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頭がクラクラする……。眩暈も酷いし、体なんて鉛や鋼鉄でできてんじゃないだろうか。
壁掛けの蝋燭だけが小さく照らす石造りの薄暗い屋敷の廊下を、漸進する。

「…ぅく……はぁ」

短い間隔で、鋭い痛みが幾度も心臓を突き刺す。とっさに痛むところを手で鷲掴むように条件反射のように押さえ込むが、やったからといって何の効果も持って無いことは分かってるし、なぜかと言えばこの苦痛の原因も理屈も分かっていたから。
今鏡を見たら、獣のように血走った双眸が映し出されることだろう。

壁を這うように身体をひきずって、屋敷の自室の前に辿りつく。
いかにもな西洋装飾の施されたドアを汗ばんだ手で開ければ、お節介にも、部屋に入って右端近くに馬鹿でかい姿見が鎮座していた。正直、こんな状態の自分はあまりにも苦々しくて見るに耐えない。

この重い身体を少しでも楽に出来ないかと、鏡から意識を寝台に向けようとする。ベッドは鏡の隣、すこし奥まったところにある。
しかしその瞬間、鏡の端に何かが映り、俺は動きを止めた。
警戒して身を強張らせる。

いや、だがちょっと待て。
この屋敷には俺一人。使用人も元からいない。さらに、他人から見たら気味の悪いここには、立ち寄る人間は全くいない。
そう、今は少々頭が鈍くなってて、感覚が過敏になっているだけだ。…考えるまでもないじゃないか。こんな所に来る奴なんて、奴しか思いつかない。そして、できることなら俺はその事実を全力で拒否したかった。

「…何しに、来たッ」

我が身に鞭を打って先ほどの鏡に浮かぶ影に、しっかり舌打ちしてから毒づく。
近くの天蓋つきベッドの柱に手をつき、今できる一番の重低音を利かせてやった。…はずだが、何しろ今の体調は最悪、凄んだところで迫力も何もないだろう。滑稽だな。
そんなことを考えて行く間にも、じっとりとした油汗が頬や首筋を伝っていく。

緩慢な動きで鏡を見上げれば、その中の影が形の良い口元を弧に歪めた。

「こんばんは。…いえ、特に何があるというわけではありませんがね。中々いい様をしていらっしゃったようなので拝見しようかと思いまして」
「……中々いい趣味だな」
「ふふ、ありがとうございます」

形のいい唇でクスクスと笑っているが、お前にとっては皮肉すら褒め言葉なのか。
鏡の向こう(つまり俺の後ろ)で部屋の壁に背を預けたまま、そいつは「ふむ、」と芝居くさく顎に手を添えた。

「見た感じ、本当に具合が悪そうですね。そろそろ疲労も限界なんじゃないですか?……どうです、そろそろ僕に“下さる”気になりましたか? あなただって楽になりたいでしょう」
「…ッ…生憎と…残念だったな」

ガラスの中で意地の悪い『死神』がまた薄く嗤った。誰が貴様なんかに自分の“命”をやるものか。

鏡越しの会話。灯は壁に等間隔に設置された短い蝋燭だけ。
俺は部屋の鏡の前、反対側の石壁に寄り添う奴とは、割と距離がある。

早く帰ってくれ。お前の顔は見たくない。そういうのに、そいつはまた要らない口を開く。

「随分と飢えているようではないですか。辛そうですね……それはそうですよね、僕も長いことこの『仕事』をしていますが、ここまで断食した吸血鬼は初めて見ましたよ」

俺の主食は温かい米でも、新鮮な魚でも、脂の乗った肉でもない。本来は人の血を糧に生きるそれ――吸血鬼。
必要最低限の食事の回数は人や動物よりも極端に少ない。
が、その分俺たち吸血鬼は『食事』で血を直接体内に取り込み、そのまま自分の血液と混ぜて血管を流れるため、食事――つまり輸血がなくなると各臓器に充分に血が送られずに、運が悪ければ危篤状態に陥る。それは、まさに今の俺。

もう憎まれ口を返すことも億劫だ。身体はしんどくてたまらないし、立ったまま肩で息をすることさえ、今は楽じゃないんだ。

「気にせず、どうぞお休みくださっても構いませんよ」
「それこそ、冗談じゃない、な…」

お前の前でうっかり寝てでもして見ろ、その間に魂もって行かれるんだろうが。

「ごもっともですね。…そしていつも言っていますが、僕のことは名前でお呼び下さい」

そう言って、両手を上げる所謂降参のポーズをしてみせた。胡散臭い。
いつか、自分で『コイズミ』と名乗っていたが、その名前さえ本当に親から貰ったものなのかも危うい。

しばらく大人しくしていたコイズミは、ついに壁から身体を離し、ゆっくりとした足取りで歩き出した。鏡に映る死神――コイズミの姿が俺の背後へと近づいてくる。
それまでとは打って変わって、金色に反射する目を細め、一見人好きのしそうな笑みから“死神”のそれへと切り替わった。

焦らすように、忍び寄る恐怖のように、ゆっくり……ゆっくりと。

「本当は血が欲しいんじゃないんですか? 嗚呼、ほら、体が血を欲して…、」

やめろ、来るな。
今すぐ逃げたいけれど、うまく体が動いてくれない。

「瞳が美しい深紅に染まっている」

うっとりとした声音で、俺の顎を捉える。俺の背中にぴったりとくっつく形になったコイズミの手が、俺の頬に触れたあたりで俺はやっと我に帰った。

気持ち悪い……!

身を翻して反射的にそいつの手を振り払うが、そうすれば嫌でも真正面から見据えることになる。
すぐ目の前には死神の嘲笑。

「俺に…はぁ……触、れるな…!」

右手で左胸を押さえたまま息を整えようと試みるが、胸の痛みと――“空腹”は増すばかり。
意地でも弱みは見せないで、できるだけ強気を装っての会話。奴の目には既に虫の息の吸血鬼が映し出されていることだろう。
虚勢?なんとでも。

「お前こそ、俺にばっかり付き纏って…よほど死神って奴は、暇なのかモノ好きなのか…?」
「いえいえ、ちゃんと仕事もしてますよ?……ただ、一度目を付けた魂は必ず『持ち帰る』ということも僕らの性分でしてね。これはいわゆる、趣味、仕事の間の息抜きみたいなものですよ」

暇潰しなら他を当たれ更に付け加えるなら他人様の迷惑にならないようにだ。そうだな、ブランコとか童心に帰っていいんじゃないか?
…死神ってやつはほとほと理解に苦しむ。一体こいつの琴線のどこに触れるような要素が俺にあったのだろうか。

「ご謙遜なさらずとも、貴方は中々興味深い魂をお持ちですよ…――少なくとも、僕にとってはね」
「…古、泉…?」

途端、俺は訝しげに目を向けた。お前何が言いたい。何でそんなこと勝手に…――まぁ、なにやら含みのある言い方が少々引っかかるが、無視しておこう。
この死神様が何を考えて発言しているかなんて、分からないのがいつもだ。ある意味、気まぐれな神サマより理解に苦しむのではないだろうか。

今の貴方には理解できないでしょうが。と、一見人のよさそうな、しかし冷たい笑みをもらす。
理解したくもないし、何より野郎の何もかもを見透かしたような物言いが一々癇に障る。

先ほど俺が振り払ったお陰で、多少開いた空間に、コイズミが冷たい笑みで一歩ずつ侵食を再開してくる。それに合わせて俺は一歩ずつ後退して間合いを図る。
ところが、後ろ歩きは敵から目を離さなくて良いかわりに、

「……う、わっ」

当然進行方向が把握しきれないわけで。

二歩ほど歩いたところでベッドの脇にぶつかりバランスを崩して、見た目よりは幾分かやわらかいスプリングに、背中から倒れこんだ。
すかさず身体を起こそうとするが、逃がすかと言わんばかりに俺の上にコイズミが乗っかてきてそれは阻止された。そうなると自然と押し倒されているかのような体勢に……




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