 なじんだなぁ……。

 思わず、苦笑をもらす。


 あの日、マナに連れられて着いた場所は町で話題のサーカス団体の楽屋だった。

 うわあ……、どうしよう。私なんか見せ物にもならないよ。
 これまた数奇な場所に連れて来られたものだなぁ……。一発芸なんて、無理なのに。

 場違いにも、程がある。今こんな所にいることも、こんな事を考えていることも。すっ……と視線を上げると、奥の方からいかにもな格好をした男が出てきて。
 いかにも、団長服。シルクハットに、タキシード。私の偏見かもしれないけど、これ以上にサーカスに相応しい格好の男がはたしているだろうか! ……なんて。

 その人は、私の姿を目にとめるとニカリと口角を上げた。


「はじめまして、私がこのサーカスの団長をしているんだ。歓迎するよ、クレハ」


 ――歓迎するよ。
 私は、軽く頷き返す。

 その後、訝しむ視線しか向けていなかったであろう私をつれて、団長はいろいろな場所を案内してまわった。マナと名乗った彼は、仕事があるらしく、何処か別の場所へ行ってしまった。


 ――この人は、私と一緒にいて大丈夫なのだろうか。


「ん……? あぁ、心配しなくても大丈夫だよっ! 私の仕事はもう終わったからね!」

「――そう、ですか」


 別に、誰も聞いて無い。
 私の態度など気にせずに、団長はその間にも、あれが衣裳部屋だのライオンの檻はあそこだのと色々な場所の説明をしてくれている。

 全てをまわり、再び最初に団長とあった場所まで戻ってきたとき、団長はくるりと私の方へ向き直った。


「では、改めて。私が、ここのサーカスの団長です!」


 ――私も、名乗った方がいいのだろうか。


 団長は、にこにこと笑うだけ。
 初対面の相手には、名乗るのが礼儀というものだろう。相手は私の名前を知ってるかもしれないけど、私はまだ名乗っていない。

 仮にもこれから『お世話』になる相手だ。……ヘタしたら、殴られるかもしれない。


 でも、私にだって、嫌に感じることくらいある。私は『私』の名前を名乗りたくない。
 私の名前は、幸福な時にしか名乗ることを許さない。

 ――ここでの私は、お父さんとお母さんの子どもじゃあ無いんだから。

 ――待っていたら、『私』をむかえに来てくれる?


「柊クレハです」


 団長を、しっかりと見据えて私は力強くゆっくりと名前を発音する。


「柊クレハ。私はヒイラギ・クレハです」

「……ようこそ、クレハ。私たちは君のことを歓迎するよ」


 ――こんにちは、柊クレハ。
 ――さようなら、クレハ・ウィリアムス。


 『私』は私に戻る。


 

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