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14,約束(三国志ファンに100のお題より)周瑜×孫権 腐向け
 北方三国志ベースの二次創作です。
 孫策死後の周瑜×孫権。
 二次創作に入る前に踏まえておきたい場面を抜き書き、コメントした後、本文に入ります。

 江東の小覇王、孫策が刺客に討たれた。
 傷は浅かったが、毒矢の毒が命取りとなったのだ。
 24歳で正妻と結婚した享年26歳の孫策の子供達は無論まだ乳幼児であり、後継者とする訳にはいかないため孫策は弟の孫権を後継者とするよう遺言した。
 陳寿三国志を見ると結構長い遺言だ。
 こんなに長い遺言を遺す暇があったのかという疑問は当然生じるが、遺言があったことにしないと孫権の正当性に疑義が生じるという国の事情で捏造せざるを得なかったのかもしれない。
 ここでは一応遺言があったことにしておく。
 北方三国志ではこうなっている。
「権」
「おまえは、私の跡を継いで、楊州を治めるのだ。おまえなら、できる。張昭と、よく話し合え。外に眼を向けず、内をしっかりと固めよ」
 孫策はそれまで、孫権に対して俺と言っていたのに臨終の場面だけ私と言っている。
 孫権を後継者として一人前扱いしたという解釈でいいのだろうか。
「周瑜に、会いたかった。おまえは内を固めたら、周瑜と話し合え。周瑜だけは、私の夢がなんであったか知っている。内を固めた時、おまえは周瑜と二人で、ひとりになれ(以下略)」
 内政は張昭に、外のことは周瑜に、という場面を北方三国志はこのように表現している。
 孫策の死を知ると、周瑜は一万の兵を率いて楊州の南端の巴丘から駆けつけた。
 建業から巴丘までの水路を開拓し、孫家の水軍を作り上げたのが周瑜なのだ。
「私は、南を固めます。水路をもっと充実させて、建業と結びやすくします。殿は、北を固めて下さい」
 北方三国志の周瑜はそれまで孫権のことを孫権殿と呼んでいた。
 孫権は周瑜にとって義弟にあたるとはいえ、実際には、諱を呼ぶのは失礼だから、仲謀どの、と字で呼んでいたと思う。
 北方三国志の孫権は周瑜のことを孫策の後を継ぐ前から周瑜殿と呼んでいたけど、主君になった後ならまだしも、義兄を諱で呼ぶかな…。
「公瑾どの、兄は、しきりに公瑾どのに会いたがっていた」
 呼び方に関しては北方三国志の呼び方とは意図的に変えて字で書きたい。
「いまは、楊州を固めることです」
「兄の遺言も、そうだった」
 ここまで踏まえた上でここから、二次創作。

 館に着き、二人きりになると、周瑜の言葉使いが変わった。
 孫策に対しても、人目のあるところでは敬語で、二人きりになると砕けた口調に戻っていた周瑜である。
「伯符が他にどんなことを言い残したか、聞いてもいいか?」
 殿と呼ばれ、敬語を使われ、距離感を感じて寂しい思いをさせられていた相手に元のように接してもらったことで孫権は涙ぐみそうになった。
「公瑾どの…。兄は言いました。公瑾どのだけは、兄の夢がなんであったか知っていると。内を固めた時、私は公瑾どのと二人で、ひとりになれと…」
 孫策は周瑜に、曹操との決戦についての展望を語ったことがある。
 周瑜の家は、三公を出した名族であり、宦官の祖父を持つ曹操とは相容れない存在だ。
 孫策の夢は周瑜の夢でもあった。
「内を固めた時と言われたのか?」
 孫権の碧眼を直視した周瑜に問われ、孫権は赤くなった。
 江南では美周郎と呼ばれている周瑜の美貌を間近で直視できるほど、見慣れていない。
「そうです……」
「二人でひとり…。内を固めた時、か」
 しばらく周瑜は沈思した。
 当面、孫権は建業の足元を固めていくしかない。
 周瑜も、巴丘から足元を固め、水路を更に拡大する必要がある。
 水路を拡大すれば、川からの補給が容易になる。
 船を使えば、陸路より速く大量に兵員や物資の輸送が可能だ。
 建業で足元を固める手助けは他の者にも出来るが、巴丘〜建業間の水運の維持拡大の任務は、水軍を作った周瑜にしかなし得ない。
「内を固めるには、三年はかかるだろうが…、その時こそ、二人でひとりになろう、仲謀」
 兄を伯符と呼んでいた周瑜に字で呼ばれ、孫権は頷いた。
 二人でひとりとはなんて甘美な響きなのだろう。
 美貌の周瑜をうっとりと見つめる19歳の義弟の唇に周瑜は吸い寄せられるようにくちづけた。
「公瑾どの…」
 唇を指で押さえて周瑜を見つめる孫権は触れれば今にも落ちそうだった。
 この先まで突き進みたくなる気持ちを周瑜は懸命に抑えた。
 孫策が亡くなったばかりで喪中なのだ、今はダメだと。
「内を固めろ、仲謀。続きはそれが出来たらだ。わかったな?」
 周瑜は自分に言い聞かせるように言った。
 7歳上の義兄にあやすように言われて抱きしめられながら、孫権は二人でひとりという甘美な響きになおも酔っていた。

 歴史小説を書こうとしてなんか読み始めるといちいち批判したくなってしまい、なかなか進まないという問題に直面しました。
 三国志の周瑜伝の赤璧以前の記述の薄さを考えると、周瑜は最初は部下ではなく、同盟軍という位置付けだったかもしれないなぁとも思ってます。
 孫権が後を継いでから、建業と距離を置いているようにも見えますしね。

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あきゅろす。
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