妖戦雲事変
弐
ナイトメアが、悲鳴とも咆哮ともつかぬ声を上げた。
「どうしたっ!?」
あまりに突然の出来事に、脳が状況を把握しきれない。だが圭介は、その傷跡に見覚えがあった。昨日、襲ってきた妖を倒す際、伊勢が付けたものによく似ている──
「おまっ……え……?」
勢いよく振り返ったが、そこにいたのは、伊勢ではなかった。
猩々緋の髪に、橙の瞳をした男。顔には左頬から鼻にかけて、縫ったような痕があり、黒を基調とした着物の、大きくはだけた胸には晒が巻いてあるのが見える。
知らない男にポカンとした圭介だが、その男の手から伸びた爪が、血に濡れているのが目についた。
こいつは──妖だ。
男は爪に滴る血を、ペロリと舐めた。
「……美味だね、保昌」
「おいっ、何して──」
「黙れ、黄金比」
男は、ビシッと圭介を指さした。
「食事の時間を邪魔するな」
「何が食事だ……っ!」
圭介は男を睨みつけた。恐ろしかった。この男、ただの妖ではないと、圭介の感覚が告げる。だが、睨まずにはいられなかった。
「血は好きだよ。でも本当に欲しいのは、黄金比の血だ」
爪に付着している残りの血を、綺麗に舐めとりながら男は言った。
「しかし、保昌の血もなかなかいい……綱も良かったが」
「てめぇ……」
クックッと笑う男の方を、倒れた姿勢のまま、レイグスは睨んだ。かすれ声で、その名を呼ぶ。
「茨木童子……ッ!」
「な、なんだって!?」
みんなが“あの方”と恐れ呼ぶ者。かつて伊勢と一緒に、都を荒らし回ったという鬼の名──
「蛇沙那、だ。もう思い出すこともないだろうけどねっ!」
予告なしに、蛇沙那がこちらに向かって飛び出す。
目で追いきれない、超人的なスピード。妖だから、超人的と言うのは変かもしれないが。
「……っ!?」
本当に一瞬だったかもしれない。気づいた時には、目の前に蛇沙那がいて、右手の長く伸びた爪を振りかざしていた。
「さよなら、黄金比。綺麗に食べてあげるよ!」
だが圭介は、その攻撃を受けなかった。爪が圭介に届く寸前に、何かが間に滑り込んで来て、それを弾いた。
「させない……」
それは人だった。濃紅のローブに、桑染色の長い髪が流れる。
声から男か女か判別できない。圭介に背中を向けて立っているので、顔もわからない。
警戒してか、蛇沙那は一旦退いた。
「圭介君!」
その時、自分の名を呼びながら誰かが走って来た。
「スザア……ッ」
知った人物の登場に、圭介は安心感から泣きそうになった。
「……玉兎銀蟾、か」
蛇沙那は不満そうに、彼らを見た。
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