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二次創作/夢
此の世で最も有り触れた呪いはT
愛よ、受胎せよ










「求めよ、さらば与えられん」そう言った人が居たという。人であったか?いや、分からない。それはそれとして、求めなければ、手を伸ばさければ得る物は無いという事には同意しよう。

だからこそ、欲しているのなら手を伸ばせ――私が掴めるように、私が取り零さないように。














ジャリ、と座り込んだ地から薄い布地と砂が擦れる音がする。


「愛しい子、可愛い子。健やかに育ってちょうだいね」


暗い昏い木々の中に、か細い女の声が木霊して沈む。女の腕には、3歳程になるであろう娘が抱かれていた。女の唇はひび割れ、頬は骨に沿って痩けている。黒々とした髪はひどく傷み、無造作に引っ詰められているだけだ。大きめの衣服に隠された身体は、ひと目で分かるほどなよ竹の如く頼りない。娘も例外ではなく、女の膝に無造作に乗せられた足はひどく細く、生えたての新芽のようだ。それでも頬はまあるく柔らかく、いたずらに触れる女の指を確かな弾力で押し返す。むずがるようにふるりと震える目蓋は、いとけなさを残していた。それを見て笑おうとしたのか、女の目元が僅かに盛り上がった。しかし唇からはただ滔々と音が漏れるばかりで、笑みなど浮かべられもしない。


「可愛い子、大事な子、貴女に私の総てをあげる。だから生きてね、どうか、」


本来なら年頃の女らしく鈴が軽やかに鳴るような声であっただろうに、その音は空気を僅かに震わせるしかできない。しかし、その言葉には力があった。どうしたって譲れない願いがあった。

―その源は愛。

母が子に捧ぐ、最初の贈り物。最も身近で、贈るに容易く、時に御し難いもの。
そこには純然たる想いしか無かった。一つの濁りもなく、打算もなく、溢れて止まらぬ我が子を想う気持ち。


「どうか、悲しい思いをしませんように」

「どうか、苦しみませんように」

「どうか、普通の幸せを掴めますように」

「どうか、愛される子になりますように」


「私の総てを捧げます―

――■■■■様」

















 



「わざわざ俺に視察に行けって?どういうことだよ」


若人には珍しい白銀が、嫌そうに頭を後ろへ反らした反動でサラリと揺れた。主人の不機嫌そうな声音に顔を上げることが叶わない男は、しかし平静を保ちつつ言葉を続ける。


「上が、貴方にこそ相応しい相当の案件であると判断したと見るのが宜しいでしょう。どうかお引き受けを」

「聞いた限りじゃあ悪い事なーんも無いじゃん。ある街の一角を起点として異様に呪霊が発生しない、なんてそれこそ窓に調査させれば?俺が出る意味が分からないっつーの」

「……悟様」

「あーあーうるさいなあもう。お前下がれよ」

「悟様。
貴方が上の人間を好ましく思っていないのは重々承知です。ただ、今回は上の了承を得ながら駒を増やす良い機会かと」

「…駒?」


青年への過渡期に入りつつある少年は、つらつらと諭される中尻に敷いていた座布団をズルッと抜き出して二つ折りの枕にし、背を向けてだらけ始めた。そんな主人の姿にやや眉をひそめながら、男は興味という天秤がやや傾いた事を感じて畳み掛ける。


「お分かりでしょう、まさかそのような現象が原因もなく起こる筈が無い。その原因にいち早く接触できるのが貴方なのですよ、存分になさったらどうなのです?
悟様は年に似合わず老獪なじじ…失礼、上役の方々に負けないほど口が上手くていらっしゃる。相手にもよりますが、その呪霊を寄せ付けない何かを貴方の手中に納めてしまえばよろしいのです」

「ふーん…」


ゴロリと畳の上を転がって上半身を起こした少年は、頬杖をついて初めて男と目を合わせる。剣呑な光を宿していた瞳は、先ほどとは打って変わって上機嫌に細められていた。


「…俺、お前のそういうとこ結構気に入ってるよ」

「それは光栄ですね。では支度を」

「あっ今からなの?いい度胸してんね、お前」


さあさあと敬っているのか舐めているのか分からない態度で急かしてくる男に、しょうがねえなあと少年―五条悟はのろのろと動き始める。口振りの割に、どこか嬉しそうで楽しそうなのは、決して男の気のせいでは無かろう。溢れんばかりの才能の塊、そう扱われ続ければまともな人間性など育つはずも無い。だが、一部にはたとえどんなに強かろうと人であるべきと、年相応の扱いをする者もいる。そういう者たちが居て今の自分が在るのだと、少年は幼い頃から悟っていたのである。とはいえ、実力に裏打ちされた高慢さは拭えないけれど。
室内用の浴衣から動きやすい洋服に袖を通しつつ、少年はふと思った事を男に聞いてみることにした。


「でもお前さ、その疑似神域の原因が何か分かってるの?俺に下せるって思ってて駒にしろって言ってんだよな」

「…さて、ある程度の予想は付きますが」

「何?勿体ぶんなよな」

「いえ、確証が無い事は真実足り得ない。要らぬ先入観を抱いて任務に望めば、叶うものも叶わぬというもの。
―まあ一つ上げるとするならば、その街の一角は複数の稲荷に囲まれた土地に限られる、ということです」


私からお伝えできるのはそれだけですね。しれっとした顔でそう述べるに留めた男に、少年はじっとりとした視線をお見舞いした。


「うげえ……それ絶対神霊の縄張りじゃん。めんどくさ!上は俺に何をさせたいわけ?」

「貴方の有用性を確かめたいのでしょうねえ。だからこそ与えられた任務に隠れて貴方も好き勝手やり易い。上手くお使いになることです」

「まあいいや。俺は駒が増えるかもしれないし、お前にも何かしらのリターンがある。日頃世話になってる礼を返すと思って乗ってやるよ」


誠実そうな男の顔に綺麗な笑みがニコリと乗る。少年も烟る睫毛を揺らしつつニヤリとくちびるを歪める。悪戯な光を宿す瞳は、髪と同じく稀有な蒼さで輝いていた。


「そう思ってくださるなら、普段から稽古を逃げ出さずにいて下されば私も安心なのですがねえ」

「あーあーーー聞こえません!!!」


















* * * * * * * * * *

















ザフ、と音を立てて消えていく様は、砂が風に紛れて飛んでいくような有様であった。そこにはややも残穢が蔓延っていたが、それもやがて局所的な旋風によって洗い流される。
人々はそれに気が付きもせず、京都の観光名所を楽しもうとパンフレットを片手に賑やかなものだ。見えていないのだから気に掛けようもないのは当たり前だが、それにしたって数が多過ぎた。雑踏を緩やかなそれが通る度に消えていく黒い靄は、およそ数え切れないほどである。


「おお…なんとも珍しいものを見た」

「…?どうなさったのです?」


入り組んだ小路の先、坂の上に位置する寺の塔に居た和尚は、幾重にもなる目尻の皺をより深くしつつ旋風をじいと凝視していた。己とて感じることはあっても見ることはほぼほぼ無いのだ。珍しい気持ちから声も跳ねよう。弟子の問いかけるような視線を理解してはいても、和尚はとうに過ぎ去った風の名残を追いかけずにいられなかった。


「畑違いとはいえ、お狐様を見る日が来ようとは」

「はあ…」


弟子はどうやら何も感じず何も見えなかったらしい。気の抜ける相槌を打つばかりで、和尚の染み入るような感動には気付かず仕舞いであった。余韻に浸り小路を見下ろす和尚に、時間が迫っていると無情にも急かしてくる。

―やれ情緒も何もない、私は今奇跡を目にしたと言うに。

そんな風に考えられているとも露知らず、弟子はとうとう焦れたのかグイグイと和尚を方向転換させて背中を押してくる。必要以上に敬えとも思わないが、仮にも教えを乞う立場だろう、と和尚は内心腹を立てた。
神仏が遠くなった時代だ。その教えにどれだけ身を捧げても、届かぬものは届かぬ世になってしまった。だからこそ、稀有なそれは強く和尚の心に焼き付いた。


「しかしお狐様は、どうしてこのように姿を現したのだろうなあ」

「ほら行きますよ、和尚様!時は流れるままに過ぎ去るのですから」

「ああ全く、そんなことは分かっているとも。今行くよ…」


急かしに急かされてしまった和尚は、ぼやきを漏らしつつ名残惜しさを小路に残してその場を後にした。

それと同時に、寺に程近い稲荷の奥で一人の少女が閉じていた瞳を開く。音もなく軽やかに駆けてきた柔らかな浅黄蘗(あさきはだ)の獣―どこか神々しい狐は、少女の足元に2、3度頭を擦り付けて鼻先をその掌にちょんと添えた。


「ありがと、私から離れてもお稲荷さんの近くだと動けるんだねえ。すごいねえ」


よしよし、良い子良い子。
のんびりとした声音でそう言って、少女は顔を綻ばせる。まあるく盛り上がった頬は、ふくふくとして赤らんでいた。ふんにゃり下がった眦は潤んで、今にも黒曜石のような瞳が零れ落ちそうだ。稲荷を取り巻く木々の隙間から射す光を浴びると、瞳は夕と夜の僅かな境に生まれる色で輝いた。
一頻り褒められて満足したのか、狐はするりと空気に溶けて消えた。それを当たり前のように見ていた少女は、鳥居の奥へと歩を進める。それからくるりと体を反転させ、また鳥居へと歩を進めていく。先程と違うのは、道の中央を通っていること、ただそれだけだ。そしてゆったりとした足取りのまま、鳥居の境を越える。鳥居を潜り切った後には、生憎の曇天が少女の頭上を覆っていた。


「うん、やっぱりどこでも行けそう。これならたくさんお出掛けして、たくさん会えるね」


ほけほけ笑っている少女は、上機嫌のまま鳥居を後にした。彼女の背後に佇む稲荷はこじんまりとしており、住宅街の一角に溶け込んでいる。
いくらか道を曲がって下って上って、暫くして着いたのは森に隠れた平屋建ての大きな家。表札には玉簾(たますだれ)とある。引き戸をからりと開け、少女はただいまあと中へ入っていった。


「ただいまあ、お出掛けしてきた

「またかよ、飽きねえなお前も」

「甚爾くんは当たり前のように不法侵入するねえ。いつも居る」

「お前の保護者は俺みたいなもんだろうが、ほれ合鍵」

「なんと…いつの間に…」


居間へ行けば、何故か家主よりも馴染んでいる男が一人。低めの机に頬杖をつきながら、バリバリと煎餅を食べるその男は、名を伏黒甚爾と言った。口元に一筋の傷痕、鋭い瞳、鍛え上げられた厚い身体。傍目にはひどくだらけ切った態度だが、何故か何処にも隙がない不思議な男である。
そんな男がころりんと家に転がり込むようになったのは、それはそれは結構前のこと。まだ少女が齢一桁の時だった。この伏黒甚爾という男は、実を言うと妻帯者である。しかも死別した妻と再婚したが失踪した妻がいる。しまいには互いに連れ子付きという驚きのラインナップ。つまりはしっかりとした二人の子持ちの男なのだ。それなのにどうして少女の家に常の如く居るのかといえば、それは縛りを交わしたからに他ならない。







少女は勿論のこと、男ははっきりとその日のことを覚えている。禪院家から呪具を複数かっぱらって出奔した後、天与呪縛からなる並外れた強さを武器にし、薄暗い金で気ままに生きる日々。
そんな中偶々通り掛かった稲荷に、不思議と言葉に言い表せない何かを感じて興味の赴くまま足を踏み入れた。それこそが、男にとっての分岐点であった。


「―はて、お主どうやってここに入った?」

「あ?」


何とも気の抜ける幼い声だが、口調は子供のそれではない。ぼんやり己が潜った鳥居を見上げていた甚爾は、足元に視線を落とす。すると、声と違わずのんびりした表情の女児がもふもふした何かを抱えながら己を見ていた。鋭すぎる五感すら潜り抜けて足元まで接近してきていたその小さな存在に、甚爾はやや間を置いてからギョッとした顔になる。それもそのはず、気配にだけは敏いはずなのに、まさかこんな小さい女に出し抜かれてしまうとは。


「やあ、これはさても奇妙な身体をしておるな!呪力を持たぬのか」

「……」

「良い良い、警戒せずとも害するつもりはない。しかし奇縁とも言おう、折角ならお主には立ち会うてもらおうかの」

「…何の話だ、ガキ」

「ふふ、7つまでは神のうち。そう言うであろう?この身は間もなく8つとなる、晴れて人となるということさ」


おぬしにはその見届け人になってもらおうかと思うての。如何かな?そう言って射干玉(ぬばたま)の髪をサラリと揺らし、幼子は微笑みを甚爾に向けた。なんとも突拍子もない話だが、男は不思議と目の前の存在が人よりも高位にある存在だとはっきり認識していた。これなら己が気が付けないのも道理だ。何故なら、存在している次元が違う。


「…お前、何の神だ」

「おや、私が神であると誰が申した?そう急くでない、じき分かるさ」


じわりじわりと、女児を取り囲んでいた何かが凝縮されて小さくなっていく。目には見えずとも、男にはそれがよく分かった。その何かは徐々に感知しづらくなり、女児の中へと納まった。二、三歩蹈鞴(たたら)を踏んだその小さな体は、後ろへと傾いて背後の階段へと座り込む。上から見下ろしていた男には、俯いたその顔は分からなかった。女児の足元には、支えるようにもこもことした毛玉がまとわりついている。


「おい?」

「…、……?
初めまして、お兄さん」


緩慢な動作で男を見上げたその瞳は、光を受けて夕闇とも朝焼けとも取れる輝きを放つ。不可思議な色に目を奪われつつ、男は何か面倒なことに巻き込まれた気がしていた。数刻前、ふらりと稲荷に足を踏み入れようと足を向けた自分に舌打ちしたい気分である。何より神聖な空気の漂うその空間は、真っ当に生きているとは言い難い男には居辛い何かを感じさせるのだ。さっさとおさらばしたい気持ちはあるものの、気になることがあった。

目の前の存在が自分と同等になったばかりか、神聖さを失って馴染み深い力の気配を発しているのだ。

己が出奔した家で、その身に宿さねば人に非ず、術師に非ずとされた力だ。本来なら男には何も分からない。何故?男には、生来その力が一欠片たりとも宿っていないからだ。しかし、男にはそれと引き換えに得た類稀なる身体能力と研ぎ澄まされた五感が与えられていた。故に、男には分かる。目の前の存在が、術師としての高い能力を有することを、だ。
そこで男の脳裏に過ったのは、あの生家の癪な野郎共の顔。何も知らなさそうな幼い子供の存在をちらつかせれば、家の売名の為に嬉々として諸手を上げるだろう。ただ、気分が乗らなかった。この子供を見つけたのは、己だ。アイツらが忌み嫌う、この己なのだ。ならば、手ずから育てた果てにコイツをけしかけてやれば、少しは腹の底に燻る煙を消す事が出来るのではないか?どうせ見るなら、出来る限り屈辱に塗れた顔が良い。
あとから振り返れば、この時男は冷静ではなかった。どこか興奮していた。冷静であれば、そんな時間のかかる面倒な計画なんて選ばなかったはずだ。それでも、そこまで考えを巡らせて、男は口を開いた。


「―お前、名前は?」

「お兄さん、名前は最も短く有り触れた呪いだよ。私に縛られていいの?」

「…具体的にはどう縛るってんだ」


―無知そうな見た目に反して、中々ヘビーな返しをする。
軽い張り手をくらったような感覚に、喉の奥から漏れそうな笑いを抑えた。ますます気分が高揚していく。感じたのは、くだらなくてどうしようもない己の生き様に少しの色が乗せられそうだということ。


「あのね、お兄さんが話してたのは私のお母さんが人生の全てを捧げて神様に昇格させた存在。私はその加護を受けていたの、ついさっきまで」

「へえ、それで?」

「でも今は、私がその存在そのもの。でも、そうなるには格を落とさなきゃならなくなった。つまり、呪霊に分類される存在になった。だから、私という存在に意志を持って名を明かす場合は縛りが生まれちゃうの。
あなたがいつか愛を知ったなら、私を信仰してねっていう縛り」

「…それはまた頓珍漢な縛りだな。俺からの信仰を得てどうするってんだ」

「普通術式は体に刻まれるもので、だから才能がほぼ8割だって聞いた。でもコレは違うの、魂に刻まれた呪霊由来の術式なの。
神様はそれこそ自分で存在できるよ、でも呪霊は人の思いとか感情が無くちゃ存在できないでしょ?だから信仰が力になるの」


面白くなってきた。
男は稲荷に踏み込んだ少し前の己を褒めた。透明人間の自分の信仰を必要とする、その言葉にどうしようもなく惹かれている自分がいた。溢れんばかりの力の波動を感じるというのに、それを保つために己の信仰が無くちゃ存在できないと言う!なんと滑稽なことだろうと、遂に男は堪えていた空気を吐き出して大いに笑った。


「ッハハ!!
面白え。良いぜ、縛りを結んでやるよ。その代わりお前のこともっと教えろよ、小さな俺のカミサマ」

「神様じゃないよ?
うん、でも、分かった。じゃあ、私の初めての信者さん。お名前を教えて」

「―甚爾。ただの甚爾だ。
お前の名は?」

「私は社。宿す者を意味するんだって」

「ハッ、お似合いだな」


キュン、と社の足元に居た毛玉が一つ鳴き声を上げた。



そんな出会いから早数年、何だかんだと二人は一緒に行動するようになり、その間甚爾は容赦なく社を鍛錬と称して虐めぬいた。それに文句も言わずついてきた在りし日の小さな子供も、すくすく成長して少女と呼べるまでになった。少女に母はなく、父も居らず、しかも父の詳細不明。聞いた話によれば、少女は母娘共に満身創痍の中母によって稲荷に預けられ、カミサマの加護で何とか生きていたらしい。母は程なく事切れたそうだが、幼い子供一人でも意外と山の中は動物も植物もたくさんあって不自由なく暮らせたそうだ。二人が出会った稲荷の裏には小さな墓がある。
その近くには空き家になった住宅があり、せっせと綺麗に整理して以降は少女の住処となっている。所有権云々に関しては甚爾が裏から手を回して何とかした。何故そんな労力を使ったのかというと、この家に居着いた方が女の所に転がり込むより気も使わず金も使わなくて済んだからである。そんな訳で少女の家は男に侵食された。表にかかっている玉簾の表札は、甚爾が手ずから作った物である。名は呪いと言う少女の言葉を聞き、少女の母の事を調べて見つけ出した名字だ。鍛錬で虐められようと、用意しておいた自分の食事を理不尽にも奪われようと、自分に甘い所のある男が社は大好きだった。


ところで、少女が成長したその数年の間に甚爾は二度結婚した。頑なに名乗らなかった大嫌いな生家の名前を捨て、伏黒甚爾となったのである。新たな名を律儀に己へ教えてきた男を前に、少女は間抜けな顔を晒した。名字を握っていなければ、いつでも手放してあげられると思っていたのだ。そんな少女の心中などお手の物と言わんばかりに、甚爾はただ一言、バーカと罵った。誰が手放してやるものか、お前は俺が見つけたんだから俺の側にいるのが当たり前だろ。そう思っていた男は、名前などくれてやると少女に投げ付けたのである。とんだ暴投だった。
二重の縛りを結んだ二人だったが、肝心の信仰とやらをどうするのか甚爾は全く分かっていなかった。なので馬鹿正直に聞いた。


「社、お前どんな風に信仰されんのが好みだ?」

「ええ…?でも信者が甚爾くんしか居ないからなあ。私の側にいて私がそういう存在だって認識してくれるだけで十分だよ」


この会話以降、甚爾は家で待つ女が居るにも関わらず毎日のように社の元へ顔を出すようになる。そして愛する妻の話を二、三してはさっさと帰っていった。以前は息も絶え絶えになるほど稽古させられたものだが、少女が程々に動けるようになってからはそれも無くなった。共にいる時間が減った割には毎日顔を見るので、社としては変な気分だった。
子供ができたと聞いた時には、飛び上がらんばかりに驚いたし喜んだ。ろくでなしを絵に描いたような男が、遂に一児の父となるのだ!でも思い返してみれば、自分の物と認定した存在には存外甘い男だ。無愛想ながら良い父になるだろうと、社は素直に祝いの言葉を送った。―健やかに愛を育めますように。

でも、人の命ばかりはどうしようもない。


「…甚爾くん」


ホギャァ、と顔を赤らめて泣く赤ん坊は、母の温もりを求めていた。まだ開いていない目をギュッとしかめて、力の限り泣いている。それを気にも留めず腕に抱いたまま、男はただ愛した女の亡骸の成れの果てを見つめていた。上がる焼香、鳴り響く金属音。人の死は呆気なかった。


「なあ俺のカミサマ、」

「…なあに」

「……………」

「無理だよ、甚爾くん
それは私には出来ない。私、神様じゃないよ」

「ああ…そうだったな」


社の家に持ち込まれた揺り籠に、赤ん坊の身体がゆっくりと下ろされる。温もりから離れたくないと小さな手を必死に伸ばす己の息子を、男は静かに見つめていた。瞳は凪ぎ、淀みゆく夜の川のようだ。
社はこのままではいけないと思った。初めての信者となった男に、大好きな人に、報いたいと思った。でも、カミサマじゃない自分には彼の愛した人を蘇らせることは出来ない。なら、男の周りに漂う最も強い残留思念を感じさせることしか出来る事は無かった。


「甚爾くん、私の初めての信者さん。私は神様じゃない。あなたの望みは叶えられないし、奇跡も起こせない」


だけどね、貴方に見せられるものはあるよ。そう言って、社は甚爾の両の手を握った。


「…!」

「見える?」


甚爾は愛を見た。

己が愛した女の、遺していく後悔と、名残惜しさと、己と息子に向けた愛を。柔らかな光の粒子が甚爾の体に触れては弾け、消えていく。その一つ一つが、妻から己への想いだった。キャッキャとはしゃぐ息子―恵の声がして見下ろせば、粒子を掴もうと手を伸ばす姿が目に入る。掴める訳が無い。実体が無いのだから当たり前だ。すると、宙をいていた小さな手が甚爾の指を捕らえる。キュウと己の小指を締め付ける意外な力の強さに、男は思わず目を見開いた。

―此処にいる。

漠然とそう感じたその瞬間、両の眼から一筋の雫が転がり落ちていった。後にも先にも、社の前で男が涙を流したのはこの時だけである。


「ああ、やっぱりお前を拾って正解だったぜ―…俺だけのカミサマ」

「…うん、甚爾くん。信じてくれてありがとう。貴方達の愛は、確かにここにあるよ」


社の持つ術式は、一家相伝という血筋による一直線の受け継ぎではない。その御代に最も適性のある者が選ばれ魂に術式が刻まれる、ただそれだけである。社と社の母にはその適性があった。愛する者、愛される者、その包括的な存在となれる稀有な逸材だった。社の母は、愛する者としてただ一つの信仰心を持ち合わせていた―その向かう先は■■■■。■■■■は一度祀ると、命と引きかえに最後までその信仰を受持することが必須とされる。しかし一方で、信仰する者には多大な加護と力をもたらす。元来性愛を以てして愛を説く仏は、社の母の祈りと命を以てその存在を正(プラス)の方向に歪められて神格化され、愛の伝導者としての役割を持つようになった。今でこそ社の身に宿り呪霊へと変貌したが、それが持つ本質は変わらない。愛こそ力、愛こそ全ての源。可視化することなど容易いものだったのである。
光の粒が全て弾けて消えた頃、二人は何も言わず抱き締め合った。愛は嘘をつかないのだと、証明された日だった。社の背に、柔い毛玉が頭を擦り付けてふわりと消える。かつて森で出会った狐が天寿を全うした後、稲荷の化身として■■■■たる社の眷属となった存在だ。役に立てたかな、そう心の中で零せば、キュンと一鳴き返される。自分にしか聞こえない肯定の鳴き声に、社は厚い胸板越しに笑った。

その後、何を思ったか甚爾は再婚を果たした。その心中は分からないが、自暴自棄になった風でも無かったので、彼を支えてくれる人が増えるならまあいいやと社は思った。ところが、程なくして再婚相手は自身の連れ子を置いて失踪した。これには社も驚いて甚爾に詰め寄ったが、本人はどこ吹く風。もしや以前名を馳せたヒモ男としてのクズ加減が露呈したのかと疑ったが、置き去りにされた津美紀という子の懐き具合を見るにそうでもなさそうだ。真相は闇の中、社は考える事を放棄した。甚爾とその周りが幸せであれば何でも良いのだ。





時は戻る。
バリバリと煎餅を貪る男を前に、社は何だかなあとお茶を注ぎながら宙を仰いだ。幼い子供を二人も抱えているくせして社の家に入り浸る甚爾は、ダメな大人の代表格だ。フリーの呪術師から仕事を貰って稼いだ金を家に入れている辺り前よりマシなそうだが、まずもって金の管理を幼い子供に任せないで欲しい。しかし信者を追い出すのかとしらっとした態度で返されてしまえば、強く出れないのも確かだ。それに、大好きな人だ。来てくれるのは素直に嬉しかった。そんな訳で、少女は今日も当たり前のように男の存在を享受していた。

どこか嬉しそうにお茶を差し出す少女を一瞥して、男は呑気なもんだと喉を鳴らした。甚爾が足繁く社の家に通うのは、社という存在に執着しているからに他ならない。自分を無価値と評した奴らを見返せる存在を1から育てた自負と、己が居ないと存在できないという事実と、亡き妻の遺した愛を可視化した過去。それら全てひっくるめて、手放せない理由だった。
だから、万に一つも可能性が無いと知りながら、甚爾は毎日社が己から離れていかないか確かめに行く。自分以外の誰かを懐に入れていやしないか、施しを与えていないか、確かめに行く。我ながら重たい物を向けていると自覚していながら、やめるつもりは毛頭無かった。
昔から、自分だけの物が欲しかった。認められず腐っていく自分に、ただ一つ残る物を。

(―まあ、コイツの在り方を知っていてこうしてるんだがな)

これは男の傲慢で、横暴で、どうしようもない独占欲から来る行動だった。本人だって分かっているのだ。己を馬鹿にした奴らを見返すためだけに強く育て上げるなら、より多くの信者を作ればいいことなどすぐ分かることだ。でもそうしてしまえば、社の唯一は自分ではなくなる。自分の物ではなくなってしまう。それが分かっていたから、少女が強くなる事よりも自分の側に留め置くことを優先した。
社に数度会ったことのある二人の子供すら、徹底的に遠ざける程だ。津美紀と恵が社に会いたいと思っているのを知っていても、決して会わせようとはしなかった。とはいえ、甚爾とていつまでも少女を閉じ込めて飼うのには限界があることを悟っている。今日も稲荷を経由して何処ぞの呪霊を祓い尽くしてきたようであるし、少女の存在が世に知れ渡るのも時間の問題であった。もう数年すれば、呪術高専に入学できる年だ。間違いなく日の目を見ればそこに入るであろう少女をじっと見て、甚爾はうっそりと笑った。

―それまでは、己を刻み付ける。後からコイツを狙ってきた奴がいた所で、手を出そうとも思えなくなる程に。











「僅かだけど残穢がある…
だあっくそ!!また逃げられた!!どんな足してるんだコイツは!?」

「悟様、お静かに。目立ちますよ」

「この見た目で十分目立ってるっつーの!」


その時は、意外と近くに来てたりする。














1.伏黒甚爾の執着





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