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東方十全歌 〜Lost World beyond the Border 第五話


 ――空間とは、決して斬れぬものよ。
 ――そして、決して斬ってはならぬものだ。

 彼は、そう言った。







 あくる日のこと。
 妖夢は咲夜に許可をもらい、紅魔館を出て紫の家を訪ねることにした。藍は出かけているかもしれないが、そのときは紫を叩き起こして呼んでもらうことにしよう。
 ちなみに、着ているのはメイド服ではなく妖夢の普段着である。これ以上痴態を晒したくなかったので、頼みに頼んで勘弁してもらったのだ。
 やはり着慣れた服はいい。数日の間を空けてから再び袖を通したとき、妖夢はしみじみとそう思ったのだった。

 やがて、八雲の屋敷が見えてきた。屋敷といっても白玉楼ほど広いわけではない。普段は二人で、時たま橙がいる程度の暮らしなのだから広くある必要はないとのことだった。
 正面戸の前に降り立つ。動くものの気配がするから、橙か藍のどちらかは必ずいるだろう。妖夢は戸を叩いた。
「ごめんくださーい」
「はいはいー」
 ぱたぱたと足音が近づいてくる。この声は藍だ。面倒事が増えずに済んだことに、妖夢は安心する。
「……はいな。おや妖夢、久しぶり」
「お久しぶりです、藍さん」
 がらりと引き戸を開け、藍がひょっこり顔を出す。そして妖夢を見て少しだけ目を丸くした。妖夢から八雲邸を訪ねることはほとんどないからだろう。妖夢はとりあえずお辞儀をする。
「珍しいな。何か用かな?」
「ええ。ちょっと力を借りたくて」
「ふむ? この時間に来たということは、紫様じゃなくて私のか?」
「はい、そうです。お願いします」
「そうか、分かった。上がってくれ」

 藍に案内され、妖夢は居間に通された。さほど広くない畳敷きの部屋の真ん中に、卓袱台と座布団が三枚ある。妖夢はその一つに腰を下ろした。程なくしてお茶と茶菓子を盆に乗せて藍が現れる。盆を卓袱台の上に置くと、藍がその向かいに座った。湯飲みを取り、妖夢はお茶を一口すする。
「ところで、メイド服じゃないの?」
「ぶふぅっ!?」
 そして、それを気管の方に流し込んだ。
「あっ! げふっ! うぐ、あつっ! げほっ、ごほっ!」
「だ、大丈夫か!?」
 藍の言葉に動揺して吹いたせいでお茶が跳ね上がり、鼻と唇に体当たりを仕掛けてきた。しかも喉も焼けるように熱い。だが湯飲みを手放して他を火傷するわけにもいかず、かといって片手では鼻と胸を同時に押さえることもできず、妖夢は咳き込むと同時に火傷を負うという珍体験をすることになった。
 藍が湯飲みを取り上げてくれたので、妖夢は喘ぎながらもようやく両方処理することができた。
「すまん……」
「いえ……」
 卓袱台に散ったお茶を拭き取り、妖夢の呼吸が整うと、藍は深々と頭を下げてきた。よもや妖夢がここまで驚くとは思っていなかったのだろう。お茶を吹き出したのは単純にタイミングが悪かったからだが。
「いや、お前が紅魔館でひらひらのメイド服着て辻斬り探偵やってるって……紫様が言ってたから」
「やっぱり紫様ですか……。ちなみに、辻斬りの部分は違います」
 藍が弁解する。情報源は非常に分かりやすかった。紫に見られた時点でろくなことにならないとは思っていたが、火傷という形で実現するとは思わなかった。やはり紫が絡むといいことはない。
「そうかそうか。ということは、その探偵業務のことで相談かな?」
 妖夢ががっくり肩を落としていると、藍が切り出した。話が本筋に戻ったので、妖夢は気を取り直して顔を上げてうなずいた。
「ええ、そうです。藍さんの知識をお借りしようと」
「メイド服で来てくれたら即決だったんだけどなあ」
「……そういう意地悪は言わないでください」
 お願いしますと妖夢が頭を下げようとすると、藍はにやついて冗談めかした。その様子から察するに、ちょっと見てみたかったのだろう。
(どうしてこう、皆セクハラが好きなんだろう……)
 幽々子も紫も、紅魔館のメイドも、そして藍も。自分の周囲にいるのが変人ばかりだと思うと妖夢は情けなくなってきた。確かに、どいつもこいつも一筋縄ではいかない変わり者ばかりなのだが。
「話戻していいですか?」
「はい、どうぞ」
 はぁー、と深くため息をついて、妖夢は再び本題に戻った。藍は面白そうに妖夢を見るばかりである。本当に頼りにしていいのか、いささか不安になってきた。
 しかし他はもっと頼りないのだから仕方あるまい。妖夢はお茶をすすると、口を開いた。

「紫様の使う空間の裂け目とは、一体何なのですか?」

 昨晩に見つけた紅魔館にある空間の裂け目。そこから発生した疑問。その答えが必要だった。問いかけて、妖夢は藍を見る。藍は口元に持っていっていた湯飲みを下ろすと、その中身に視線を落として考え出した。
「……また、説明の面倒な質問だな」
 そして、ぽつりと一言そう呟いた。
「そういうのは、やっぱり本人に聞いた方がいいと思うけどね」
「それはそうなんですが、紫様の説明を理解できるかどうか自信がなくて……」
「ふうん。なるほどね、それで私に聞きに来たのか」
 藍はお茶を一口飲むと、湯飲みを卓袱台にそっと置いた。
「ま、あの方の説明は私も完全には理解できないからね。私が理解している範囲でよければ教えるよ」
「十分です。よろしくお願いします」
 姿勢を正し、ぺこりと頭を下げる。それにつられてか、ああこちらこそと藍も頭を下げた。やっと話が軌道に乗って、妖夢は安心する。
「しかし空間の裂け目についてねえ……。一体どういう経緯でそうなったのさ?」
 ふむ、と息をついて藍が妖夢に尋ねた。確かに、紅魔館絡みでありながら紫に関係している質問だ。藍にしてみれば当然の疑問だろう。一から説明する義務が妖夢にはあった。
「ああ、それなんですが……」
 妖夢は一旦座りなおし、簡潔に経緯を説明した。紅魔館で発生している亡霊事件の解決を担当していること、先代メイド長のこと、爆発のこと、そして現場に空間の裂け目が発生していること。個々の要素はその裂け目の存在によって説明できるのではないかということ、その裂け目が一体なぜそこに発生しているのか分からないこと。それらを藍に伝える。
 藍は話の一つ一つにうなずきながら聞いていた。
「……だから、裂け目がそもそも何なのかが分かれば、事件も見えてくると思うんです」
「ふむ……」
「空間の裂け目って、一体何なんですか?」
 ひと通りの説明を終える。妖夢は藍の答えを待った。
 しばらくの間、藍は腕組みをして考え込んでいた。
 そして先ほどよりもやや長い沈黙の後、卓袱台の上に落としていた視線を妖夢の方に持ち上げ、そうだな、と切り出した。
「まず紅魔館になぜ空間の裂け目が発生しているかなんだが、これは可能性として十分にありうることだ」
 腕組みを解き、藍は説明し始めた。
「紅魔館は外と中で空間の構造が違う。それはつまりあそこが壁や屋根を境目とした、一種の結界を構築しているということだ」
 内と外の空間構造の相違。それは、妖夢も小悪魔から聞いた話だった。なるほど本来同じ一つだったものを二つの異なるものに分けるというのは、結界の構築に他ならないだろう。
「となれば、当然そこに綻びが発生しても不思議じゃない。壁そのものに穴が空くことも、中の空間が歪むことも現象としてある」
 空間の裂け目、即ちスキマは、そういった隔離された空間に発生するものである。通常の自然な空間に手を加えているわけだから、その構成の歯車がどこかで狂えば、簡単に変質してしまう。なぜ紅魔館に空間の裂け目が発生するのかという問いに対する答えは、紅魔館の特殊性ゆえだといえるだろう。
「しかしなあ……」
 藍の説明に、妖夢は納得した。紅魔館において紫の扱う裂け目が発生することは、ありえないことではない。
 だが藍は、何か腑に落ちないのか中空を見つめて唸った。
「何か?」
「いや、失踪事件が起きたのは十六年前だろう? 仮にその先代メイド長が空間の裂け目に吸い込まれたとしても、そこで十六年間も生きているというのは考えられないな」
 先代メイド長が殺されていないとするならば、空間の裂け目による神隠しに遭ったと考えるのが妥当だ。しかしそれが起きたのは十六年前。十六年という時間を経て彼女は再びあのエリアに現れた。それは、その間先代メイド長がずっと生きていたということを示している。
「空間の裂け目、つまり紫様の使うスキマの中は、私たちのいるこの世界とは別物だ。私も入ったことがあるが……まあ空気はあったが、水や食料なんてものはない。紫様が適当に放り入れたものも、時間が経てばあの中を漂ってどこかに行ってしまうことが多いのさ」
 あの中は生き物が生きる環境じゃない、とその環境を体験した藍は苦笑する。確かに、スキマの中には何もなさそうだ。ときたまあそこから覗いている目や手というのは、スキマの中の世界に存在する魔力が具象化したものだと藍は説明した。つまり、裂け目の中には実質何もないのである。
「彼女が何の妖怪かは知らないが、十六年間飲まず食わずで生きるのは不可能だろう」
 だから、そう結論づけることができる。
 あの場所に現れるのが先代メイド長であるという可能性も失われ始めてきた。
「仮死状態だったというのは……」
「ないな。それだったらこちら側に現れたときに歌を歌っているはずがない」
「あ、そうですよね……」
 それを失うまいと妖夢は考えるが、あっさり藍に否定されてしまった。歌を歌っているということは仮死状態であるはずもなく、同時に死んでもいないということだ。死体は歌を歌えないからである。
 また、現れるのが先代メイド長の亡霊であるということもないだろう。現れる前兆は確かに亡霊のものだが、行動に疑問が残る。殺されたことをアピールするためならばまだ分かるのだが、自然死だとあの場所に現れる意味はない。自分の存在を教えるために歌を歌っているというのならば、人通りの少ないエリアに現れるはずもない。長生きした妖怪はそれだけで意思の力が強い。だから恨みを持って成る自縛霊のように、自分が死んだ場所に留まる真似はしないのが普通だ。
 あの場所に裂け目が発生している危険性を教えるためか。ならばなおさら、特にレミリアや咲夜の元に現れるはずである。亡霊になっているならば裂け目を出て彼岸を経由しているわけで、さらに現れる頻度から鑑みれば裂け目はよく発生していたことになり、死んでから比較的早く亡霊になったと考えるべきだ。十六年も経ってから亡霊になって現れるというのもおかしな話である。
「別人、なんでしょうか……」
「別人の亡霊ってことになるな。しかしやっぱり、自縛霊にはならないだろう」
「うーん、そうですよね」
 それにたとえ生きていたとしても、裂け目に吸い込まれて呑気に歌を歌っているわけがないだろう。
「十六年か……。タイムワープでもすれば別なんだがなあ」
 再び藍は唸る。目を閉じてうつむき、深く考え出した。妖夢もあらゆる可能性を探ってみるが、どうにも決定打は出てこない。
「……ん? 待てよ?」
 とそのとき、藍の目が開いた。
「妖夢、裂け目のある場所で爆発があったって言ったな?」
「え? ええ」
 顔を上げ、藍は妖夢に尋ねる。確かに爆発はあった。妖夢はうなずく。
「それで、その犯人がいないと」
「いないというか、見つかってないんですけどね」
「そうか……それでスキマか……。しかし、あるのか……? でもな……」
 しかし、爆発と裂け目に何の因果関係があるのだろうか。妖夢は疑問に思う。
(そういえば、先代メイド長が裂け目に吸い込まれたとするなら、爆発は何だったんだろ?)
 空間に裂け目が発生するときに、論理的な壁を破壊するほどの爆発は起きたりしない。そんなことがあれば、綻びの多い博麗大結界は今頃とんでもないことになっているだろう。紫が音もなく裂け目を作り出していることからも、それは明らかである。
「境界を壊してるわけだから……それにスキマがあるわけだし……それなら……」
「何か分かったんですか?」
「……そうか、それでか」
 妖夢は藍に声をかけるが、藍の耳には届いていないらしい。何やらぶつぶつと呟くばかりで、藍は妖夢の方を見向きもしなかった。
「藍さん? 藍さん」
「…………ふむ」
「藍さんってば」
「おっと。ああ、すまない。一人で考え込んで」
 妖夢が声を少し大きくすると、ようやく藍の意識は妖夢に向いたようだった。藍はばつが悪そうにはにかむ。
「何か分かったんですか?」
 妖夢は再度同じ質問を投げかける。
 すると、藍はきっぱりとうなずいた。
「ああ。恐らくこの事件は……あ」
 そして説明をする、というところで、藍の口の動きが不意に止まった。
「どうしたんです?」
 妖夢はきょとんとして藍に尋ねる。
「……そっか。言っちゃまずいな」
 妖夢の顔をしばしじっと見つめた後、藍は目を逸らしてその説明を始める前に打ち切ってしまった。
「ええっ!? どうしてですか!? 教えてくださいよ!」
 予想外の回答に驚き、妖夢は腰を浮かせる。昨日同じようなことをした気がするが、気にしている場合ではなかった。
「いや、これはお前にも深くかかわっていることだ。私が教えてしまっては意味がない。お前が自分で答えを見つけるべきなんだよ」
 藍は静かに首を振る。そして、まあ落ち着けと中身の少なくなった湯飲みにお茶を入れた。そう突き放されては妖夢もやりようがなく、仕方なしに座布団に座りなおし、湯飲みを受け取ってお茶を飲んだ。これもなんだか昨日やったような気がした。
「教えてくれないんじゃ私には分からないですよ」
「まあそう拗ねるな。ヒントはあげるよ。事件は解決しなきゃならないからな」
 そう言って藍は笑った。いっそ藍が全部解決すればいいのに、と妖夢は拗ねたままだった。しかしこれは自分に課せられた任務である。自分で解決しなければならないのは確かだろう。妖夢は自分を無理矢理納得させることにした。
「それで、何が分かったんですか?」
「うん。非常に稀な、というか、本来ありえない現象が起きていたんだと思う」
「どんなです?」
「それを理解するためには、やはり空間の裂け目が何なのかということを知らなければならない。今から紫様の能力に絡めて教えるよ」
 多少長くなるが許せ、と藍は始めに断った。それくらいは妖夢も覚悟している。紫のように難解な言い方でなければ長くても大丈夫だろう。お願いします、と妖夢は改めて藍に礼をした。
 軽くうなずき、藍が説明を始める。
「知ってのとおり、紫様の能力は境界を操ることだ。基本的には何でもできる、万能な能力だよ」
 藍は苦笑する。紫の能力はあらゆる人妖が持つものの中でも規格外と表現していいだろう。どんな非常識なことでも、境界操作一つで常識にしてしまう。妖夢も幾度となくその能力の万能性を見てきた。
「その境界を操る能力の効果は、大きく分けて二つある。一つは、境界そのものをずらすことだ」
 藍は右手の人差し指と中指を立てて二を示した。そして、そこから中指を一本折り曲げる。
「例えば生と死の境界をずらすことで、あの方は生きたまま彼岸に渡ることもできる。境界をずらすということは、物事の許容範囲を変えるということだ」
 それが境界操作。不可能と可能の境目すら動かしてしまう。本当に無茶苦茶な能力だ、と改めて思った。
「そしてもう一つ、これが重要でな……。境界線を第三の領域に拡張することだ」
「……第三の領域?」
 聞いたことのない言葉が出てきた。妖夢は藍に聞き返す。
 藍はうなずいた。
「そうだな。えーと例えば……」
 藍はきょろきょろと辺りを見回す。そして立ち上がると、タンスから紙と筆を持ち出し、元の場所に戻ってきた。筆を墨汁につけ、藍は紙にさっと円を描いた。
「この線を境界としよう。この紙面は今境界ができたことによって二つに分けられた。即ち、円の外側の領域と内側の領域だ」
 紙を見て、妖夢はうなずく。なるほど、何もない場所に一本線が入れば、確かに二つに分断していると考えることができるだろう。
「ではここで問題。この線に幅はあると思うか?」
「え……?」
 突然の質問。思わず妖夢は藍の顔を見つめる。何も答えない藍を見て、妖夢は視線を紙の上に落とした。
 そこには黒い円が描かれている。その円を表す線に、幅はあるのか。
「それは、この絵には太さがあるから……という意味じゃないですよね?」
 見ただけならそれはすぐ分かる。線といっても描くからにはある程度の太さが必要なわけで、その意味では線に幅はあるといえる。
 しかし藍はそんな意図で言ったのではないだろう。抽象的なためうまく言葉にできないが、妖夢はなんとなくそれは理解していた。
「そう、概念的なもののことだ。概念的に考えて、二つの領域を隔てる境界線に厚みはあると思うかな?」
 藍はこくりとうなずいて肯定した。
 そうだ。何も描かなくても、「線」と言われれば誰でもそれを想像できる。想像、つまり概念の中で用いられる線に幅があるかどうかを尋ねているのだ。
「ない……んですか?」
 考えたこともないので明確なことは言えず、妖夢は自信なさげに答えを述べた。
「その通り、ない。ユークリッド幾何学において図形を表す線には幅がないと定義されるように、線は長さだけの存在で面を持たないものとして扱われるんだ。境界線もそれと同じでな、結界みたいに実体のあるものは別だが、概念的な境界はその幅を持たない線であるんだ」
 藍は笑顔を作った後、妖夢に説明した。
 言われてみれば納得できる。図形の面積を求めるとき、その線は面積に含まれない。線があるからこそ図形が存在できるはずなのに、線は図形から無視されている。それはつまり、線は図形ではなく図形を表す道具(ツール)であるということだ。
 なかなかに矛盾している。幅がなければ線は描くこともできないのに、幅のない線は確かに存在し図形を描いているのだ。だからこそ、「概念上」線は幅を持たないと「定義されて」いるのだろう。何とも強引な話だった。微妙にしっくりこない。
「実際にあるものなら、例えば水面。水と空気の間に、それらを隔てている境界線があるな」
「ええ」
 水は水。空気は空気。両者は異なる存在であり、大きな一つのものではない。したがってそこには境界が存在する。それは、水面という言葉で表現することができるだろう。
「その水面、水と空気両方に触れている境界線。そこに果たして幅は存在するかな?」
「うーん……。あるような、ないような……」
 藍の問いに、妖夢は湖を想像する。水面に視点を近づけ、その境界を見つめる。
 水と空気は確かに分かれており、水面という境界が存在する。面ではあるが、真横から見たとき、そこに幅はあるのだろうか。その境界をずっとずっと拡大して見たとして、それは「線」なのだろうか。
「ないよな」
「そう、かもしれません」
 実際に見たことなどないし、拡大して観測することもできない。だから妖夢は、藍の言葉にうなずくしかなかった。きっと幅はないのだろう。どうにもすとんとこないが。
「このように、境界には通常幅というものがないんだ。概念的な線を、そのまま体現している」
 何なら証明してみようか、と藍は悪戯っぽく笑う。冗談ではない。証明に使用されるであろう紙の束を想像するだけでうんざりしてしまう。お断りだった。第一、証明されたところで理解できないだろう。
 境界とは要するに、この世界に実在する概念なのだ。妖夢はそう考えることにした。
「さてさっきも言ったが境界を操る能力のもう一つの効果は、線を第三の領域に拡張すること、つまりその『線』に幅を持たせることなんだよ」
 妖夢が証明を丁重に断ると、藍は少し残念そうな顔をした。しかしすぐに気を取り直して説明を続ける。
 が、それは妖夢の頭をますます混乱させてしまった。
「……線に?」
「うん」
「幅を持たせるって……幅は元々ないんじゃないんですか?」
「そう、ない。しかし、境界線は確かに存在するんだ」
 妖夢は首を傾げる。線というのは長さだけのものであり、面も体も持たないはずだ。ところがその定義を覆し、線を面にしてしまうという。随分と矛盾していると思った。
 藍はそれを、境界を操る能力だからの一言で片付けてしまった。境界を操るとは境界線を操ることであり、自由に動かす以外に境界線そのものを変質させることもできるのだという。操れるのだから変化させることも可能、そういう理論だった。
 先ほどから納得しかねる話が続く。境界というのが既に抽象的で分かりにくいものだから仕方がないかもしれないが。
「本当はもっときちんとした理論体系があるんだけどね、紫様の説明で私が理解できたのはそこまでなんだ」
 藍は申し訳なさそうに笑う。彼女でも分からないのか、それじゃあ全部説明されても自分には結局分からないままだろう。理論はどうあれ、境界操作にはそういう効果があるのだと、そう決めてかからなければならないようだった。
 妖夢は先を促すことにした。
「境界線を操作し、その範囲を拡張する。そうすると、そこには新しい領域ができることになるだろう?」
「ええ」
「それが第三の領域だ。二つの領域のどちらにも属し、同時にどちらにも属さないエリア。境界が既にその特質を持っているわけだから、それを拡げた第三の領域もその特質を引き継いでいるんだな」
 水と空気の境界面を操作し、そこに高さを与える。それは一つの空間を構成することになる。境界は既に水でも空気でもない、独立した概念である。だから第三の領域は、二つの世界に触れていながらどちらの特徴も持たないのだ。
「その第三の領域が、紫様の使う空間の裂け目だよ」
 この世界の空間とは構成が違う、いわゆる亜空間だな、と藍は言った。
 つまり紫は、空間に存在する境界線を変質させ、拡張し、裂け目を発生させているのだ。あれは一見すると空間を切り裂いているが、本当は切っているのではなく拡げているのだという。
 第三の領域自体は、考えてみればいくらでも存在する。妖夢自身がそのいい例だ。人間と幽霊のハーフ。半分生きていて半分死んでいる。要するに生きながらにして死んでいるのだ。生者のいる領域が生の領域。死者のいる領域が死の領域。妖夢がいるのはその両方であり、どちらでもない第三の領域、生と死の境界なのだ。
「まあこれは紫様が作り出すときね。自然に発生する場合はちょっと違う」
 妖夢が己を例にあげてうんうんうなずいていると、藍が続けた。
「自然に発生する空間の裂け目、第三の領域は、境界線が曖昧になると発生する。空間に綻びができると、それに接している境界線も影響されて曖昧になるんだ。そうなると、境界自身が曖昧になるわけだから、それが線を保つことはできなくなってしまう。線でなくなった境界は勝手に拡散し、面や体を構成するんだ」
 それが自然発生する裂け目。紫の能力が「線」として在る境界を拡張するのに対し、自然発生するものは線が線でなくなってしまうのだ。
 紅魔館に発生している空間の裂け目は、空間の綻びによってそこにあった境界線が曖昧になり、構成されたものだったのである。
「なるほど。そうだったんですか……」
 途中の理論でやや腑に落ちないところもあったが、結論を聞けば納得できる。空間の裂け目とは何か。それは二つの領域を隔てている第三の領域なのである。二つの領域のどちらの特性も持ちながら、どちらでもない世界。元々面も体も存在しなかったものだから、その世界には当然何もない。虚無だけがある世界なのだ。

「よく分かりました。ありがとうございます」
「うん。でもな、妖夢」
「はい?」
「説明はまだ終わってないよ」
「……は?」
「今のは空間の裂け目が何であるのかを説明しただけだ。今度は境界について説明しなきゃならない」
「え、でも……」
「それで先代メイド長がどうなったか分かった?」
 少し、考える。藍がしたことは、空間が第三の領域であると説明付けただけだった。実は、そんなに話は進んでいないのである。
「……分かりません」
「だろ?」
 うなずかざるをえなかった。妖夢はまだ何も分かっていないのである。
「じゃあ続けようか。さっき境界は二つの領域のどちらにも属し、同時にどちらにも属さないと言ったな?」
「はい」
「それが境界線の特質であり、また境界線が存在できる理由だ。さらには全ての事物がそこに在ることのできる理由でもある」
 再び講義が始まった。そういえばメモを取るのを忘れていたことを妖夢は思い出す。今さらという気もするが、妖夢はメモ帳を取り出して藍の話を聞くことにした。
「同じ性質を持つものは同じものだから、触れ合った瞬間に混ざって同じ一つのものになる。これはいいな?」
「はい」
「逆に、性質の異なるもの、特にそれが相反するものになると、これはとんでもないことになる。触れ合った瞬間に膨大な力が発生するんだ。二つの方向から性質の異なる力をぶつけると、それらは互いに弾ける。同じ性質であればぶつかったところで穏やかに収束していくんだが、性質が反しているとそうはいかない。どちらも譲らず相手を飲み込もうとし、けれど全く性質が違うわけだからそれができず、行き場を失った力は暴走し、とてつもない破壊を生み出す結果となるんだ」
 簡単に例えるなら、犬猿の仲ということだな、と藍は言う。仲の悪いもの同士の喧嘩は、仲が悪いほどその熾烈を極める。物質には仲のいいも悪いもないのだが、要するに相容れないもの同士は周囲を巻き込む力を発生させてしまうということだ。
「ちょっとした反応で、人間の里くらいなら簡単に消し飛ばすほどの威力を発するわけだ。量によっては、幻想郷そのものがなくなる可能性もある」
「そんなにも?」
「観測したことはないけどね。理論上、そうなると考えられる」
「へえ……」
「実際のこの世界でそんなことが起きないのは、境界があるからなんだ」
 妖夢がメモを取るのを待ち、全てを書き終えると藍はその先を表し始める。
「境界は第三の領域。どちらにも属さない固有の属性を持つ。それは、二つの領域が出会って反応するのを防ぐ役目も持っているわけだ」
「境界とは反応しないんですか?」
「言っただろう? 境界はどちらの領域にも属しているんだ。同じ属性を持つものに対して相反する反応など起こりえるはずがない」
 境界は二つの領域のどちらでもない属性を持つために、領域を二つに隔てることができる。そしてどちらの属性も持っているために、反発するという反応を起こさない。だというのに一つのものにならないのは、やはりどちらでもない属性を持っているから。
 その矛盾した特質が境界を境界たらしめ、全ての事物事象をこの世界に存在させることになっているのだ。常識は非常識の上に成り立っているのである。
 幅はないのに存在できる。どちらにも属するのにどちらにも属さない。境界自体が矛盾した存在というわけだ。それを操る紫がとらえどころのない人物であるのももっともであると妖夢は思った。
 空間の裂け目は、境界が拡張されたもの、もしくは曖昧になって拡散したものである。
 そして境界は、二つのものとは違う属性と同じ属性を含んでいる独立した領域である。
 それが、妖夢の問いに対する藍の答えだった。


「さてと。それじゃ最後に、お前の話をしようか」
「へ? 私?」
 藍の説明をメモに記してまとめ、その内容とにらめっこする。境界や空間の裂け目については随分と理解が深まったといっていいだろう。
 そうしていると、藍がさらに話を続けてきた。妖夢は素っ呆けた声で顔を上げる。
「紫様から聞いたよ。何でも、空間を斬ることはできないって言われたんだって?」
「あ、はい……」
 幽々子から紫へ、紫から藍へ。そういう経路なのだろう。幽々子としては友人との他愛もない会話の種なのだろうが、妖夢にとっては紫に知れるだけでろくでもないことなのだ。わざわざそんなことまで話さなくても、と思う。
「まあその通り、空間を斬ることは不可能だな」
「それは、そもそも空間が斬ることのできないものだからなんでしょうか?」
 妖夢は自分の本来の目的を思い出した。幽々子に空間を斬ることができないと言われ、紅魔館にそのヒントを求めて行ったのだ。探偵をしている間にも何度か考えたが、妖夢が未熟ゆえに空間を斬ることができないというものと、空間を斬ることそのもの自体が不可能な事柄であるという二つの候補に絞られていた。
 果たして、空間を斬ることはできるのか。幽々子は妖夢にはできないと言っていたが、その意味はどちらなのだろうか。
「答えよう。その通りだ」
 妖夢の問いに、藍は肯定の答えを示した。
「何もお前だから斬れないというわけじゃなくて、空間は誰にも斬ることができないものなんだ。紫様でも……無理だろうな」
 それは境界を操作しても不可能ということ。八雲紫という幻想郷最強クラスの妖力はもちろん、万能と言わしめる境界を操る程度の能力を持ってしても、空間を斬ることは叶わない。
 それでは、自分に斬れるはずもないだろう。
(じゃあ……どうして幽々子様はあんなことを?)
 確かにあらゆるものを斬ってみせるとは心にあるが、この世に体のあるうちに全てのものが斬りきれるとは妖夢も思っていない。幽々子を守るため、幽々子に害なすものを対象にしているだけだ。だから、そうなったりしない限り妖夢は空間を斬ることなどしない。
 なのになぜ、幽々子は空間のことを妖夢に教えたのだろうか。単に妖夢を諌めるためとは思えなかった。何か、別の目的があるような気がしてならない。それに、幽々子は妖夢に斬ることはできない、とも言っている。空間が誰にも斬ることのできないものであるのならば、なぜそのように言わなかったのだろうか。あの言い方では、腕を上げれば妖夢に空間を斬ることができると取られてしまうのに。
「どうして空間が斬れないかの理由なんだが」
 妖夢が考え込んでいると、藍が続けた。
「それは、私の口からは言えない」
「……まあ、そうですよね」
 しかし説明は続かなかった。妖夢もそれにはうなずく。先に自分で解決すべきだと言われているし、妖夢自身もそう思っていた。
「ただ、その答えに繋がることはひと通り説明したつもりだ。お前がここで得た知識と、そして恐らく既に持ち合わせている知識をうまく組み合わせれば、きっとそこに辿り着けると思うよ」
 妖夢は再びメモを見る。そこには紅魔館で書き溜めた情報と、藍から得た空間の裂け目及び境界に関する知識が収められている。一見、何の関係もなさそうに見えた。しかし、それらには空間のことを示す記述が多数あり、決して無関係ともいえない。直接的な答えこそないが、そこにあるものがヒントであるのだろう。
「それでも分からないというのであれば、大ヒントをやろう」
「大ヒント?」
「背理法さ」
「……はいりほう?」
 楽しそうに、藍は笑顔を作る。
「ある命題とは反対の事柄を仮定し、それが成り立つことを示すことによって生じる矛盾を指摘することで命題が真であることを証明する数学的な手法だ。ある事柄が成り立つとするならその否定は成り立たないわけだから、それを証明すればいいということだな」
 証明。藍の好きそうな話である。
「それが、ヒントなんですか?」
「うん。まあ背理法そのものが答えじゃなくて、そこから導き出されるものこそが答えだけどね」
 メモに取る。背理法、命題の否定。それ自体は決して答えにはなりえなくて、しかし答えを求めるには最も近道になりうる手段。
「一度、命題を否定してみな。きっと、分かるから」
 締めくくりに使われた藍の言葉が、妖夢の耳に残っていた。







 紅魔館に戻ってきてから、妖夢は自分の部屋で長い時間考えた。
 恐らく、この時点で全ての情報は出揃っているだろう。メイドや美鈴、小悪魔、レミリア、藍。それぞれが提示した事件に関する情報、或いはその関連知識。それらは、全て繋がっているのだ。
 組み立てる。ばらばらに転がっているそれぞれのピースを拾い上げ、ジグソーパズルを解き上げてゆく。噛み合いそうになく見えるものも、見方を変えればぴたりとはめることができた。
 やがて、一枚の絵が見えてくる。ピース一枚では何なのか分からなかったものが、組み合わさることによってその全貌を露にする。紅魔館で起きた亡霊事件、その全容が、妖夢には見えてきていた。
 ただそのパズルは、今まで得たピースだけでは完成させることはできなかった。ピースが足りていないのだ。それも、その絵の中心に近い部分が。
 けれど、それがどこにあるのか、どんな形をしているのか、妖夢にはほとんど分かっていた。ある一つの仮定。把握している情報から導き出される、紅魔館に発生した事象。
 藍は言っていた。それは、本来ありえないことなのだと。
 そう、妖夢の推理が正しいならば、それは確かにこの世界では発生しえない現象なのだ。
 だがそれは起きた。この世界の秩序を乱すような現象が、この紅魔館で起きたのだ。
 その現象こそが、最後のピース。その絵を最も分かりやすく表す一枚だった。
 そしてもし、そのピースがその絵のもので、その絵の欠けた場所に収まるものなのだとしたら。この世界では本来ありえない現象が起きるのだとしたら。
 妖夢は辿り着く。
 ある一定の条件下において――。

「空間は……斬れる」

 この世界の法則は覆すことができる。
 妖夢は部屋を出た。部屋を出て、亡霊事件の現場へ向かう。
 妖気が漂っていた。拡散しているためか妖夢には見えないのだが、そこには空間の裂け目が発生している。
 自然に発生した第三の領域。それは、境界線が曖昧になって拡散しているがゆえに現れるもの。
 それが示す意味。この何もない空間にそれが発生してしまっている意味。
 それこそがこの事件の答え。謎を解き明かす答え。そして、妖夢の求めていた答えだった。全ては、繋がっていたのだ。
 妖夢は楼観剣を抜く。この事件から導き出された仮定を証明するために。即ち、空間を斬るために。
 刀を大上段に構える。スペルカードの力を纏う。自然の空間であればどうやっても斬ることなどできはしないが、ここ紅魔館このエリアこの領域だけに限れば、未熟な自分であっても斬ることができるのだ。あとは、どれだけ力を込めて、どれだけ正確に斬れるかが鍵となる。
 そう、これは鍵。全てを解き明かすための、鍵だった。
「断迷剣――」
 緑に光る剣気が巨大な刃を形成する。
 斬れ。世界を。存在できない、存在してはならないこの空間を。
 振り抜け。早く、速く、疾く、迅く――。
「『迷津慈航斬』!!」


 ――ピィッ


 空(くう)が短い悲鳴をあげる。
 刀から、確かな感触が伝わってきた。斬った、と。
 その瞬間――。
 妖夢の視界の隅に、一人の女性が突如として現れた。何の前触れもなく、まるで初めからそこにいたかのように。
 その女性が、メイド服を着ていたこと、長いブロンドの髪を持っていたこと。
 それだけを視認して。
 妖夢は、膨大な力を伴って発生した爆発に巻き込まれ、意識を手放した。

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