それでもぼくらは1
本当は少しばかり、期待していた
そこにいけば、自分も青くきれいな存在になれるんじゃないかって
けど、それはただの妄信に過ぎなくて
実際は深い深い暗い溝に堕ちて行っただけだった
けれど、それでもよかったんだ
あいつと一緒にいられるなら……
「…恐い、ですか?」
抱き合った頭上で、少し心配げに声を掛けられる。何故「頭上」なのかと聞かれると、それは抗いようのない成長の個人差である。俺より小食なくせに、何をしたらこんなに伸びるのかね。あぁ、忌々しい。
……恐くない、と言えばそれは嘘になるだろう。だが、それよりも勝る感情があったのは確かだ。それが、嬉しさなのか喜びなのか、はたまた今の自分の立場を脱せる安堵からくるものなのか、それ以外なのか。それは分からなかったが。
ただ、「大丈夫だ」と言うように、俺は返事をする代わりに、男の背中にまわす腕に力を込めた。俺の行動をどう取ったのだろう。目の前の男は、曖昧に薄く微苦笑を浮かべるだけだった。
潮の匂いが鼻腔をくすぐる。浜辺で抱き合う男二人…傍から見たらなんとシュールな光景だろう。何やってんだろうね、俺たちは。
いや本当は何でこんなとこで、男二人突っ立てんのか分かっているんだがな。自分の置かれた立場を想像してみると、あまりにもシュールだったもんで、誤魔化したくなったとでも言っておこうか。
ふ、と古泉の腕の中で、軽く目を閉じた。この男の体温が、酷く心地よかったものだったから……。
二日前の放課後のことである。それは、いつも通りにやってきて、いつも通りに過ぎるはずだった。
俺たちはいつのまにやら決まっている指定席に座り、古泉の持参したボードゲームに耽っていた。…いや、この表現は正しくないな。夢中になってるのは正面のパイプ椅子に腰掛けるそいつだけで、俺はいたって退屈そうに付き合っていただけだからな。本日の種目はチェスだ。
まぁ、言わなくても分かるだろうが、そこはSOS団のアジトであり、本来は文芸部室である。部屋の隅を見遣れば、奴の持参したゲームというゲームが山積みされていた。そういや、某カードバトルアニメのものだとか、「絶対にお前元ネタ知らんだろう」という物品も何回かあったな。それを指摘するたびに、微笑み君は肩をすくめて見せた。…あぁ、なんか思い出しただけでムカついてきた。
それにしてもまた…随分と集めたな。これだけの収集結果を見ると爽快感さえあるぜ。
これも“必要経費”か?
「さぁ、どうでしょう?…何ならいくつか差し上げても結構ですよ」
遠慮するぜ。というか、お前持って帰るのが面倒なだけだろう。
ニヤケ野郎は「バレましたか」と言って、手つきだけは無駄に様にしてクイーンを移動させた。それも、自滅を引き寄せるような位置に。いつになったら、こいつとまともな勝負が出来るようなるのかね。いっそ賭けてみたい気もしてきた。
ああ、やめておこう。賭けにならない。いろんな意味でな。
さて、いつ頃このおもちゃたちを持って帰らせようか。と、思案しながら指で駒を弄んでいると、唐突にそいつは開口した。
「キョンくん」
「何だ」
盤面から顔をそらすことなく、頬杖をついて無愛想に声を返す。
「好きです」
「あぁ。……あ?」
古泉の口調があまりにも普段通り過ぎて、おざなりに返事をしてしまう。が、数秒後、やっとその発言を脳に伝達完了する。それと同時に何とも間抜けた声を出して正面を見上げた。
視線がかち合う。血迷ったとしか思えない発言した主は、相も変わらず微笑んでいた。しかし日で反射する瞳は、普段の柔和なイエスマンからは似つかぬ至って真剣なそれで。
だから、俺は一瞬だけ、不覚にも怯んでしまったんだ。
俺は一つ、盛大な溜息をついた。もし、朝比奈さんが聞いたら顔を真っ赤にさせて卒倒していたかもしれない。それはそれで見てみたい気もするね。
ここにハルヒたちがいなくて本当に良かった。まぁ、いたら古泉もこんなリスキーなことを言わなかっただろうけれど。
ちなみに、部活開始三分で、三人娘たちは買い物に飛び出していった。朝比奈さんと長門はほとんど引き摺られように部室を後にした、と言ったほうが正しいな。
今度は朝比奈さんのどんなコスプレが拝めるのだろうかと期待に胸を膨らますが、恐らく今日中にそれは叶わないだろう。その証拠にホラ、手元にはハルヒが旋風のごとく飛び出す直前に、俺に託した鍵がある。それは、もう部室には帰っては来ない、という暗示だと経験上分かっていたから。
「……」
俺はどう対応していいものかと、本来の30パーセントくらいしか使用していない、いっそ腐りかけてんじゃないだろうかという脳みそをフル回転させた。古泉は微笑を湛えて、焦点はこちらにだんまりを決め込んでいる。時折暇そうに足を組み替えてみたり、無意味に指を駒に絡ませてみたり…どうやら俺のリアクション待ちのようだ。
ちなみに、ゲームは途中放棄状態にある。
もしかして、不敗が嫌というガキじみた感情から、あれを口走ったのではあるまいな。理由は…そうだな、俺を混乱させて、連続黒星自己記録の更新ストップだ。うん、きっとそうだ。
古泉はそんな俺を見て、「まさか」と、肘を曲げて両掌を上に向けた仕草をして見せた。さながら舞台役者張りのオーバーリアクションであった。
つーか、人のモノローグに武力介入してくんじゃねーよ。エスパーかお前は。あぁ、エスパーだったな。
さて、しかしながら今俺がすべきは、自称エスパー野郎の生態観察でも、試合の中断にこじつけて現実逃避することでもないんだよな。
COOLになれ、俺。眉間を指で押さえるような手つきをして状況整理を試みた。
まず、あいつは俺に何と言った?「好き」?ホワイ、何故?そんな素振り今まで…。
……。
本当に、あいつは俺に対して何も示唆しなかったか…?
そこで俺は思いとどまった。あぁ、違う。俺は気づいていたんだ。奴が俺にそういった感情を寄せていたことを。
そして、俺は……――。
「な――」
なあ、と口を開きかけるが、それ以上紡がれることは叶わなかった。何故なら、他ならぬ古泉によって遮られたからだ。さすがのイエスマンでも痺れを切らすことはあるのか。憶えておこう。…何のためかは解らんが。
「そろそろ、ここも閉めた方がいいですかね」
窓からは赤い光が差し込んでいる。ああ、気づけば日はかなり傾いていた。
「そう、だな」
古泉は、言うが早いか、椅子を引いて、一人チェスを片付け始める。何か言いかけた俺に一言「すみません」と謝罪をした。気にするな、たいした事じゃないから。
一度機会を失うと、再度発言する気にもなれない。
やけに湿った掌で、再度鍵を握り締めた。『文芸部室』と書かれたプレートが、指の隙間から垂れ下がる。空いた手でカバンを掴んで立ち上がった。
俺のどこかで、ガラガラと何か壊れる音がした。この時に、崩壊音とともに気づいちまったんだ。
――いつも通りがいつも通りでなくなってしまうことに……。
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