垣間見た異境の光B
もはや船長の方を見向きもせず、少女の救護に取りかかろうとする男の耳に、揶揄にも似た響きが届く。
「お前が熱意を持つのも、久方ぶりの事だな。テッドよ」
男は、小さく口元を歪めて笑って見せた。
「・・・ああ。あんたに名前を呼ばれるのも、10数年ぶりか?まぁ、どうでもいいけどな」
「然り。この世界において、時の支配は無意味に等しい」
「決めたのはお前だ。舵は、お前に任せる」
「・・・あんたはどうするんだよ」
「覚醒しておく必要性を感じない。――我は、しばし眠りにつく」
その言葉を残し――船長の巨体は、闇の中に溶けて消えていった。
再び舞い降りた沈黙。
先程少女を生かす口実に使った単語が、今更ながらに男に苦く突き刺さる。
――この命を生かす事は、真の紋章の撒き餌とする事――即ち、この少女を、真の紋章に関わらざるを得ない人生に叩き落とす事を表している。
「・・・自分は、それが苦しくて逃げ出しておいて・・・何やってるんだよ、俺はっ・・・!!」
不意に、小さく咳き込む音がして――男の煩悶は、現実の前に霧散した。
よく見てみると、横たえられた姿勢に無理があるのか、少女が仰向けの体勢のまま、苦しげな呼吸の音を立てていた。
せめて楽な姿勢にしよう、と男はそっと少女の体を起こす。
動いた拍子に、男の両手首にはめられた鎖が、じゃらり、と硬質な音を立てた。
抱き起こした所で、体を支える力も残されていないのか、少女の首が、後ろへとがくり、と倒れ込んだ。
少女の体勢を前のめりにした所で、男は水の紋章を発動させ、傷を癒やすと同時に、傷口を清める。
そして、その辺りの宝箱に入っていた適当な装備品を枕代わりに押し当てた。
湿らせたローブの端で額の血をぬぐい取った所で――唐突に、ぱかりと脈絡なく、少女の目が開いた。
動くものに反応したのか、少女は操り人形めいたぎくしゃくした動作で、男の方に顔を向ける。
そして、思わず男は息を呑んだ。
――そこにあったのは、ぞっとするような絶望に凍りついた目。
死の世界を見た者だけが持つ、全き虚無の空気が、少女の年齢には不相応な程、身に馴染んで見えていた。
辺りの異様な光景に動じる気力もないのか、少女は死人のように澱んだ眼差しで、かさかさに乾いた唇を動かす。
「・・・し、・・・て・・・」
「・・・どうか、したのか?」
男の声に反応したのか、少女が反射的に繰り返した言葉が、はっきり聞き取る事が出来た。
――そして、心から後悔した。
「・・・どうして、・・・わたしだけが、いきてるの・・・?」
――舌足らずの声で問われる、残酷な言霊。
何とも言えない感情が、男の胸を突き刺した。
痛ましさのみが、ただ満ちていく。
――問いを発しながらも、少女の瞳は答えを待ち望むでもなく、ただ虚ろだった。
答えを得る事すら意識する事なく、ただ自らの命の火に疑問を抱く、この小さな生命が――ただ、悲しかった。
何か言わなければならない事はわかるのに、男の中に答えは無く、焦燥感ばかりが募る。
――何故、自分だけが生きている。
そう聞きたいのは、きっと自分もだったのだ。
だが、答えを求めようとする事すら虚しくなり――いつしか、問いは生まれ出ては意識する程なく、闇の中に消えていった。
そして今、自分以外の声によって口に出された疑問が、男の世界を動かした。
――生き残ったのは、何の為だ。
――何故、自分はボロボロに壊れるまで紋章を――ソウルイーターを守り抜こうとしていた?
その疑問は、岩に降り注ぐ雫のように、男の胸に穴を穿った。
「・・・その答えは、俺も知りたい。俺が何で生きてるのか、俺にもわからないから」
夢だとでも思っていたのか、返事があった事が意外だったのか――少女の瞳がぱちぱちと瞬き、緩慢に、男に焦点を結ぶ。
男が着ていたのが、幽霊然とした白く長い、俗離れしたローブである事を考えれば、無理からぬ事だったのかもしれない。
――だが、そんな事は今の男にはどうでもいい事だった。
自分が今まで考えられなかった場所に、少女の問いと言う形で光が当たり、求めていた答えへと至る道のどこかに、引っかかりが掴めた。
そんな根拠のない確信をより確かなものにするべく、男は必死で言葉を探し続けた。
「――俺は、その答えが知りたいから生きてるだけだ。・・・お前は、どうするんだ?どういう風に、していきたい?」
魔法は傷を癒しても、弱って失われた生命力の全てを呼び戻してくれる訳ではない。
自分の声が、出来る限り少女の弱った体を刺激しない事を――優しく響く事を、願うばかりだった。
「・・・あ・・・」
――小さな手が、何かを訴えかけるように、ローブの端をきゅ、と掴む。
だが、口を開こうとした所で、限界が訪れたのか――少女は、再び意識を失った。
その後、男は少女が紋章の暴発に巻き込まれたとおぼしき海域に辿り着き――その近くにあった岩場の、平らな場所に少女を横たえた。
この場所に来る途中、人の気配がしたから、恐らくは大丈夫なのだろう。
船長は、好きにしろと言った。
それなら、念の為確実に少女が助かるまで、見守っておいた方がいいだろう。
男の乗った船を取り巻く霧が、少女の救助を妨げる事がないように、出来るだけ、遠くから。
――自分は、彼女を助ける事が出来たのだろうか。
もう二度と聞く事は出来ないだろうが、少女が気を失う前、海色の瞳に、光が宿った気がした。
男が、祈りや願いなど無意味である、と行為を止めて、何十年もの月日が流れている。
だが今は、少女の目に光が灯った事――それが錯覚で無い事だけを祈りたい、と男は思った。
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