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Drr×02 医者と影




目を開く前からとてつもなく,嫌な予感がした。
一方的な会話を続ける男性の声と,何かを叩く音。
男性の声と同様に,叩く音も軽やかでまるで,その音とだけで男性が話しているのではないか,と瞼の裏で錯覚する。
その奇妙な世界に,とてつもなく,嫌な予感がした。
そしてその予感は,重い瞼を押し開けて瞳に映された視界を通して見事に的中する。


「あ,目が覚めたみたいだね」


にこり,と優しげに笑んで目を薄く開いた者に声をかける男性。
先刻から話していた声と同じ事からして,その男性が瞼の裏で聞いていた声の主だというのがはっきりした。
ソファーに寝かされていた者は男性を一瞥すると,ゆっくりと上半身を起こす。


「どこも怪我してないみたいだけど………大丈夫?頭痛やめまいはない?」

「いえ,何も」


男性の問い掛けに短い返答をした,透き通るような白髪に,黒々とした瞳を持つ少女。
抑揚のない淡々としたアルト声に男性は眼鏡の内の瞳を大きくする。


なぜ,驚いているのだろう,と少女が不審に思うと同時,男性はズイ,と顔を近付けてきた。
少女は彼が顔を突然近付けたのにも動揺する事なく,彼を観察する。
彼が見ているのは自分の髪と瞳の色だと理解した。


「いやー,てっきり僕は君を随分年を召している老婦人かと勘違いしていたよ。この白髪だったからね。けど,それにしては肌にシワ一つないし,肌のツヤも衰えてなんかいない。すごいよ!髪を白色に染めた形跡も無い。それって自然に白髪になったって事だよね?どうしてこうなったのか凄く気になる! 是非とも解剖をぐぼはっ」


目の前で長々と語っていた男性が突如,少女の前から姿を消した。
否,意図的に消し去られた。
男性は何かに飛ばされ,床をズリながら数メートル離れた所で止まった。
未だにソファーの上に居た少女は目を一度瞬かせたあと,先程まで男性の隣に居た人物を見る。
その人物は手に持っている何かを慣れた手付きで叩き終えると,それをソファーに座る者に向けた。


『あれは気にしなくて良いから』


簡潔な説明。
なのに,そこにはあからさまに呆れが現れているように見えた。
そのPDAに写し出された文字に一度頷き,奇妙な世界,と感じたのはこれのせいだったのか,と気付く。
そして少女はもう一つ,奇妙な事に気付く。
首から上が空気のように影がうごめいて微かに消えている。
不思議,奇妙と思うが,違和感という心情は抱かなかった。


「…聞いても良いですか?」

『何だ?』


成り行きに一段落し終え,気になっていた事を問う。
すると,影は一度PDAを自分の目の前に戻し,すぐに打ち込むと再び画面を少女に向けた。
影の了承を受けて,少女は本題を問う。


「此処はどこですか?」

『此処か? 此処はあいつのマンションの部屋だ』


再び写し出された画面を見た後,影の指差す方向を見た。
そこにはいつの間にか復活した男性が打った頭をさすりながら床の上で座っていた。

少女の視線に気付いた男性が応じるように,手を上げて微笑む。


「…そう,ですか」


ボソリと呟く少女。
その瞳は無感情だった。
そんな少女を気遣うように影が目線を合わせるようにソファーの前に座り込み,文字を打ち込んだ画面を向ける。


『…君は……このマンションの前で倒れていたんだが…どうかしたのか?』

「倒れていた…?」

『覚えていないのか…?』


聞いた影に聞き返す少女。
何かを悟った影は求めるように男性を見る。
その意味が分かったのか,男性もすぐさま立ち上がり,少女に近付く。
影が少女の前から離れ,入れ替わるように男性がソファーの前に座る。
その顔はさっきのにこやかな雰囲気ではなく,真剣な顔で,少女も少なからず緊張した面持ちになった。


「…名前,言える?」

「…」


真剣な目で見てくる男性に少女は微かに首を横に振った。
そうか,と小さく頷いて傍にあった黒い鞄の中から一冊のノートを取り出す男性。
そしてそのノートの表紙を少女の前に出して指差す。
そこには小さくも大きくもない,普通の字で文字が書いてあった。


「……糸瀬…思希」

「うん,恐らく君の名前だと思うんだ……どう?何か覚えてる?」


首を傾げながら優しく問い掛ける男性。
少女はしばしその文字を見つめていたが,顔色一つ変えずに首をまた横へと振る。
男性もまた小さく頷くと,次は白衣の胸ポケットに入っていたボールペンを少女に差し出す。


「これを正しく使ってみて」


何かの試験のような男性の物言いに不思議に思いながらも,少女はプッシュ式のボールペンを親指を使って正しく芯を出し,白紙のノートに薄く線を引いた。
うん,と頷きながら,男性は少女が返すために差し出したボールペンを受け取り,胸ポケットへと戻した。


「君は典型的な記憶喪失だね」

「…記憶喪失」

「どうしてそうなったのかも覚えていない,名前すら覚えていない。典型的な記憶喪失。でも君はまだマシな方だ,一般的な事は記憶にあるようだからね」


記憶喪失,という言葉を二度言って強調する男性。
日常生活においては問題は無いのだという。
少女はその説明を他人事のように聞いていた。
実感が湧かないわけではない。
しかし少女はなぜか,自分という存在はそういう作りになっているのだ,と不思議と感じていた。


「普通は警察にでも預けたりするんだけど…その様子だと一人で交番まで行けないよね。僕とセルティが連れて行くわけには行かないし…」


腕を組んで考え込む男性。
男性や影が交番には行けない理由や,セルティ,という聞き慣れない言葉などの事を気にはしたが,少女は構わず男性に応じた。


「…大丈夫です,一人で行けます」

「いや,ダメだ。夜の一人歩きは危険極まりない。女の子なら尚更だ」


少女の言葉にすぐさま否定を述べる男性。
少女は今の時間が夜なのだと初めて知る。
暫く考えていた男性に,影が画面を向けると,次は画面の文字を少し変えて少女へと向けた。


『…落ち着くまで此処に居れば良い』

「うん,それが良いよ!さすがセルティ!」


にこやかに笑う男性に,セルティと呼ばれる影はPDAを静かに懐へと閉まう。
そんな彼らに少女は静かに頭を下げ,礼を述べた。

















嫌な予感は何に的中したのか。





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