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東方十全歌 〜Lost World beyond the Border 完結編
 妖夢が紅魔館に来て四日目。
 紅魔館を文字通り揺るがした爆発にやられた妖夢は、医務室のベッドで横になっていた。
 爆発を聞きつけたメイドたちが一斉に現場に集まり、吹き飛ばされた妖夢を見つけて医
務室まで運んだらしい。ちょうど爆発事件のことを妖夢に話した者たちは、意識を取り戻
した妖夢にこぞって質問を浴びせかけた。
 あの爆発は十六年前の再現なのか、と。
 爆発は壁をえぐっただけで、貫通するには至らなかったらしい。だが、爆発事件を覚え
ている者にとってその連想はごく自然なものだろう。
 一方の妖夢は、意識を取り戻したものの会話をするにはダメージを受けすぎていたので、
半日ばかり面会謝絶にしてもらった。思考ははっきりしていたため、その時間を使って十
二分に事件を紐解くことができた。

「刀メイドさん、やっぱりあったよ」
「そうでしたか……ありがとうございます」

 面会できるようになってからは細かいパーツを集め、整合性を調整していく。ほんの少
しだけ判明していなかった部分も、そのおかげで明るみに出た。
 そうして丸一日を過ごした翌日。
 妖夢は、事件解決の旨を咲夜に伝えた。

「分かった、のね」
「はい」

 紅魔館時計台。人がおらず適度に広い場所として、妖夢はここを選んだ。
 事件を解決したということで、妖夢は普段着に着替えていた。紅魔館のメイドではなく、
白玉楼の魂魄妖夢として事件の全容を話したかったのだ。
 その妖夢の前には、二人の少女が立っている。咲夜と、レミリアだった。
 
「どうでもいいと思ってたけど、私も容疑者扱いされたからね。内容は直接知っておきた
いわ」

 それが、レミリアの言い分だった。
 妖夢としては咲夜一人にだけ話したかった。できることなら、咲夜以外には事件の内容
を知られたくなかったのである。
 しかしレミリアがついてくることを咲夜が了承してしまった。それでは追い返すわけに
もいかず、妖夢は仕方なくレミリアにも同席してもらうことにした。

「では、始めます……」

 すうと息を吸い込み、妖夢は二人に向かって語り始めた。
 
「まず現在発生している亡霊事件ですが、これは今から十六年前に起きた先代メイド長失
踪事件が大きく関係しています」

 初めからその関係性が怪しかった二つの事件。全てをまとめた結果、それらはやはり繋
がっていることが分かった。

「そして失踪事件はさらに、大元を辿ればおよそ二十年前に端を発します」
「二十年前?」

 レミリアが口を開く。それほどの昔と現在との関係がつかめないからだろう。
 妖夢はうなずいた。
 
「はい。今から二十年前、つまりレミリア、あなたが咲夜を紅魔館に迎え入れたときです」

 レミリアが咲夜を見やる。咲夜の表情には今のところ変化はなかった。じっと妖夢を見
るばかりである。視線を自分のほうに持ってこないのを見て、レミリアも妖夢に目を戻し
た。
 無言で促され、妖夢は続ける。
 
「彼女がどういう経緯で紅魔館に来たのかは知りませんが、その頃に来たことは聞きまし
た。そして、あなたが酷く気に入っていたことも」
「まあね。というか、今も気に入ってるわよ」
「……ありがとうございます、お嬢様」

 咲夜はレミリアの方を見ないで礼をした。
 そこまで見れば、妖夢も分かる。
 咲夜の表情が変わらないのは、緊張しているからなのだ。失踪事件のことを聞いた時点
で既に、表情が固まってしまったのである。
 妖夢がこれから何を言うつもりなのか、分かっているからだ。
 
「さて、そのときこの紅魔館には多数のメイドがいて、それを取りまとめるメイド長がい
ました」

 妖夢はかまわず話をする。元々依頼したのは咲夜だ。こうなることを、分かっていてや
ったはずなのである。
 ならば、全てを包み隠さず説明することが、妖夢の義務だった。
 
「彼女は非常に優秀で、周囲からはもちろん館主であるあなたからも絶大な信頼を得てい
た。そうですね?」
「そうね。メイドの方は知らないけど、あの子はよくやってたわ」
「そうです。仕事も熱心で、特にあなたに対しては絶対の忠誠を誓っていました」

 紅魔館最初のメイドにして初代メイド長。能力ももちろんだが、その姿勢がメイド長に
なった理由であり、また全てのメイドの手本であった。

「どれほどの間あなたの下で働いていたのかは知りません。が、相当の時間だったでしょ
う。あなたにとっても、心地のよい存在だったと推測します」
「……まあね」

 レミリアは先代メイド長を思い出しているのか、視線を宙に彷徨わせてからうなずいた。
 
「ですが、そこへ彼女以上にあなたの気に入った存在が現れた。それが……十六夜咲夜で
す」

 妖夢は咲夜を見る。咲夜は相変わらず表情を凍らせたまま、見ているのか見ていないの
か分からない視線を妖夢に向けている。

「突如連れてきた人間を、あなたは新しくメイドにしようとした。それを受けて彼女、当
時のメイド長は、自分と同じ水準で仕事をこなせるように教育することにしたんです」
「そうらしいわね。私としてはどっちでもよかったんだけど、あの子が言って聞かなかっ
たから」
「それだけあなたのことを想っていたんです。あなたがそばに置きたがっていたんですか
ら、それに見合うメイドに仕立てたかったんでしょう」
「ええ、そうよ」

 咲夜が口を開く。
 
「あの方は本当に厳しい人だったわ。こちらが何もかも嫌になるくらい……。けど、そう
する理由は分かっていたし、私もそうなりたかったから……。私が、次期メイド長を担う
ほどには」
「そう、ですか。やっぱり……」

 妖夢は美鈴とした会話を思い出す。理由はどうあれ、先代メイド長は咲夜にメイド長の
座を譲ろうとしていたのだ。レミリアが一番気に入っている人物こそがメイド長にふさわ
しい。そして、メイド長ならば全ての仕事を完璧にこなさなければならない。
 先代メイド長のその思いが、咲夜への教育に表れていたのだ。短期間でそれを成し遂げ
ようとしたのは、単純にレミリアへのためのものだったのだ。

「さてと」

 それは既に確信していたことだが、咲夜の口から聞けたことで推測は事実になった。そ
のことを確認すると、妖夢は次の段階へ移る。

「それが事件の大元、発端です。先代メイド長が咲夜を紅魔館次期メイド長として育てよ
うとしたことが、失踪事件のそもそもの始まりです」

 四つの目が妖夢を見る。それが発する催促という信号に、妖夢は応えた。
 
「メイド長としての仕事、咲夜にとっての訓練はたくさんありましたが、中でも重要だっ
たのが……空間の維持です」
「空間? 紅魔館のか?」
「はい。当時既に先代メイド長の能力によって紅魔館の内部は広げられていました」
「広い方がいいからね」
「彼女は、咲夜の持つ時間を操る能力に目をつけ、紅魔館内の空間維持も任せようとした
んです。そうですね?」

 妖夢は咲夜に目線を向ける。
 
「ええ。あの方は私にメイド長の仕事を全て継承するつもりだったからね」

 咲夜はうなずいた。
 
「もう一つ聞きますが、それはかなり難しかったんじゃないですか? 全てを掌握するの
に、相当の時間がかかった……私はそう思ってるんですが」
「……ええ、そうよ」

 再び、咲夜がうなずく。
 
「なすべき仕事はたくさんあったけれど、空間操作が一番大変だったわね。初めの頃はあ
の方と共同で操作していたわ。エリアの一部を私が担当して、徐々にその範囲を広げてい
くっていう寸法でね」
「あなたが空間操作に関して不慣れで、未熟だったから」
「そうよ」
「そうですか。まあ、そうでしょうね、やっぱり……」

 咲夜からの話を聞くのはこれが最初だが、このことは予測がついていた。
 
「その空間操作が……二つの事件の原因です」

 事件の全貌から考えれば、自ずとそれには行き当たるからだった。咲夜の言を聞き、妖
夢は完全に確信を持った。

「まず失踪事件。失踪とはいっても、彼女は自らの意志で紅魔館を去ったわけではありま
せん」
「そういえば、殺されたかどうか言ってたわね。どうだったの?」
「結果的には、失踪……ということになるでしょうね」

 言葉を選ぶ。しかし、それ以外には蒸発という単語くらいしか思い浮かばなかった。
 
「彼女はいつ失踪したのか。それは、紅魔館で大規模な爆発が起きたときです」

 言って、妖夢はちらりと咲夜を見た。論理的な壁を破壊するほどの大きな爆発。その現
場にいたであろう咲夜。多少なりとも、表情に変化が表れるだろう。
 案の定、ほんの少しだけだが、咲夜の顔が強張った。爆発を体験したがゆえの反応だろ
う。

「爆発ね……それは一体何だったの?」

 しかし咲夜は何も言わない。レミリアだけが、妖夢の語りに疑問をはさんでいた。
 
「それは後で説明します。それよりも、先代メイド長がどうなったのかを……」

 妖夢はレミリアの問いに対する答えを保留した。順を追って説明すれば、それはおいお
い話すことになる予定である。

「咲夜、すみませんがもう一つ尋ねます。先代メイド長と共同で紅魔館の空間を操作して
いた頃、現在の亡霊事件の現場はあなたが担当していましたか?」
「ええ、私がやっていたわ」

 妖夢の問いかけに、咲夜は肯定の答えを示した。
 
「分かりました、ありがとうございます」

 本当は、それも予想がついていた。ただ、もしかしたらあのエリアは先代メイド長の担
当領域に接している可能性もあった。だから確認したのである。現場は館内の隅だから、
それはないだろうとは思っていたのだが。

「咲夜があのエリアの空間操作を担当していた。ですが、先ほど本人が言ったように、当
時の咲夜の空間操作能力は完璧ではありませんでした。そのため、その頃の紅魔館内の空
間は実は不安定だったんです」
「まるで見てきたような言い方ね」
「それくらいは想像がつきます。あの場所には今でも、空間の裂け目が存在しているんで
すから」

 推理の結果、現場にある空間の裂け目は、十六年前に発生したことが分かった。三人の
メイドは十年前に勤め始めたのだから、そこに妖気が漂っていることが当たり前だったの
である。だから、特別そのことを気にかけなかったのだ。初めの頃は妖気に気づいていた
かもしれないが、本人たちが言っていたようにやがて慣れて、その感覚が鈍ってしまった
のだろう。

「裂け目? あのすきま妖怪が使ってるやつか?」
「はい。ですが紫様が作ったわけではありません。結界やこの紅魔館のように、自然の空
間に手を加えたものは、たまにその構造が綻びることがあります。その綻びが進行すると、
空間の裂け目ができるんです」
「でも、おんなじようなものでしょ?」
「ええ。厳密には違いがありますが、性質は同じです」

 紫が作る裂け目は紫の力によって無理矢理境界が広げられたもの。対して自然発生する
ものは、境界が曖昧になったためにできるものだ。だが、その本質は面のある境界線であ
る。同じものといって差し支えはなかった。

「なるほどね。あの子は、その裂け目に飲み込まれたのね」
「いいえ、違います」

 全てを悟ったように、レミリアが言葉を紡いだ。空間の裂け目は全てを飲み込み、消え
る。先代メイド長の失踪は、その裂け目に吸い込まれたからだ。レミリアはそう思ったよ
うだ。
 しかし、それは違うのだ。それは、事実ではない。
 
「え……?」

 妖夢の口から出た否定の言葉に、レミリアは怪訝な顔をする。
 
「私も最初はそう思いました。でも、違うんです。先代メイド長は空間の裂け目に飲み込
まれてはいません」
「じゃあ……どこに行ったっていうのよ?」

 責めるような口調でレミリアが詰問する。確かに、空間の裂け目が発生したと聞けば、
そこに飲み込まれたと考えてしまうだろう。先ほどから言葉を発していないが、咲夜もそ
う思っているはずである。
 だが、違う。
 
「話を元に戻します。咲夜が空間操作をしていた現在の亡霊事件の現場は、空間の構造が
不安定だったがために綻び、空間の裂け目が発生しました」
「そうね、そこまでは聞いたわ」
「では、空間の裂け目とは何か。それは、境界が曖昧になったものです」
「境界? 曖昧?」
「はい。境界線が曖昧なものになると、それは線から面へと変質するんです。それが空間
の裂け目です」
「ふうん……」

 レミリアは少し考え込む。それがどういうことなのか一から説明しろと言われると、流
石に妖夢の手には負えない。そもそも藍ですら分からないから、その解説は聞いていない。

「空間の裂け目とは境界。つまり、あの場所には境界が存在するんです」

 そこを質問される前に、妖夢は話を進めることにした。別に原理が分からなくても、そ
ういうものであると考えてくれればいいのだ。妖夢もそういうことにしている。

「では境界とは何か。言うまでもなく、二つのものを隔てる境目です。異なる二つのもの
が接すると、そこに境界ができますね。水面や、山の稜線も境界です」

 第三の領域に拡大されているとはいえ、境界であることに変わりはない。境界があると
いうことは異なる二つのものが接しているということであり、異なる二つのものが接して
いるということはそこに境界があるということだ。

「だからあのエリアに空間の裂け目、つまり境界があるということは、あの場所の空間が
別のものと接しているということなんです」

 現場には壁と窓以外に物は置いていない。つまり空間が接しているのは壁と窓だけなの
だが、裂け目は中空に発生している。ゆえに、空間と壁もしくは空間と窓との境界ではな
い。空間は、目に見えない別の何かと接して境界を作っているのだ。
 では、その何かとは何か。
 
「全てのものは境界がなければ一つの大きなものになってしまい、個別に存在することは
できません。それは、空間とて例外ではないんです」

 空間は一見すると無限の広がりを見せているが、その内にある個々のものに接して境界
を作っていることから鑑みても、それらとは別の一つの個なのである。だから空間全体、
つまり空間はその外側で何かと接していなければその性質を成立させることはできない。
接していなければ、内にあるもの全てを飲み込んでしまうであろう。

「あの場所の空間が接しているもの……。それは、実は名前がありません。なぜなら、こ
の世界にはないものだからです。誰も観測したことのないものなんです」

 妖夢たちは空間の内側の住人だ。だから、空間の外側を観測することはできない。観測
することができなければそれは「ない」ことになるのだから、誰も名前をつけることなど
できはしないのだ。

「だから、それを仮に……『虚空』、と名づけましょう」

 妖夢はぽつりと「それ」に仮名をつけると、力強い口調で明かした。

「先代メイド長は、その『虚空』に巻き込まれて、この世界から姿を消したんです」

 空間と接するもの。
 境界の向こう側にある世界、「虚空」。
 それが、妖夢の辿り着いた事件の答えだった。
 その手がかりとなったのは、藍の出したヒント、背理法である。命題を否定することか
ら始まる数学的証明法。
 妖夢の命題は、「空間を斬ることはできない」だ。
 その否定的命題をもう一度否定する。つまり「空間を斬ることはできる」と仮定するの
だ。もし空間を斬ることができるのならば。ならば、そこから何を導くことができるか。
 妖夢は知っている。物を斬ると、そこに「間(あいだ)」ができることを。紙を切断すれ
ば、切断された二枚の紙は距離という「間」の関係を持つ。物を斬ると、そこにあったも
の以外のものが出現するのだ。
 空間を斬った場合はどうであろう。空間は広すぎるゆえに切断することは不可能だが、
そこに切れ込みを入れることはできる。非常に狭いが「間」を発生させることは可能だ。
 では、空間を斬った際にできるその「間」には、一体何があるのだろうか。
 そもそも、空間自体が既に何もないものだ。ならば、その間にあるものは完全な「無」
でしかない。そこには「無」があるのだ。
 その「無」こそが、境界の向こう側、「虚空」なのである。様々な事物を内包しているこ
の世界の空間は、何物も存在しない無の世界と接しているのだ。

「『虚空』……。それは、本当なの?」

 この世界に存在しない世界を提示されしばし呆然としていたが、やがてレミリアは抑揚
のない声で妖夢に質問をした。普通なら想像もつかないものの話だ。にわかには信じがた
いだろう。

「……『虚空』は観測されていませんし、この世界のものではないからその方法で存在を
証明することはできません。けど、これも後で説明しますが、色々な状況証拠からそれを
理論的に導き出すことはできます」
「そう……」
「ともかく、あの場所に発生した『虚空』に引きずり込まれて先代メイド長はいなくなり
ました。それが、十六年前の失踪事件の事実です」

 誰かの手によって殺されたわけではない。本当に、「失踪」だったのだ。それも、紫です
ら手を出すことのできない領域への「神隠し」だったのである。
 先代メイド長は命を狙われていたかもしれないが、だから咲夜の仕事水準を短期間でメ
イド長並にしようとしたわけではなかったのだ。純粋に、レミリアにふさわしいメイドを
早く育てようとしていただけだった。それが、たまたま偶然、「虚空」に巻き込まれたため
姿を消してしまったのである。

「ですから」

 先代メイド長が失踪した理由ともいえない理由を述べると、妖夢はさらに続けた。
 
「先代メイド長が失踪した原因は、突き詰めると咲夜にあるんです」

 言ってから、妖夢は咲夜を見た。レミリアも急に飛び出した従者の名を聞き、反射的に
横を振り向く。
 冷や汗などかいていない。だが衝撃を受けているのは確かだ。目も少し虚ろである。
 咲夜は蒼褪めた顔でうつむいていた。
 
「咲夜が未熟だったために空間に綻びができ、空間と『虚空』との境界が曖昧になり、そ
してついには『虚空』がこの世界に現れた。意図的ではなかったにせよ、咲夜が失踪事件
に深く関わっていたのは事実です」
「咲夜……」

 微動だにしない咲夜に、レミリアがふらりと近寄る。
 
「どうして……? どうして言わなかった……?」

 日傘を持っていない左手で、レミリアは咲夜の胸倉を掴んだ。吸血鬼の腕力は多少の体
格差など問題にしない。レミリアはぐいと勢いよく掴んだ服を引っ張り、咲夜の体勢を大
きく崩した。すぐそばに来た咲夜の顔に、レミリアは自分の顔を近づける。

「お前は知らないと言ったはずだ! 何が起きたのか、あいつがどこに行ったのか知らな
いと言ったはずだ! それが何だ、あいつがいなくなったのはお前が原因じゃないか!  
なぜ隠した! どうして私に本当のことを言わなかったんだっ!!」

 噛みつくような大声でレミリアは捲くし立てる。ずっとずっと長いこと自分に仕えてい
た優秀な従者が、今仕えている優秀な従者によって消された。意図的ではないからそこは
抑えられたかもしれないが、しかし咲夜は先代メイド長の失踪について何も知らないと報
告している。それが嘘だったことが判明したため、激怒したのだ。咲夜が嘘をついた、そ
のことが許せないのだ。

「お前が……お前のせいでっ」
「やめろっ!!」

 今にも殴りかからんとするレミリアに、妖夢は怒声を叩きつけた。怒りのあまり、レミ
リアが言ってはならないことまで口走ってしまいそうだったからだ。
 妖夢の怒鳴り声にびくりと身を震わせ、レミリアは振り向いた。怒りと戸惑いが入り混
じった複雑な表情だった。

「確かに咲夜の能力が原因だし、咲夜に責任がないとは言えない。けど、分かっているは
ずだ。咲夜が『知らない』と言わざるを得なかったことは」

 やや声に怒気が含まれているが、妖夢はレミリアを落ち着かせるように話した。分かっ
ているはず、と指摘され、レミリアは反駁しかけたが、何も言わずに咲夜から手を離して
うなずいた。葛藤の末、怯えにも似た泣き顔で、うつむく。

「空間の裂け目が出現していたなんて、普通は考えない。まして、『虚空』なんて別世界の
ものに思い当たるわけがないんだ。咲夜があなたに知らない、分からないと報告したのは、
本当に何が起きて先代メイド長がどこに行ったのか分からなかったからなんだ。そんな風
に咲夜を責めるのは……筋が違う」

 だから妖夢は、咲夜以外を呼びたくなかったのだ。こんな風に、咲夜が責め立てられる
ことは分かっていたから。
 咲夜の報告に対し、レミリアは嘘を言っているようには感じなかったと自分で証言して
いる。ただ、咲夜の言った「知らない」とレミリアの聞いた「知らない」は、少しだけ意
味が違っていたのだ。少しだけ、両者の理解に差があっただけなのである。
 先代メイド長が「虚空」に引きずり込まれたとき、咲夜はその現場にいた。しかし、そ
のときに起きた爆発に咲夜はやられているのである。気がついたときには、先代メイド長
は既にいなかったのだ。爆発に巻き込まれたと想像することはできるが、死体が出ていな
いのだからそうと断定することはできない。だから失踪したと考えられるが、どこに行っ
たのか、爆発が何だったのか、分かるはずもないのだ。まだ紫に会っていなかった咲夜が
事実に思い当たることなど不可能なのだ。そういう意味では、妖夢のメイド長室前での保
留は正しかったといえる。咲夜は確かに知らなかったのだから。

「落ち着いて……。滅多なことは、言わないでください……」
「そうね。悪かったわ、咲夜……」
「いえ……」

 解放はされたが、咲夜はうなだれたままだった。悲痛な声がその口から漏れる。
 
「いいえ、いいえ……。責任は、確かに私にあります。今ここでお嬢様に殺されても文句
は言えません。何も分からなかったのは本当です。空間の裂け目のことも、『虚空』も……」

 顔を伏せ、咲夜は嘆く。涙こそ流さないが、その声色から咲夜がどれほどの自責の念に
駆られているかが分かった。

「けれど……私がしっかりしていれば、もっと自分の能力を使いこなせていれば、こんな
ことにはならなかった……。あの方を失うことはなかった……!」

 その手には、固く固く拳が握られていた。まるで後悔と自責と悲哀の刃に耐えるように。
 
「あのとき、私はあの方と一緒にそこにいたわ。あの方は私がまだ空間操作を完璧に行え
ないことを憂えていた。そしてあの場所の空間が不安定であることも見抜いていた。あの
日、あの方はそのことを指摘するために私をあの場所に連れて行ったのよ。そして、その
ときに……」

 「神隠しの主犯」が告白する。探偵の探りきれなかった過去の事実を、欠けたピースの
一部を。目をぎゅっとつむり、ぎりりと歯軋りをして。

「何が起きたのか分からなかった……。物凄い力が発生して……気がついたら、医務室。
その後で、あの方が失踪したことを知ったわ。今なら分かる……私が、どれほど許しがた
いことをしてしまったのか……!」
「咲夜、もういいわ」

 多分に罪悪感にまみれた咲夜の告白を、レミリアが止める。その顔には、もう怒りはな
かった。

「お嬢様……」
「ありえないほど低い確率の現象が起きた。それはもはや偶然ではなく、必然。運命なの
よ。それなら……受け入れるしかないわ」

 目を閉じて、レミリアがうつむく。そこにあるのは、運命を操る能力を持っていながら
その運命を変えられなかった後悔か。レミリアもまた、咲夜ほどではないにしても、責任
を感じているのだろうか。
 咲夜の言葉をレミリアが止めたことで、しばらくの間誰も喋らず、沈黙が流れた。
 
「妖夢……」
「はい」

 やがて、咲夜がそれを破り妖夢に声をかけた。それにはまだ先ほどの感情が残留してい
るが、幾分和らいだようである。咲夜はゆっくりと顔を上げた。

「あの方がどこに行ったのかは分かったわ。けど、一つだけ疑問があるの」

 翳りはあるが、その表情はいつもの咲夜のものだった。紅魔館メイド長、十六夜咲夜の
ものだった。虚勢かもしれないが、咲夜はそうしていなければならないと思っているのだ
ろう。気持ちは妖夢にも分かる。

「どうして、『虚空』なの? 話を聞いた限りじゃ、別に空間の裂け目でも同じなように思
えるわ。どうしてあの方が『虚空』に吸い込まれたと分かったの?」

 そのまま、咲夜は己の疑問を述べた。
 なるほど、もっともである。先代メイド長が観測できるはずのない「虚空」にいると、
なぜ分かるのか。空間の裂け目が発生しているのだから、そちらに巻き込まれたと考える
方が妥当なものだ。しかし妖夢は、この世に存在しないものを挙げている。

「分かりました、説明します。まあ、いずれにしろ話すつもりでしたが」

 その疑問を受け、妖夢はうなずいた。説明の必要はある。それにまだ失踪事件のことし
か話していない。爆発と、亡霊事件についても解説する義務が妖夢にはあった。

「咲夜、あなたの疑問に答えるには、まず『虚空』が一体どういうものであるのかを説明
しなければなりません。ですから、そこから始めます」

 そして再び、事件の解明が始まった。
 
「『虚空』は先ほど言ったとおり、この世界の空間……そうですね、こちらは『実空(じっ
くう)』とでも呼びましょうか、その『実空』と接している別の空間です」

 なぜ「虚空」も空間だといえるのか。それは「虚空」が「無」だからである。「無」は何
もない無限の広がりを持つものだから、無限の空間だと解釈できるのだ。

「『虚空』は『実空』とは全く別の世界……。だから、『実空』での法則や常識は全く通用
しないんです」
「どうして? 観測できないのになぜ分かる?」
「……爆発が起きたからですよ」

 「虚空」の存在とその性質の状況証拠。その一つが、十六年前に咲夜に襲い掛かり、一
昨日妖夢を吹き飛ばした爆発だった。

「爆発?」
「はい。あの爆発は、『虚空』が発生したために起きたものです」

 空間の裂け目が発生しただけでは、爆発など起きはしない。だが、「虚空」であれば話は
別だ。「虚空」が存在するのならば、あの爆発は起こりうる。爆発は、「虚空」が存在する
という間接的な証拠なのだ。

「十六年前に起きた爆発ですが、あれは紅魔館の壁を破壊するほどの威力がありました」
「……別にうちの壁はそんなに頑丈じゃないわよ」
「いいえ、そんなことはありません。レミリア、あなたは壁の材質のことを言っているの
でしょうが、こと破壊を目的にすれば、ここの壁や天井がいかに堅固なものか分かるはず
です」

 どうやら、レミリアは論理的な壁の原理を知らないらしい。いや、知っていてもそれが
紅魔館に適用されていることを知らないのかもしれなかった。自分の家をわざわざ破壊す
るような酔狂な者など、彼女の妹くらいしかいないだろうから、試すはずもないし。

「紅魔館の内部は、メイド長の能力によって拡張されています。それは、外の自然な空間
とは違う、人工的なものだということ。同じ空間ではありますが、全くの同じものではあ
りません。そのため二つの空間の間には境界、論理的な壁ができます」

 小悪魔、そして藍に説明された紅魔館の空間構造論。今度はそれを、妖夢がレミリアと
咲夜に伝える。

「壁を隔てて二つの異質な空間が存在しているとすると、壁は物理的な壁であると同時に
二空間の境界であるといえます。紅魔館の壁を壊すということは、論理的な壁である境界
を壊すということ。それがどれほど難しく、大きな力が要ることになるかは容易に想像が
つくでしょう」

 それを苦もなくなすことができる人物がいるとすれば、論理的な壁即ち境界を自由に操
ることのできる紫だけである。他の人妖は、真正面から莫大な力でもって破壊しなければ
ならないのだ。

「だから紅魔館の壁は壊れにくい。論理的な壁を破壊するわけですからね。……しかし、
十六年前に起きた爆発はそれを破壊してしまったんです」
 レミリアに冷や汗が流れる。咲夜も同様だった。今になって、どれほどの異変だったか
を悟ったのだろう。

「それほどの爆発を起こせる人物、または起こす理由のある人物は十六年前にはいません
でした。したがって、そのときの爆発は自然に発生したものなんです」

 内部外部の人妖を洗ったが、それは徒労だった。「虚空」の存在を考慮に入れた途端、そ
の選択肢が現れたのだから。

「空間の綻びによって『実空』と『虚空』の間にある境界が現れ、それは曖昧なものにな
っていた。境界が明確でなくなっていたため、『実空』と『虚空』は繋がりやすくなってい
たんです」

 曖昧になると拡散するからむしろ二つのものは離されるように思えるが、それは紫が裂
け目として拡げるとき限定である。拡散するならば当然その性質も薄まってしまうのだか
ら、むしろ二つのものは近づきやすくなるのだ。

「そして十六年前、ついに『実空』と『虚空』は触れ合った。……爆発。二つの空間が繋
がった瞬間、論理的な壁を破壊するほどの大爆発が起きたんです」

 それが爆発事件の真相だった。膨大な力を伴っての大爆発。その威力は妖夢も体験済み
であった。たとえ爆発が直撃しなくても、嵐のような妖気に中てられればそれだけで十分
な威力だった。

「咲夜は爆風に吹き飛ばされ気を失い、先代メイド長は、『実空』に繋がった『虚空』に...
...巻き込まれました」

 爆発の真相、そして先代メイド長が「虚空」へと失踪した理由。過失といえど、やはり
その責任は咲夜にあった。

「ちょっと待って」

 レミリアが声を上げる。表情で分かっていたが、既に落ち着きは取り戻している声だっ
た。

「『虚空』と『実空』が繋がると、どうしてそんな大爆発が起きるっていうの?」
「ああ、言ってませんでしたね。まあ、どうしてというより、爆発が起きたからそうだと
考えるしかないんですが」

 妖夢は、改めて二人に釘を刺す。「虚空」の存在は観測によって証明することはできず、
論証によってしか認識できないと。そのため、「虚空」の性質は「実空」での事実を基にす
るしか説明のしようがないのだと。

「『実空』と『虚空』の性質が相反するものだからです。別にこの二つに限ったことではな
く、性質の完全に違うものであれば、互いに干渉した瞬間に巨大な力を発生させるんです。
その量によっては、幻想郷を消し飛ばすほどになるとか……」
「そんなに……?」

 もちろん実際に起こることはほとんどなく、理論的な話ですが、と妖夢は断りを入れて
おいた。しかし藍の計算によって算出されたものだ、信憑性はある。

「十六年前の爆発のときには、それを起こす人物はおらず、現場には曖昧な境界を介して
『虚空』と接している『実空』があった。となれば、論理的な壁を破壊するだけの爆発が
起こせるのは『実空』と『虚空』が干渉することによる力の暴発です。『虚空』はこの世界
には存在しないものですから、それが出現すること自体奇跡のようなものですが、確率は
完全にゼロというわけではないし、それ以外には考えられません」

 事実、妖夢も爆発を起こしている。曖昧になっている境界を斬ったことで、「実空」と「虚
空」を繋げることに成功したのだ。現場にある第三の領域は、十六年という歳月のために
そこまで薄まってしまっていたのだろう。

「このように爆発から考察し、『虚空』が『実空』とは全く相反する性質であるということ
を突き止めました。それなら、『虚空』に『実空』の法則や常識が通用しないというのも納
得がいくでしょう?」
「ええ」
「まあ、ね……」
「ただ、これはさっきの爆発は一体何だったのかというレミリアの問いに対する答えでし
かありません。咲夜の質問には、これを踏まえたうえで説明します」

 なぜ先代メイド長は空間の裂け目ではなく「虚空」に巻き込まれたのか。それは「虚空」
の性質から語ることができるのだ。

「ここで必要になるのが、現在発生している亡霊事件です。咲夜、あなたの最初の依頼に
ようやく応えることができます」

 探偵の話は新たな段階に入る。失踪事件と亡霊事件は繋がっているのだ。そして亡霊事
件を解明するためには失踪事件を、失踪事件を解明するためには亡霊事件を解明しなけれ
ばならなかった。
 咲夜が小さくうなずく。少し喉の調子を整えると、妖夢は今一度語り始めた。
 
「まず最初に亡霊事件で現れる亡霊のことですが、あれは間違いなく先代メイド長です」
「あの子の亡霊、というわけね」

 レミリアが相槌を打つ。しかし妖夢は首を横に振った。
 
「いいえ。違います、レミリア」

 「虚空」と空間の裂け目の間違いを指摘されたときのように、レミリアは再び眉をひそ
めた。

「違うの? 『虚空』に巻き込まれて死んだあの子が、亡霊になってあそこに出てるんじ
ゃないの?」
「ええ、違います。二人とも勘違いしてるようですから言いますが、そもそも先代メイド
長は生きています」

 レミリアと咲夜の目が、驚愕に見開かれた。確かに、「無」の空間に投げ込まれたなら、
死を連想するだろう。「虚空」は何もない場所なのだ。そんなところで十六年間もどうやっ
て。二人の目がそう語っているのがよく分かった。

「先代メイド長は生きています。なぜなら、出現時に歌を歌っていたから」
「歌?」
「はい。彼女を目撃したメイド三人が聞いています」
「歌くらい、亡霊だって歌うでしょうが」
「ええ、生前の姿を取れるほどの亡霊なら、声を発することはできます。が、やはり亡霊
ではありません」

 妖夢は実際に先代メイド長をその目で見ている。ほんの一瞬の出会いであったが、曖昧
な境界を斬ったときに現れた女性からは、亡霊の気配は感じ取れなかった。
 しかし、それを抜きにしても妖夢は彼女が亡霊ではないことを確信していた。
 
「亡霊でも歌は歌えます。けれど、亡霊のほとんどは自由に行動する浮幽霊です。彼岸だ
ろうと冥界だろうと顕界だろうと亡霊が現れるのは自由に行動ができるからです。自縛霊
でもない限り、一ヶ所にとどまることはしません」
「じゃあ、自縛霊なんじゃないの?」
「違います。自縛霊はその場所に強い思い入れか、恨みがないとなりません。恨みはもち
ろん、先代メイド長があの場所を気に入っていたということはありますか?」
「……ないわ」

 咲夜が答えた。妖夢は当然という風にうなずく。そも、恨むどころか歌を歌うような自
縛霊など存在するはずがないのだ。

「その時点で自縛霊の可能性はなくなります。残るは浮幽霊の場合ですが、自由に行動が
できるのにあの場所にとどまる理由がありません。彼女ほどの意思の強さなら、生者と意
思疎通できます。となれば、あなた方に会いに行くのが自然ではありませんか?」

 美鈴との会話で、出現する亡霊が亡霊ではないという選択肢は既にあった。それは正し
かったのだ。亡霊らしい行動を取っていないのは、やはり亡霊ではないからなのである。
レミリアや紅魔館が好きだった先代メイド長が会いに来ないというのは、まず考えられな
かった。
 冥界の住人である妖夢に言われては首を縦に振るしかあるまい。二人は納得したようだ
った。

「霊ではないし、死体は歌を歌えない。なら、生者以外にありえないでしょう」

 そして妖夢の感覚でも彼女は生きていた。だから、それで間違いない。
 
「では咲夜、あなたの質問に答えましょう」

 妖夢は咲夜に向き直った。そして、至極あっさりとそれを述べる。
 
「なぜ先代メイド長が『虚空』に巻き込まれたといえるのか。簡単です、空間の裂け目の
中で十六年間も生きることは不可能だからです」

 先代メイド長が生者であることは立証された。それならば、何もない裂け目の中で十六
年間生きることはできない。これは裂け目の体験者による証言だ。間違いはない。

「じゃあ、『虚空』の中でなら生きることができるのかしら?」
「それなんですが……多分できません」

 爆発が起きたのならば「虚空」が発生している。先代メイド長が「神隠し」に遭うとす
れば、「虚空」か空間の裂け目かの二択だ。しかし裂け目でないことは今しがた確立された
ばかりである。となれば、もう論理的に一つしか残らない。「虚空」なのだ。
 しかしそれでも疑問が残るのは当然である。咲夜はその当然の疑問を投げかけてきた。
それに対し、妖夢は幾分弱気な答えを返す。
 だがここでの多分というのは、「虚空」を観測することができないからではない。別の理
由があって妖夢はできないと表現したのだ。

「できないって……どういうことなの?」
「『虚空』の中では、『生きる』という表現が当てはまらないんです」
「それって生きられないってことじゃないの?」
「いえ、そうではなく……さっき言いましたが、『虚空』は『実空』の法則、常識が通用し
ません。『虚空』には『虚空』独自の法則、常識があるんです」

 「実空」と「虚空」は相反する性質のものである。ということは、「虚空」の法則は「実
空」の法則と正反対であるという考え方もできるのだ。そして、ある一点においては妖夢
のその考えは正しいのである。他は正反対ではないかもしれないが、それだけは正反対で
あるのだ。

「『虚空』には『実空』にあるような様々な物はありません。だから……時間すらもそこに
は存在しないのだと思います」

 再度、二人の目が丸くなる。とりわけ咲夜は、時間と聞いてかすかに息を飲んだようだ
った。

「……今までも十分信じがたい話だったけど、それはまた格段に信じがたいわね」

 呆れているのだろう。くっくっ、と含み笑いをしながらレミリアは感想を漏らした。
 確かにそうだ。時間の存在しない世界など、妖夢だって信じられない。だが「虚空」に
「実空」の法則や常識が通用しないことは言ったばかりだし、理論立てていくとどうして
もそうなってしまうのである。妖夢は「虚空」には時間の概念が存在しないこと、即ち「虚
空」では時間が流れないことをほぼ確信していた。

「ですが、事実です。先代メイド長は十六年前に『虚空』に巻き込まれ、そのまま『虚空』
で生きていたのではなく、巻き込まれた瞬間に全ての時間を止められてしまったんです。
時間が止まっているのだから、それは生きているわけでも死んでいるわけでもない。しか
し『実空』での概念に照らし合わせれば生きているといえるでしょう」

 だから、妖夢は多分できないと言った。一応生きているのだが、「虚空」には時間が流れ
ていないのだから正確な意味で生きているとはいえないのだ。「虚空」の中ではそこに「在
る」ことしかできないのだ。生物であっても、ひとたび「虚空」に入ってしまえばただの
物になってしまうのである。

「先代メイド長は『虚空』の中に消えました。『虚空』の世界はそのままで、『実空』の世
界でのみ時間が流れ続けます。そして十六年、現在になって『虚空』への入口がもう一度
開いたのですが、先代メイド長にとっては一瞬後のことでしかないんです」

 藍が「タイムワープでもすれば……」と呟いていたが、「実空」から「虚空」へ、そして
また「実空」へという移動はまさしくタイムワープなのだ。先代メイド長は時の止まった
世界の中で十六年間存在し続け、今になって時間の流れる世界に出現した。先代メイド長
の視点からすれば、タイムワープしているとしかとれないだろう。

「なるほど……時間が流れないのだから死ぬことはない、というわけね」
「ええ、そうです」
「じゃあ、時間が止まっているというのはなぜ分かるのかしら?」

 さらなる疑問。「虚空」の性質の証明。
 妖夢は解答する。
 
「先代メイド長が歌を歌っていたからです」
「歌……?」
「……咲夜は、多分この時点で分かると思います」
「そうなの? 咲夜?」

 レミリアが咲夜を見た。咲夜は考える素振りを見せない。先ほど歌のくだりを話したと
きに察しがついていたのだろう。

「それと同時に、その歌こそが、亡霊事件において出現する『亡霊』が先代メイド長であ
るという証拠です」

 亡霊事件の解説の最初に、亡霊が先代メイド長であると妖夢は言ったが、その証拠まで
はまだ言っていなかった。メイドたちの証言していた歌。それが証拠だったのである。

「咲夜。あなたなら彼女が何を歌っていたか分かるはずです。歌ってみてください」

 妖夢は咲夜に頼んだ。本来なら歌を歌っていたという報告を受けていない咲夜が歌える
はずはないのだが、咲夜があの現場にいたこと、そして時間が流れないという「虚空」の
性質から、妖夢は咲夜にそれができることを確信していた。

「……分かったわ」

 咲夜はうなずくと、こほん、と軽く咳払いをした。目を閉じ、すうと息を吸い込んで、
その歌を再現する。歌と呼べるには怪しいほどの、短い歌を。

 ――清く正しく美しく
 ――全てはレミリアお嬢様のために
 ――我ら誇り高き紅魔館メイド

 澄んだ声で、咲夜はそれを歌った。
 
「……変な歌ね」

 くすり、とレミリアが笑う。歌というよりは、ただのフレーズに音程をつけただけのも
のだから、確かに変だ。それに美鈴の話によると先代メイド長は音痴だったらしい。その
音程にも、やや疑問が残るところである。

「ですが、あの方はこの歌を好んで歌っておりました。メイドは私以外誰も覚えませんで
したけど」

 咲夜もわずかに笑みを浮かべてそう返した。
 
「ありがとうございます、咲夜。これで証拠が絶対のものに変わりました」

 歌ってくれた咲夜に、妖夢は礼を言う。その歌を咲夜が歌うということは、あらゆる面
で妖夢の推理を補強するものなのだ。
 咲夜の歌った歌は、紅魔館メイド心得である。それが示す意味は、多様にあった。
 妖夢は解説を再開する。
 
「レミリアは知らないと思いますが、今咲夜が歌ったのは紅魔館メイド心得です。心得は
先代メイド長が作ったもので、現在までメイドたちのモットーとして扱われています」
「全ては私のため、ね。あの子らしいわ」

 嬉しそうな、しかし悲しみも含んだ笑顔でレミリアはコメントした。生きているとはい
っても、それは既に過去の人物の言葉。今になって知っても、それに感謝することもでき
ない。レミリアの胸中には虚しさが流れているのだろう。

「それを、どうやら彼女は歌にしていたようですね。ただ、今咲夜が言ったようにメイド
たちは覚えなかったようです。咲夜と、先代メイド長だけなんですね」

 メイドたちの証言。紅魔館では雑務部隊によってメイドたちに歌がリリースされる。し
かしそれが流行る確率は低いのだ。作った本人が歌うだけで、他の皆は忘れてしまう。
 歌を歌うのが好きだった先代メイド長は、よく雑務部隊に自分の作詞作曲の歌をリリー
スするように頼んでいたらしい。紅魔館メイド心得もその一つだ。しかし音痴な上に音楽
センスが致命的に欠けていたため、依頼される歌はどれも酷いものだった。なので、何度
流してもメイドたちが気に入ることはなかったのである。
 なお、雑務部隊に依頼された歌は、全て雑務部隊室に保管されている。そのため妖夢は、
寝込んでいる間に雑務部隊員に頼み、「紅魔館」の歌詞が含められている歌を探してもらっ
たのだ。
 その結果、該当したのは紅魔館メイド心得ただ一つだった。
 ゆえに、妖夢は確信したのである。現れる亡霊が、先代メイド長であると。
 
「紅魔館という歌詞を含む歌はたった一つ。そしてそれを歌うのも、咲夜を除けば一人だ
け。つまり、先代メイド長なんです」

 その確信は、咲夜が歌うことで証拠に変わった。
 亡霊は先代メイド長であり、さらに亡霊ではなく生者である。これで、亡霊の正体は完
全に判明した。
 と同時に、先代メイド長が「虚空」に巻き込まれたことの証拠でもある。
 
「咲夜、先ほど先代メイド長と一緒に爆発の現場に行った、そして爆発に巻き込まれたと
言いましたね?」
「ええ、言ったわ。事実よ」
「その爆発が起きる直前、彼女はその歌を歌っていませんでしたか?」
「ええ、歌ってたわ」

 示し合わせたかのように、咲夜は妖夢の質問に対してすらすらと答えた。
 
「つまり、それが『虚空』に時間が流れないことの証拠です」
「……そうね」
「……そういうことか」

 レミリアと咲夜は、同時に呟いた。ついに、「虚空」を理解したのである。
 
「そう、彼女は歌を歌っている最中に『虚空』に引き込まれた。そして時間の流れない世
界を過ごし、こちらで十六年経って再び『虚空』と『実空』が繋がったとき、その歌の続
きを歌ったんです」

 恐らくは咲夜の未熟を是正するために、先代メイド長は咲夜に紅魔館心得を聞かせてい
たのだろう。そのときに、というわけだ。
 その歌を、目撃したメイドが聞いたのだ。
 「虚空」の時間が止まっていなければ、現れた先代メイド長が歌を歌うことなどありえ
ないのである。ゆえに、「虚空」は存在し、そこに時間は流れない。
 そして、「虚空」は確かに発生し、先代メイド長はそれに巻き込まれたのも事実となるの
だ。

 歌が、完全を求める歌が、境界の向こう側にある虚軸の世界を、その存在を証明したの
だ。


「なるほど……なるほどね」

 天を仰ぎ、レミリアが唸る。皮肉気な嘲笑。嗤っているのは、常軌を逸した一連の事実
に対してか、それとも、その非常識を見抜くことのできなかった己のふがいなさに対して
か。人伝にしか先代メイド長の人柄を知らない妖夢にとっては、その心理を正確に把握す
ることはできなかった。

「……それじゃあ、もう一ついいかしら?」

 しばらくそうしていたレミリアは、ほどなくして視線を妖夢に戻し、口を開いた。
 
「あの子がどこに行ったのか分かった。それが何なのかも分かった。でもまだ一つだけ分
からない……。どうして、今頃になってもう一度『虚空』が開いたの? それも、三回」

 「虚空」の現れる確率は、限りなくゼロに近い。十六年前に現れたのも、本来ならあり
えないことなのだ。しかし、それは年月を経て現在、三度に渡って出現している。なぜ、
それほどの頻度で生じているのだろうか。

「申し訳ないですが、その正確な原因は私も分かりませんでした」

 そこで妖夢は、初めて原因不明を口にした。実際妖夢も疑問に思っていたのだが、それ
を裏づける事物だけは見つけることができなかったのだ。

「ただ、今でもあの場所に空間の裂け目であるところの曖昧な境界が存在していることか
ら考えれば、紅魔館の空間制御は本当は完全ではないのではないかと思います」
「完全じゃない……? 咲夜が今でも未熟だっていうの?」

 レミリアは横目で咲夜を一瞥する。咲夜も不思議そうな表情をしていた。仮に妖夢の想
像が当たっているのならば、それは咲夜自身も自覚していないことなのだろう。

「そうは言いません。でも空間の管理は咲夜が行っています。空間を拡げるも縮めるも咲
夜の自由なら、その安定不安定も咲夜次第なのではないでしょうか」
「つまり、私があの場所を不安定なままにしていると……?」
「そう思っていないのならいいんですが、しかし現にあの場所の空間構造は不安定です。
もしかすると咲夜は、無意識的にあのエリアの空間把握をおろそかにしているのかもしれ
ません」

 証拠がないから断定はできない。空間操作は咲夜しかできないのだから、その原理や方
法は妖夢には分からない。だから、妖夢は憶測でしか言うことはできなかった。
 ただ、妖夢がそう答える理由は、空間の裂け目が現在もあるからのみではない。
 
「先代メイド長が巻き込まれて以来『虚空』は現れませんでしたが、それから十六年後の
現在になって偶然また発生した。それを、さらに偶然にメイドが目撃し、咲夜に報告した。
事件の場所と、『亡霊』の特徴を聞き、あなたはすぐに先代メイド長と失踪事件を思い出し
た。平静さは保っていたようですが、かなり気が動転したでしょうね。その心理的な要因
が空間操作に作用して、あのエリアの構造をますます不安定にさせてしまった」

 そのために、「虚空」の出現確率が飛躍的に高まったのだ。
 
「……と、私は考えてます。想像ですから確証はありませんけどね」

 妖夢は肩をすくめた。この一点だけ論証できないのは、妖夢も不本意である。だが、不
服であっても手の打ちようがなかった。

「そうね……。確かに、報告を受けたとき私は真っ先にそのことを思い浮かべたし、動揺
したのも事実だわ。そうと考えていいと思う」

 だから、咲夜がそのように肯定することは妖夢にとって救いだった。
 
「けど、あの方が現れたということは『虚空』が発生しているということよね。『虚空』が
この世界に現れると爆発が起きるんじゃないの? あなたがやったときは爆発を起こした
ようだけど、メイドが目撃したときに起きなかったのはなぜ?」
「ああ、それですか。十六年前とは状況が少し違うというのが理由ですね」

 咲夜の新たな質問。それには答えることができる。妖夢は簡単に述べた後、説明する。
 
「咲夜の言う通り、現在最低四回『虚空』は『実空』と繋がっています。だから原理的に
は爆発は起きてしかるべきです。しかしそれがなぜ起きないかというと、境界が十六年前
よりさらに拡散しているからなんです」
「拡散?」
「はい。『虚空』が『実空』と触れ合うにはまず境界を越えなければなりませんが、境界が
曖昧な状態、空間の裂け目になっている場合にはその限りではありません。自然に発生す
る空間の裂け目は部分的に見ると濃淡があるんです。だから、一部分の濃度がゼロになっ
たりすると、それは実質的に『実空』と『虚空』が繋がることになるんです」

 これもやはり本来はありえないことですが、と妖夢は続けた。それが起きたのは、空間
構造が不安定だからというのが原因だろう。それによって、空間の裂け目の構造も若干変
質しているのだ。

「十六年前に『実空』と『虚空』が繋がったのはそういう原理です。では現在のはどう違
うかというと、さっき言いましたが境界がさらに拡散している点が違います」
「どんな風に?」
「『虚空』が境界に触れているにもかかわらずその場合に爆発が生じないのは、境界が『虚
空』と『実空』両方の性質を持ち合わせているからです」

 藍の言っていた、境界の属性。両者と同じ性質と反する性質を同時に内包する境界線の
特殊性。

「性質が同じだから反応は起きない。しかし境界は境界として独立している。その矛盾こ
そが境界の特質です。その性質があるがために、『実空』と『虚空』の間に存在することが
できるんです」

 そして同時に、全てのものが存在することのできる理由でもあった。
 
「現在のあのエリアは、かなり広い範囲に境界が拡散しています。ということは、その一
部分の濃度がゼロになり『虚空』が繋がったとしても、周囲が全て境界なわけですから、
『実空』と反応することはできないんです」
「あの場所の空間全域が空間の裂け目になってしまっているということ?」
「ええ。とはいっても拡散した境界と『実空』とが混じり合った非常に微妙な構造をして
います。メイドたちが何も気づかずにあそこで行動できているのは、空間構造が完全な空
間の裂け目ではなく、『実空』としての性質もはらんだものになっているからです」

 「実空」でもあるからメイドは行動できる。そして境界でもあるから「虚空」は反応し
ない。言わば、第三の領域はさらに進化して第四の領域になっているのだ。

「十六年前はそんなことはなく、拡散の範囲も狭かったから爆発が起きた。しかし、論理
的な壁を破壊したとはいえその程度で済んだのは、やはり境界の存在が大きいでしょう。
対して現在は拡散の範囲が非常に広い。そのおかげで爆発は凄く抑えられているんです」

 状況が違うとはそういうことである。もっとも、その効果は極めて大きなものだったが。
 
「実際のところ、爆発に近いものは起きていると思われます。メイドの証言によれば、先
代メイド長が現れる直前、要するに『虚空』が生じる直前に、強い魔力が集中したそうで
すから」
「爆発の力というわけね」
「拡散した境界のおかげで不発に終わっている、と」
「はい、その通りです」

 メイドの証言がその推測の根拠だった。しかもその力は妖精を凌ぐものである。爆発の
際に発生する莫大な魔力と見て間違いはないだろう。境界と「実空」の混合空間と、「虚空」
との反応によるゆるい力なのだ。

「先日私が爆発を起こしたのは、その境界を斬ったからです。自然に『虚空』が発生する
場合、その濃度がゼロになることが条件であることは既に言いました。私はそれを無視し
て無理矢理境界に穴を開けた。そのときの『虚空』と『実空』との反応で発生した力が拡
散した境界では吸収しきれないものだったために爆発となったんでしょう」

 それでも、論理的な壁を破壊するまでには至らなかった。境界の拡散が爆発を抑え込ん
でいる証拠である。

「そう……それで頻繁に現れているのに爆発は起きないのね」
「ええ。もし一度でも爆発が起きていれば、すぐに失踪事件と結びついたでしょうね」

 メイドたちの間で十六年前の事件が噂にならなかったのはそのせいだった。二十年以上
勤めているメイドの割合は少ない。数ある流言の一つとして捉えられていたことだろう。

 咲夜とレミリアが黙る。疑問はもう出てこないだろうか。妖夢としても、語るべきこと
は既に語りつくしていた。事件の全貌は、隅々まで話したはずである。
 では、と妖夢は軽く咳払いする。
 
「今から二十年前、咲夜をメイドとして紅魔館に迎え入れたことで、先代メイド長が紅魔
館そのものの管理も含む様々な教育を施した。それがきっかけ。咲夜の能力が未熟だった
ために、運命としか考えられないような偶然で本来発生しえないはずの『虚空』がこの世
界に現れ、それによって先代メイド長はこの世界から失踪した。相反する性質を持つ空間
同士の反応による爆発を伴って。それが遠因。そして『実空』にて十六年の歳月の後、咲
夜の空間制御に問題が残っていたため『虚空』は再びその口を開き、恐らくはその口のそ
ばにいる先代メイド長が度々現れるようになる。『虚空』と『実空』を往復しながら。それ
が直接の原因」


 ――これが、十六年前に起こった先代メイド長失踪事件と、現在発生している亡霊事件
の、真相です。

「これで私の推理は終了です。理解して、いただけましたか……?」

 朗々と推理をまとめると、妖夢は二人に一礼した。そして顔を上げ、レミリアと咲夜の
反応を待つ。
「ええ。ありがとう、妖夢……」
「納得するしかないわね。素晴らしい推理だったわ」

 二人は微笑みを浮かべて答えた。その微笑には、やはり哀しみが含まれているけれど。
 打ちのめされたといっても過言ではない。過去に起きた忌まわしい事件が、現在までそ
の影響を与えていた。想像もつかない世界と共に。巨大すぎるスケールの事実関係。個人
の精神が受け止めるには、膨大すぎるのだ。同時に、二人にのしかかる罪悪感。その複雑
な気持ちを整理するには、相当の時間がかかることだろう。

「ただ……一つだけ分からないことがあるんです」

 妖夢は、二人が虚脱状態になる前に声をかけた。まだ放心されてもらっては困る。推理
自体は完了したが、妖夢個人としての用件がまだ残っているからだった。
 妖夢の声に、二人は反応する。
 
「咲夜、どうして私に事件解決の依頼をしたんですか? 亡霊事件の報告を受けた時点で、
あなたは失踪事件を連想していた。失踪事件のことを知らない私に調べさせるより、あな
た自身が動いた方が早く解決したと思うんですが……」

 それは、最後まで氷解しなかった妖夢の疑問だった。いくら二つの事件の関連性が確定
されていなかったとはいえ、重大な手がかりであることに変わりはない。より詳しい情報
を持っていた咲夜の方が操作には適任だったはずだ。しかも、結果からいえば事件は完全
に紅魔館内部の事情である。わざわざ外部の者である妖夢にそのことを漏らし、捜査を依
頼するメリットはないはずだった。

「ええ、そうね……」

 咲夜は呟く。少しだけ言葉を整理するように考え込んだ後、妖夢のほうを向いた。
 
「確かに、私はある程度の事情は掴んでいた。あなたの疑問ももっともだと思う。けど、
私の方は初めから手詰まりだったのよ」

 失望の色を帯びた声で、咲夜は話す。
 
「あの方が失踪した後、私も自分で調べたわ。何があったのか、何が起きたのか。でも、
あの場所に魔力があるということ以外何一つ分からなかった。その魔力は、爆発による力
が残留しているものだとも思っていたし。……空間の裂け目だなんて、分かるはずがない
じゃない」

 その事実の履き違えが、咲夜の捜査を頭打ちにした。咲夜は自嘲する。そしてずっとそ
う思っていたのだから、紫に会ってもそれが同じものだということに気づかなかったのだ
ろう。

「亡霊事件の報告を受けた後も、本当は少し調べてるのよ。けれど、何も分からなかった。
あの方の失踪と絶対に関係があると思っていたけど、その糸口すら見つけることはできな
かった。もどかしくて、発狂しそうだったわよ」

 腕を組んでいた咲夜は、その手に力を込めた。苦々しい表情。自己の無力を呪っている
のだろうか。

「そんなときたまたまあなたが来て……だから私はあなたに依頼したの。私は情報を持っ
ていたけれど、むしろ何も知らないあなたの方が、却って手がかりを掴めるんじゃないか
と思って」

 先入観を持った者よりも、何の情報も持っていないまっさらな状態の者が調べた方が、
見落とされている何かを見つけられるかもしれなかったから。捜査がうまくいかなかった
時分、咲夜はそのような人物を欲していたのだ。自己の責任を追及されることになってで
も、真実を求めたのだ。

「その中でもわざわざあなたを選んだのは、外部の者だったからこそ、よ。もしもうちの
者に調べさせて事件が解決されたら、必ずその情報は漏れ、全体に伝わる。そうなれば、
いらぬ混乱を招くことになるわ」

 先代メイド長が失踪したのは、咲夜の過失によるものである。だがたとえ事実はそうだ
ったとしても、咲夜のせいであることは確かだ。となれば、もしメイドたちに伝わった場
合、レミリアの暴言を再現する者が必ず出る。その規模が大きくなれば、紅魔館の機能が
麻痺する危険性もあった。実際、十六年前に一度ストップしているのだから。
 亡霊事件が発覚した段階ではまだその因果関係が分かっていなかったとはいえ、可能性
としては十分考えられた。だから咲夜は、紅魔館内の人物に依頼することは避けたのだ。

「幸いあなたは口が堅いからね。もし私の想像が当たっていたとしても、余計なことは言
わないと信じていたわ」

 咲夜は笑顔を作った。結果、妖夢は咲夜一人だけに事実関係を打ち明けようとしたのだ。
レミリアがいるとはいえ、確かに妖夢は言いふらす真似はしていないのである。
 知らぬうちに信用されていて、妖夢は少し照れ臭くなった。
 咲夜の考えは正しい。妖夢もメイドたちに聞き込みをしたとき、事実があまりにも捻じ
曲げられていることを痛感した。もしもメイドたちに咲夜の不利になるようなことを喋れ
ば、それはまた伝聞の不確実性によって事実無根な風説となりうるだろう。そのとき、今
度こそ混乱は避けられないと強く認識した。
 現に、この話を聞いたレミリアが咲夜に食ってかかっている。ならば、事実に尾ひれが
つけばどうなるかは、火を見るよりも明らかだ。
 妖夢の判断もまた、正しかったといえよう。
 
「よく分かったわ。信じてくれてありがとう、咲夜」

 咲夜が妖夢を抜擢した理由に納得し、妖夢は礼を言った。それと同時に、妖夢はこのこ
とを絶対誰にも言わないことを決意した。自分を信じてくれた咲夜を、裏切りたくはない。
これは本来、解明してはならない事件だったのだ。「虚空」などという、この世界にないも
のが顕現している事件。「実空」に住む者たちが触れてはならない領域なのだ。
 だから、この事件は迷宮入りさせなければならない。事件に関わった人物だけが真相を
知っていればいいのだ。真実の隠匿は勧められるべきことではないけれど、この事件は誰
も悪くない。真相の流布によって混乱が起こる前に、事件そのものをなかったことにして
騒ぎを収束させるべきなのだ。

「それじゃあ、咲夜」

 もし事件にもっとも深く関わっている咲夜を裁かなければならないとするならば、それ
は彼女の死後に、閻魔がなすべきことであろう。
 だから真相を闇に葬る。妖夢は咲夜に声をかけた。
 
「これから、どうします?」
「どう、って?」
「『虚空』をどうするかですよ。このまま放っておくわけにはいかないでしょう」

 亡霊事件は妖夢の手によって解き明かされた。しかし、本当の意味で解決したとはいえ
ない。「虚空」への口が開いている以上、先代メイド長や爆発はこれからも起きる可能性が
あるのだ。

「今でこそ爆発の危険性は和らいでいますが、いつまた爆発が起きるか分かりません。そ
れに爆発が起きなくても、他のメイドが『虚空』に引きずり込まれるかもしれないんです。
私としては、あれを塞いでしまうのが一番いいと思いますが」

 十六年前は偶然に発生したけれど、今は意図的に発生させることさえできるのだ。封鎖
を続けていても意味はないし、事故が起きてからでは遅いのだ。紅魔館の住人、そして管
理者としては、対処しなければならない事柄である。
 「虚空」はこの世界にないものであり、またあってはならないものなのだ。世界の法則
を乱せば、無用の混沌をもたらすことになりかねない。

「確かにそうね。けれど、塞ぐことなんてできるの?」
「ええ、できます。もっとも、私の仮説が正しければ、ですが」

 咲夜の問いに、妖夢は肯定の意を示した。
 
「『虚空』が現在頻繁に発生しているのは、咲夜が事件の報告を受けて動揺したからとい
うのが私の仮説です。となれば、咲夜がその動揺を打ち消し、またさらに先代メイド長へ
の未練を完全に断てばいい」

 そう言うと、妖夢は腰に差してある刀を引き抜き、その切っ先を咲夜に向けた。
 
「この、迷いを断ち切る白楼剣で」

 ただそこにあるだけの空間は、確固たるものとして存在している。それが空間にとって
は安定状態なのだ。しかし、あのエリアに限ってはその構造が崩れ、「虚空」という別空間
の伏在を許してしまっている。不安定な空間、それはいわば空間に迷いが生じているので
あり、即ち咲夜の迷いが浮き出ているということなのだ。
 ならば、咲夜の迷いを斬れば、こびりついた憂いを取り除けば、「虚空」は消える。
 紅魔館内の空間は、それをもって初めて完全となるのだ。
 
「私が咲夜に依頼されたのは事件の解決。だからもう同じ事件を起こさないことが、私の
真の任務です」

 それこそが事件の本当の解決だ。妖夢にはそこまでする義務がある。ただしそれは咲夜
の以来の範囲でのことだ。だからここで咲夜が依頼を打ち切り、自分で何とかするのなら
ばそれに従うつもりだった。だから「虚空」に対する処置の如何を咲夜に尋ねたのである。

「ちょっと待って、『虚空』を塞ぐってことは、あの子はどうなるの?」

 するとそのとき、レミリアが口を開いた。確かに、「虚空」を塞ぐことで事件の解決はな
される。しかし、「虚空」には先代メイド長がいるのだ。彼女を、どうするのか。

「咲夜の迷いを斬って『虚空』の口を塞げば、『虚空』は二度と発生しません。だから……
言いにくいですが、彼女は『虚空』に置き去りということになります」

 妖夢はレミリアの問いに答えた。恐らくは、レミリアの期待したものとは正反対の答え
を提示する。

「……何よそれ。あの子は生きてるんでしょうっ!?」

 その瞬間、再びレミリアの怒りが爆発した。
 
「突然いなくなって、私も諦めかけていたのに! でも、あの子は生きていた! なら、
どうして助け出すって選択肢が出てこないのよ!!」

 ずかずかと妖夢に近づき、レミリアは白楼剣を持っている腕を掴んだ。その手に力が込
められる。刃を向けるなと言うかのように、レミリアはぎりぎりと妖夢の腕を握り締めた。
締めつけられる腕と、赤く膨れる手の痛みに、妖夢は顔をしかめる。

「助け……られないんです」

 そうされながらも、妖夢は答えた。先代メイド長を「虚空」から救い出すという選択を
しない理由を。選択しないのではなく、それができないのだと。

「……なぜ?」

 手の痛みが消えた。レミリアが手を離したのだ。妖夢は白楼剣を鞘に収めると、腕をさ
すりながら説明した。

「そもそも手立てがありません。『実空』の住人である私たちには、『実空』内のものに影
響を与えることしかできないんです。だから、『虚空』とそこに内在するものに手を出すこ
とはできません」

 「虚空」の法則は「実空」と違う。ならば、「実空」でしか行動したことのない妖夢たち
に、「虚空」での正しい行動ができるはずはないのだ。

「あの子は『実空』に現れるんでしょ? だったら、そのときに……」
「ただ『虚空』と『実空』が繋がるだけなら、多分それもできると思います。でも、先代
メイド長の体は二空間を往復してしまっている。それはつまり、彼女が『虚空』の性質を
手にしてしまったということです。時間の存在しない世界でも、何らかの作用によってそ
うなってしまったのでしょう」

 その原因は、無論分からない。「虚空」の法則は「実空」には存在しないのだから。
 
「下手に手を出せば、私たちも『虚空』に巻き込まれる可能性もあります」

 「虚空」という世界は、ここから遠くかけ離れた領域だ。そこには、紫ですら干渉する
ことはできない。虚と実の境界を操作することができるというが、それはあくまで実の中
での虚なのである。完全な虚に対しては、紫の能力も範疇外なのだ。

「……それでもかまわない、助けてみせるというのであれば、私は引き下がります」

 初めから、妖夢は咲夜方の裁量に任せている。ただ、紅魔館の管理や世界の摂理を考え
ると、そうしたほうがいいと言っているのだ。もしかしたら何か方法があるかもしれない。
その選択でよいのならば、妖夢は止めるつもりはなかった。
 斬ることしかできない妖夢には、「虚空」を塞ぐという解決法しかできないのだから。
 妖夢に見つめられ、レミリアは目を逸らす。実際、レミリアもどうすれば先代メイド長
を救出できるのか分からないだろう。「虚空」はこの世界の範囲外だ、図書館に資料がある
とも思えなかった。

「お嬢様……」

 妖夢もレミリアも口をつぐんだ。沈黙が訪れる。
 ややあって、声を発したのは咲夜だった。その呼びかけに、レミリアは咲夜のほうを振
り向く。

「この選択、私の一存では決めかねます。申し訳ありませんが、お嬢様が裁断を下してく
ださい。あの方はメイド長の身。その処置の如何は、お嬢様が採択なさるべきだと思いま
す」

 咲夜はレミリアに深々と頭を下げた。この処断は先代メイド長、ひいては紅魔館の在り
方にかかわるものだ。ならば、決定を下すべきはその最高権力者であるレミリアなのだ。

「お嬢様の決定に、私は従います……」

 それが、自分の採りたい選択肢と違っていても。
 それが、従者だから。
 
「……卑怯ね、咲夜」
「申し訳ございません」

 レミリアは嗤う。ただでさえ迷っていて、誰かからの助言が欲しかったところなのに。
味方になりそうだった咲夜は、あっさりとその役割をレミリアに移譲してしまったのだ。

「……分かったわ」

 レミリアは二人に背を向けた。その表情を見ることはできず、体のほとんどは日傘で隠
れてしまっている。今、レミリアの心情がどんなものなのか、妖夢に推し量ることはでき
なかった。
 黙りこくる三人。長い長い静寂が、その場を包み込んでいた。
 
「妖夢」

 そして。
 振り向いたレミリアは、判決を言い渡した。


「咲夜を、斬りなさい」

「……はい」

 かしゃん。白楼剣が再び引き抜かれる。
 
「できることなら……あなたを斬るのは、勝負に勝ったときにしたかった」

 そして妖夢は咲夜の方に向き直った。身勝手な遺憾を口にしながら、構える。
 図らずも、時間を斬るチャンスが再びやってきた。ただ、その形式は妖夢の望むもので
はなかった。それが残念だった。楼観剣で斬ることのできなかったものを、決して戦闘用
ではない白楼剣で斬るというのも、皮肉なものだった。

「いつでも来ればいいわ。一度勝負が決したからといって、強さの優劣が決まるわけじゃ
ないから」

 咲夜がそれに応える。そこに慰めはなかった。何度勝負を挑まれても負けはしないとい
う、挑発じみた余裕の響きがあった。それが彼女らしくて、妖夢は嬉しかった。

「……では、いきます」

 緩んだ頬を引き締めなおし、妖夢は気を練り上げ集中する。目は咲夜だけを捉え、残り
の全神経は刀に注がれる。
 抜刀。剣術における最速の構え。彼女を斬るために、妖夢は最高の自分をぶつけようと
していた。

「永遠に『虚空』が現れないことを……祈ります」

 スペルカードが発動する。烈風の如き力が刀に宿る。
 五感が鋭敏になる。一瞬が間延びする感覚が妖夢を包む。
 
「人鬼」

 その感覚に身を任せ、妖夢は飛び出した。かつてない速度で咲夜に迫る。時を止めるよ
り早く、時の流れより速く、二百由旬を零にするがごとく疾く、神速の一刀を繰り出す。
 斬り裂け、早く、速く、疾く、迅く、ハヤク――。
 
「『未来永劫斬』――!」

 そして、「虚空」は世界から消えた。


 紅魔館での先代メイド長失踪事件及び亡霊事件から一日が経過した。
 探偵の任を解かれた妖夢は、その日のうちに白玉楼に戻った。幽々子は何事もなく妖夢
を迎え入れ、妖夢も特に滞りなく元の生活に戻ることになる。
 幽々子は、紅魔館で起きていた事件も、そのときの妖夢の捜査経過も聞いてこなかった。
妖夢は事件内容をあまり話したくなかったから助かっていたが、何も尋ねられないのもそ
れはそれで不思議である。

「……幽々子様は、ご存知だったんですか?」

 だから妖夢のほうから幽々子に尋ねてみた。たった五日間で伸び放題に伸びた冥界の桜
を剪定しその後片付けをする様を幽々子が縁側で眺めていたので、あらかた片付いたとこ
ろで妖夢は訊くことにした。

「何をかしら?」
「紅魔館が動揺していたこと。それと……その原因です」

 全ての事件が解決したにもかかわらず、いまだに妖夢が分かっていないことがある。
 それは、幽々子の最初の言葉だ。
 妖夢が紅魔館に行くきっかけとなり、探偵をする遠因にもなった、「あなたに、空は斬れ
ないわ」という言葉。それを発した理由である。
 もしかしたら、幽々子は紅魔館での事件を知っていたのではないだろうか。そしてその
原因が「虚空」であることも。
 だから妖夢に言った。空間を斬ることはできないと。そう言えば、妖夢は何かしらの方
法で確かめにいく。その切っ先は必ず咲夜に向く。そうすれば、妖夢は紅魔館の事件に関
わることができる。そしてその事件の真相を知れば、自ずと自分の言った言葉の意味を理
解するだろうと。幽々子はそこまで考えていたのではないだろうか。
 妖夢の力、妖夢の刀に限界があること、それを悟らせるために。どれほど己を鍛えても
斬ることのできないもの、また斬ってはならないものがあることを教えるために。
 そう、確かに。空間は斬ることのできないものだった。常に論理的な壁と接している空
間は、どんなに力を込めても斬ることのできないものなのだ。理論的には空間を斬るだけ
の力の量を導き出すことはできるが、妖夢がその領域に達することはできない。だから未
熟だと言った。
 そして同時に、空間は斬ってはならないものだった。「虚空」というこの世界と性質を異
にするもう一つの世界。もしそれがこの世界に発現すれば、幻想郷を破壊してしまうかも
しれない。それは絶対に許されないことだ。
 妖夢は思い出す。かつて楼観剣と白楼剣の二刀を託されたときに説かれた禁忌を。
 空間は決して斬ることのできないもの。
 そして、決して斬ってはならないもの。
 それが妖夢の祖父にして師、魂魄妖忌の最後の教えだった。
 あのときは何だかよく分からなかったけれど、「虚空」を体験した今ならよく分かる。
 幽々子は、妖夢が忘れかけていた禁忌を思い出させようとしていたのかもしれなかった。
 竹箒を手に、妖夢は幽々子を見つめる。
 妖夢の問いに、幽々子はにっこり笑って返答した。
 
「――まさか。そんなわけないじゃない」

 それは、妖夢の予想していた答えだった。
 きっとそう言うだろうと妖夢は思っていた。のんびりしているようで、実は底が知れな
いほどに深い理を備えているこの少女は。いつだって、妖夢の期待を裏切ってくれるのだ。
 その言葉を、妖夢は反対の意味で受け取った。この人は、きっと全て知ってるんだろう
な、と。
 正直に答えないのは、妖夢がまだ未熟だから。精進して精進して、本当の意味を知りな
さいという、幽々子なりの指導法なのだ。

「そうですか」
「ええ、そうよ」

 もう一度笑顔を作り、幽々子は手にしていた団子を頬張る。妖夢は幽々子の応えに納得
すると幽々子に背を向け、地面を掃き出した。


 でも――。
 思う。そこには本当に辿り着けないのかと。
 理論的に考えて、実際に体験して、妖夢は確かに限界を感じた。妖忌の教えもようやく
理解できた。
 でも、それは本当だろうか。
 理論なんて、いくらでも覆せる。所詮は紙の上頭の中常識の下での話だ。それが絶対普
遍の真実であることなど、それこそ証明できない。
 納得はした。けれど、諦めたわけじゃなかった。
 到底到達しえない世界を見て、それでも妖夢の闘志は萎えなかった。そこでおとなしく
背中を丸められるほど、妖夢は人生を悟ってはいない。
 なら、目指す。
 反則的な能力を持つ八雲紫すら踏み込めない世界に、踏み込んでみせる。
 ただの理想ではなく、妖夢は実際にそうしたかった。なぜなら、人を一人この世から抹
消してしまったから。咲夜と同じように仕方のないこととはいえるけれど、それは事実だ
った。生者を、彼女の持っている生きる権利を放棄させたのだ。それは、誰が許しても自
分が許さなかった。
 だから、目指す。いつか辿り着いてみせる。ほんの数瞬しか会っていない彼女を救い出
してみせる。
 境界を斬り、空間を斬り、「虚空」を斬ってみせる。
 境界の向こう側にある世界を、斬る。
 それが、新たに作られた妖夢の目標だった。
 常識を覆そう。限界を超えよう。そう、それは境界、有限と無限の境界。限界という境
界の向こう側に進出し、この世界の法則や常識を覆そう。剣は、必ず応えてくれるから。

 妖夢は空を見上げた。雲のない、鮮やかな青空が広がっている。
 もう夏だった。冥界の蝉の鳴き声が聞こえ始めている。
 その空に、妖夢は誓う。地上よりもずっと高い場所にある冥界よりも、さらに高い世界
に誓う。
 待っていろ。必ず、お前も超えてやる。


 魂魄妖夢は剣を振るう。
 主、西行寺幽々子を護るために。

 そして、全ての境界を超えるために。


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